第1章 流されガール、丸め込まれる

《1》ガールズトーク

「そっかあ、もう三ヶ月になるんだね」


 対面に腰かけた親友が感慨深そうな声をあげる。どこか遠い目をして呟く仕種に、私はつい噴き出してしまう。


 彼女の手元にはアイスカフェラテがひとつ。プラスチックのカップを泳ぐ氷が小気味好い音を立てて崩れ、私に夏が近いことを思い出させる。

 対する私は、ホットのブレンドコーヒーを啜りながら、私も冷たい飲み物にすれば良かったかなぁと小さな後悔を覚えていた。


 五月半ば、天気は快晴。

 私、那須野ゆずは、久しぶりに――といってもせいぜい一週間ぶりだけれど――同期の宮森みやもり果歩かほと職場近くのカフェを訪れていた。昼休憩で唐突に外へ出たくなり、私から声をかけたのだ。


 昨年までは勤務先が違ったものの、一年前に私が本社に異動してきたことで、元々交流があった私たちは一気に親しくなった。

 休憩時間や退勤後に食事へ出かけたり、あるいは今のように、別れた恋人との話をあけすけに切り出せる程度には気心が知れている。


「うん。時間の流れって本当、あっという間だよねぇ」

「やだ、なにそれ。年寄りくさい」

「いいですよー、どうせ枯れてますよーだ」

「よく言うよ、あたしより若い癖に」


 大卒で入社した果歩は、短大卒で入社した私よりもふたつ年上だ。最初の頃こそ改まって声をかけていたけれど、一年前の異動を機に普通に話すようになった。

 長く伸びた深い茶色の髪、巻かれた毛先、手入れの行き届いた指と爪――とにかく果歩は可愛らしい。そしてその外見からは意外なほど気さくで、頼れる姉御肌といった性格をしている。異動直後、新しい環境の中でなにかとナーバスになりがちだった私は、彼女の存在とアドバイスに何度救われたか分からない。


 私はといえば、果歩とは対照的な外見をしている。幼稚園児の頃から列の最後尾をマークし続けた身長は、今でもそこらの男性陣と並ぶ……いや、あっさり越えるケースも珍しくないくらいには高めだ。

 顔立ちについては、今まさに話題にしている〝三ヶ月前のできごと〟のせいでメンタルを抉られている分あまり触れられたくないけれど、極めて地味だ。メイクでなんとか持ち直しているだけで、自分としてもコンプレックスではある。


 ……いや、違う。

 私がコンプレックスに感じているのは、素顔そのものというよりは、それに対する周囲の目だ。


「けどホントあり得ない。デリカシーがないにも限度があるよ、あいつ」

「うーん、でもまあ仕方ないよ。なんていうか、元から歯に衣着せないタイプだったし」

「それにしたってクズだよ、別れて正解だからあんな奴! いちいち許してたらどんどんつけ上がるよ、もっとひどいこと言われてたかもしれないんだよ!?」


 思い出して苛立ちが再燃したのか、果歩はさも不愉快そうにテーブルを指で数回タップした。


『こいつのすっぴん、マジで可愛くないんですよー』


 ……決して閑散としているわけではない休憩室で、しかも私の眼前で、さらには面白おかしく笑いを取るかのような口調で。

 軽率にそれを口にした元恋人の声がふと脳裏を過ぎり、堪らず顔をしかめてしまう。

 私の表情の変化に果歩はすぐさま気づいたらしく、しまった、と言いたげに息を呑んだ後、口早に謝罪を零した。気を遣わせたことにこちらこそ申し訳なくなり、私は片手をひらひらと振り、笑って答える。


「いいのいいの。ただ、なんで私がそんなこと言い出したか、多分向こうは分かってないのかな。それがちょっと憂鬱」

「え? はっきり言ってやったんじゃないの?」

「ううん。はぐらかされそうだったし、それに軽い感じで謝られるのもそろそろキツくて。細かくは言ってないの」

「ええー、全部言ってやったほうが良かったんじゃない? 今回ばっかりはデリカシーがなさすぎるあいつが百パーセント悪い!」


 果歩の声を聞きながら、先ほどとは違う理由でちくりと胸が痛んだ。

 私の悪い癖だ。相手に、自分の本心を伝えるのが苦手なのだ。なにも元彼に限ったことではなく、友人や家族、他の誰に対しても。


 だから、果歩は特別な存在だ。

 どんなことも話せる友人は、彼女が人生で初かもしれない。


「うーん。今回の話だけじゃなくて、いろいろ積もり積もってって感じだったから、なんか面倒で」

「そっかぁ。っていうか聞けば聞くほどあいつ最低じゃん……」

「はは、でももう終わったことだし。社内で顔を合わせるかもしれないってのがキツいけどね」


 元彼の雄平ゆうへいも、果歩と同じく私の同期だ。

 つまりは果歩とも同期であり、だからこそ果歩の怒りは強い。なまじ顔見知りである分、不愉快な気分は簡単に嵩増しされるのだろう。


「あーもう、つまんない男の話なんかやめやめ! で、どうなのそれから? 最近話してなかったけど、新しい恋とかは……」

「あっはは、ないない。独り身って気楽だなぁって」


 笑いながら、さっきのように手をひらひらと振ってみせると、果歩はあからさまに顔をしかめた。なにか言いたそうな顔だとは思ったけれど、あえて私からは触れない。

 果歩には、大学時代から付き合っている恋人がいる。相手は彼女より三つ年上で、結婚もちらほら考えているみたいだ。


 そういうのは、私はまだいい。

 年齢的な問題というより、私自身の問題だ。考えられない。考えたいと思う相手も今はいない。そのことに、焦りや不安を感じているわけでもない。

 誰かに必要以上に気を遣う必要もなく、自由だ。縛られもしない。休日にひとりでふらっと出かけるなんて、雄平と付き合っている間は基本的になかった。


 本音を言うなら、少し寂しく感じる日もある。でもそれだけだ。

 気が軽い。だから今は、しばらくこのままでいいかなと思う。傷ついている自覚はあまりないけれど、きっとまだ、つけられた傷は癒えていないのだとも。


「ゆず。あたし、ゆずに気遣い上手なハイスペックイケメンが降ってきますようにって祈ってるからね」

「いや、そんなこと祈らなくていいよ……それよりなら残業ゼロとか祈っててよ~」


 怒ったり悲しげだったり、くるくる表情を変えていた果歩がやっと楽しそうに笑う。


 ……一緒になって笑った私は、このとき露ほども想像していなかった。

 まさか本当に、自分のパーソナルスペースに、顔見知りとはいえハイスペックイケメンが降って来た挙句、その人物にとんでもない要求をされることになるなんて。

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