深淵サンクチュアリ

夏越リイユ|鞠坂小鞠

《1》告解

 天を仰げば星屑、足元には真紅の花びらがどこまでも広がっている。


 漆黒の空には、私の住む街からは確認することが難しい星座がいくつか、それも鮮明に瞬いていた。ときおり流星が駆ける様子も見える。

 満天の星と呼んで差し支えなかった。こんな星屑まみれの空を目にするのは、幼い頃に母に連れられて向かった母の生家――深い森の奥に佇む邸宅の庭から眺めたとき以来だ。


 遮るものがなにもない分、今見えている景色はかつて見たそれとも微妙に異なる。目線と同じ高さまで、視界が煌めく星々で埋め尽くされている光景は、この上なく非現実的だった。


 空と地の境目ははっきりしていた。地面には、薔薇と思わしき真っ赤な花びらが一面に散らばっている。いや、地面を埋めていると言ったほうがきっと正解に近い。

 靴先が隠れるくらいの厚みを持った花びらの集まりは、星空と同じように、際限なく一帯を埋め尽くしている。星空と花びら、なかなか結びつかないもの同士が空と地の境界線を生んでいる事実は、にわかには受け入れがたかった。


 ようやく理解が及ぶ。

 これは夢だ。いや、もっと踏み込んだ表現をするなら、おそらくここは。


 ざ、と膝を風がすり抜けていく。

 ざわりと蠢いた真紅の花びらに気を取られて足元へ目を落とし、再び視線を上げたときには、目の前にひとつの人影があった。


「ひ……」


 なにもない空間から突如現れたとしか思えず、私は派手に息を呑んだ。

 数多の薔薇の花びらが、まるで明確な意志を持って私の足に絡みついているかのような錯覚に溺れる。声ならぬ声が微かに喉を通り、それでもその場を離れることはできなかった。


 目の前の人物は男性のようだった。

 仕立ての良い燕尾服を身に着け、手には白い手袋を嵌めている……ように見える。どこかの貴族に雇われた執事に見えなくもない。しかし、顔を覆うオペラマスクがその雰囲気を壊してしまっている。男の表情はマスクに隠れ、ちらりとも覗けそうにない。

 しばしの沈黙の後、訝しげな視線を投げたまま微動だにできずにいる私へ、相手は静かに語りかけてきた。


「ようこそ。なにかお探しですか、ご令嬢。」

「……あなたは?」


 声は低い。男性で間違いないらしい。

 つっけんどんな私の返しにも、彼は動じた素振りを見せない。笑ったように見えなくもなかったが、それは続く言葉にすぐさま掻き消されてしまう。


「それは、私の問いにお答えいただいたときにお話ししましょう。さて、あなたがお探しなのは日常でしょうか。それとも、それとは懸け離れた場所にある非日常ですか。」

「……え?」

「答えが前者なら、このまま私に背をお向けください。あるべき日常へとお戻りいただけるでしょう。ですがもし後者をお求めなら、……どうか私の手をお取りいただけないでしょうか。」


 答えに詰まる。

 自分の問いに答えるなら私の問いにも答えると言う。しかし、そもそもの問いかけが、私が思い描いていたものとは懸け離れていた。すぐには答えられず、訝しさに拍車がかかっていく。


 逃げようにも足が動かない。先ほど漠然と感じた花びらの拘束は、今となっては完全に現実のものとしか思えなくなっていた。

 敷き詰められた薔薇の花びらが、私の足をこの地面に縛りつけて放そうとしないのだ。まるで、それ全体がひとつの意志で動く生き物のように。


 息が震える。

 そのとき、オペラマスクの奥に隠れた視線が小さく揺れて見えた。その動きに重ねるかのごとく、近い位置から男の声が耳を揺らす。


「さあ、選んでください。エマ。」


 不意に名を呼ばれ、私は目を瞠って男を凝視した。

 見れば、男は私に「選べ」と言いながら、白い手袋を被せた手を私へ伸ばしている。すぐにでも取れと言わんばかりに。


 どうして私の名を知っている。この男は誰だ、私の知っている誰かなのか。

 顔を覆う仮面が邪魔をする。先ほどからなんとなく聞き覚えがあると感じる声も、まるで靄だ。あっさりとその正体を眩ましてしまう。


 その手を取ってはいけない。

 確かにそう思っていた。それなのに。


 首を横に振りながらも、私は自分の手のひらを男のそれに重ねてしまった。

 触れた手は、手袋をしているにもかかわらず冷たい。ひんやりとしたその感触が、私からますます現実感を剥ぎ取っていく気がしてならなかった。


 男は私の目の前で、どうしてか肩を強張らせた。マスク越しに覗く瞳が動揺に揺れているように見え、その仕種に私は既視感を覚えた。

 揺れる瞳。手のひらが湛える温度。手を取れと言いながら、取れば取ったで拒絶するという矛盾に満ちた態度。


 この感じは……そうか。

 どうして、今の今まで忘れていられたのだろう。


「お答えしましたよ。今度は私の質問に答えてください、あなたのお名前は?」

「……私にはすでに名はありません。好きに呼んでくださって結構です。」

「……そう」

「では参りましょうか。もう後戻りはできません、お分かりですね。」


 最後の言葉と同時に、星空と薔薇の足元が消え失せた。

 急に足元が抜け落ちる危険な感覚に、私は思わず身を竦める。


 目の前にいたはずの男は、いつの間にか私に寄り添うように佇んでいた。

 手袋を嵌めたままの手が私の手を引く。やはりひんやりとしている。しっかりと握り締められた手は、簡単に外れそうにはなかった。


 宙に浮いている。

 異様な状況を前に、私は目を閉じることも忘れていた。

 先ほどから、これは現実ではないと十分すぎるほど思わされていたものの、このような状況に置かれては驚くなというほうが無理がある。


 空を飛んでいるかのごとく、ふわふわと目線が揺れる。

 気づけば、私の生家がある街が眼下に広がっていた。黒く塗り潰されていた空には、星の代わりに燦々と輝く太陽が姿を見せている。見慣れた光景を前に、胸が不穏に軋んだ。


 浮いた身体の隣には、常に男の姿がある。

 いつしかオペラマスクを外していた彼の顔を見て、私は確信していた。

 彼は、私に顔を見られても問題ないと判断した。だから派手な仮面を外し、素顔を晒している。


 見れば見るほど恩師によく似ていた。

 数年前に亡くなったはずの、私が今なお敬愛し続けている恩師に。



     *



 徐々に高度を下げて地面へ近づいていく身体は、綿になったように軽い。

 手を引かれ、私はゆっくりと地面へ降り立った。


 教会の鐘の鳴る音が聞こえ、そちらに視線を向ける。

 黒い服を着た人混みが見えた。今日は葬儀が執り行われているらしい。見慣れた教会の天辺にそびえる十字架が、いつにも増して眩しく光り輝いている。


 降り立った足で、私は人だかりのほうへ歩みを進めた。驚いたことにと言えばいいのか、それとも想像通りと表現したほうが正解に近いのか。その場に居合わせる誰にも、私の姿は見えていないらしかった。

 荘厳な扉をくぐり、建物の中へ足を踏み入れる。浮かされたような私の足取りに、男はそれでもなにも言わず、後ろからしっかりとついてきていた。


 お父さまとお母さまの声が聞こえる。

 泣いているようだ。ふたりが身に着けているのは、やはり黒い服……喪服だ。ふたり並び、柩に縋りつきながら泣いている。


「……あ……」


 随分と殊勝な態度を見せていると思った。

 特に父だ。彼のそんな姿を目にするのは、言ってはなんだがひどく新鮮だ。


 泣き崩れる両親の斜め向かいにある人影を認め、私は息を呑んだ。

 最近になって新しく宛てがわれた婚約者だったからだ。


 両親と同じく、彼も黒の正装に身を包んでいる。

 きつく握り締めた彼の拳からは血が滲んでいた。にもかかわらず、顔にはほのかに安堵が覗いても見え、そこまで思い至ってようやく記憶が鮮明に蘇ってくる。


(……ああ)


 ――そうだ。この人には、恋人がいたのだ。


 ある事件の後、私は転校を余儀なくされ、転入先の高等学校を卒業した。

 そして実家へ戻った直後に、お父さまが無理やり私とあの人の婚約を決めてしまった。

 自ら命を絶つことになった元婚約者――アレンのことなど、もはや露ほども記憶に残っていないとばかりに、お父さまはあの人のもとへ嫁げと私に命じた。


 するすると紐が解けるように記憶が蘇ってくる。

 靄がかかった感じはすぐさま払拭され、私はかつての婚約者の死と、その原因に思い至る。


「思い出しましたか。」

「……はい。先生」

「もうそんな呼び方をする必要はありません。私は守るべき生徒の命を守れず、嘆きの末に自ら死を選んだ、ただの背徳者ですから。」


 ざわめきが一瞬途絶えた。

 ふわりと身体が浮き、地面についていたはずの両足が空へ高く舞い上がる。


 先生に抱え込まれるようにして浮かんだ先、柩の中に横たわる人影が覗き見えた。

 白いドレスを身に着け、頭の周りに白い花をたくさん添えられたその人物が。


 ああ、もう少しで、顔が見えそうだ。


「私は先生を尊敬していました」

「……。」

「あの日、先生が命懸けで、教室で自殺を企てたクラスメイトを……アレンを止めようとする姿を目にする前から、ずっと」

「……エマ。」

「先生の行動は無駄なんかじゃなかった。人として、教師として、あなたはあるべき姿を貫いた。あの日、教室の中にいた誰もがそう思っていたのに」


 先生はなにも言わない。

 目を合わせず独り言のように口を動かし続ける私の感情を欠いた声を、ただ静かに聞いてくれている。


「私、先生がずっと好きでした。尊敬だけではなくて、ひとりの男性としてお慕いしていたの。いずれ他の男性のところへ嫁がなければならない、だからこんな気持ちは許されない……そうと分かっていても止められなかった」


 そのとき、視界を遮っていた人影が動いた。

 柩の中のそれの顔が、しっかりと視界に入り込む。


 艶やかに巻かれた、胸元まで伸びた金色の髪。

 紅が引かれた口元、美しく施された死化粧と硬く閉じた両目。


 そこに眠っているのは私だった。

 死に彩られた私の顔は鮮やかで、そして、どこまでも残酷。


「私、自殺したんですね。先生を追って」

「……うん。君は、僕の死を知って、僕の墓の前で命を絶ってしまったんです。」


 強い風が、私たちの間を吹き抜けた。



     *



 今から二年前。

 先生は、私の同級生であるアレンの自殺を止めようと、彼が持つナイフを奪おうとして誤って刺された。

 半狂乱になったアレンは、そのまま窓から飛び降り、結局命を落とした。


 それから半年間、先生は意識不明の重態に陥ったままだった。

 私はといえば、何度も何度も先生の見舞いへ向かい、意識のない先生に「先生のしたことは無駄なんかじゃないよ」と話しかけていた。


 それを両親に知られた後、ふたりの手によって、私は遠くの全寮制の学校へ転校させられた。

 両親は、私が先生の影響を受けて教師になることを夢見るようになったと知り、焦っていた。

 家の道具として結婚するだけの、ただの駒。そんな私に夢を与えてしまった先生に、それ以上私が固執することを恐れたのだろう。


 貴族の女生徒ばかりが通う学校を卒業し、早々に自宅へ戻ったその日、私は両親から先生の死を伝えられた。

 先生は、私が学校を移った直後に意識を取り戻し、アレンを救えなかったことを嘆いて病院の屋上から身を投げたという。


 私の世界からすべての色が消え失せたのは、その瞬間だ。


 話を聞いた翌日、喪服を身に着け、真っ白なユリの花束を手にして、私は先生が眠る墓地へ向かった。

 しばらく手入れをされていないのか、彼の名が刻まれた墓石には蔦が這い、薄汚れていた。

 涙は出なかった。指先が汚れることも気に懸けられず、蔦を取り除きながら、私の心は静かに息を止めていき、そして。


 冷たく汚れた指で、私は用意していた小瓶を取り出した。

 その場で、小瓶の中身――前日のうちに入手していた劇薬を口に含み、自殺を図った。


 ……それが七日前の話。



     *



 明確な自覚はしていなかったと思う。

 それでも、そう長かったわけでもないほんの数年の間に、私は先生への想いを極限まで募らせていたらしい。加えて、長い学生生活が終わりと告げたと同時に悲報を耳にしたことで、感情の箍がひと息に外れたことも影響しているのかもしれない。


 浮かんだ身体は、教会の天井をすり抜けて空高く舞い上がっている。抜けるような青い空は、生前何度も見上げた光景であるにもかかわらず、今となっては非現実的な感覚しか連れてこない。

 空はいつしか、最初に眺めていたものと同じ星空に戻っていた。

 宙に浮いた足元には薔薇の花びらこそなかったものの、今度は足の下にまで満天の星が広がっている。真下に並ぶ幾つもの星座はそれ自体が新鮮で、また美しかった。場違いにも感嘆の声を零してしまいそうになる。


 私を支えていた先生の手はすでに離れていて、ふと見ると、彼の手には大きな鎌が握られていた。

 いつか書物で見た死神が持っているものと同じ、三日月に似た刃の形をした大鎌だ。長い長い柄の部分を、先生の白い指が――否、骨が這っている。顔は、すぐには見られそうになかった。


 ……そうか。

 先生は、死神になってしまったのだ。


 死神は、自殺者の成れの果てだと聞いたことがある。

 幼少の頃、母方の祖母から聞かされたのだったか。そのときは、子供心にも自害など絶対にしないと誓った。あれから十年あまりしか経っていないのに、己の決心の甘さには辟易してしまう。


 自殺を経て死神となった先生は、新たに自ら命を絶った私を迎えに現れた……そういうことなのだろう。


 先生の燕尾服は、いつの間にか漆黒のローブに形を変えていた。

 裾の長いローブに全身を包み込んだ先生の姿は、かつて見た書物に描かれていた死神そっくりだった。鎌の刃がギラリと光を反射し、早く獲物を食ませろと吠える猛獣そのものに見えた。

 大鎌が、私にそっと触れる。冷たいような温かいような、なんとも言えない温度を湛えた刃が、私の首元へ添えられる。生きた人間を狩るわけではないその鎌は、数多の星の輝きを反射し、それでも鈍い光を放って見える。


 血ではなく、魂を吸う鎌。

 私などの魂を捧げるには、これほどの得物はむしろもったいないのではとすら思えてくる。


「馬鹿だな。僕の手を取りさえしなければ、君は、自害をなかったことにして元の生活に戻れたのに。」


 堪えきれず、私は視線を上げた。

 真っ黒なローブに包まれた頭蓋骨の口元が微かに覗く。

 不思議と、先生の声は先ほどまでと変わらなかった。ときおり骨が軋むような音が加わっただけだ。


「いいえ、これで良かった。たとえ生きて戻れたとして、私には居場所なんてもうありません」

「君には婚約者がいたんでしょう。アレンではなく、新しい婚約者が。」

「いました。でも彼には恋人がいるんです。無理やり恋人と引き離されて私との結婚を強いられた、かわいそうな人」

「……エマ。」

「元の生活に戻れたってどうしようもない。人を不幸にしかできなかった私に、これ以上まだ誰かを不幸せにしろとでも言うの……」

「……え?」


 訝しげな声が傍から聞こえ、思わず私は両手で顔を覆った。

 それとほぼ同時、首筋に触れていた刃が放つ冷気が、ほんの少し遠ざかる。


 思い出したくない。これ以上は要らない。

 でも、どれだけ願っても、それはもう叶わない。


 先ほどまで脳裏を占拠していた靄が、まるで嘘のようだ。私の頭には次から次へと記憶の欠片が蘇ってくる。

 空に浮かぶ身体が妙に軽い。先生が握り締める大鎌さえも、今となっては愛おしかった。断罪の刃が、早くこの身を切り刻んでしまえばいい。そうすればきっと私は救われる。終わりのない後悔から解放されるに違いなかった。


「先生。アレンが自殺を図った理由を、ご存じですか」

「……え?」


 脈絡なく口をついた問いかけに、先生は小さく疑問符を漏らす。

 それこそがアレンの死に隠された真実。今となっては私しか知り得ない、私だけの罪だ。


 さあ、先生。

 どうか、私を裁いてください。


「アレンは、私が先生に好意を寄せていると知って、わざと先生の目の前で自殺を図ろうとしたんです。せめて一矢報いようとして」


 一面の星空が、一瞬で輝きを失う。

 今、私の足元に広がるのは底の知れない深淵のみ。けれど、知れないはずのその底は――地獄の入り口は、もう目前に迫っている。


 アレンが死んでしまった今、この真実を知るのは私だけ。

 先生は目を見開いたきり、私が放った黒々しい真実を反芻している様子だった。


「親同士の約束で、私たちは将来をともにすることが生まれながらに決まっていました。そのことに反発していたのは私だけ。アレンは、なんの迷いも疑問もなく受け入れていたんです」

「……。」

「アレンがナイフを振り回した前の日、私、アレンに呼び出されたんです。誰もいない資料室で、『あいつのことが好きなんだろう』となじられました」

「……。」

「あいつを脅してやったんだ、この学校からあいつの居場所を奪ってやったっていいんだぞって……アレン、言いながら笑ってた。許せなくて、私、先生以外にそんなふうに思える人なんていないって、はっきり言ってやったの。婚約も解消してやる、だいたいがそんなもの、親同士が勝手に決めた口約束なんだからって」


 結局、アレンは先生を学校から追放するような真似はしなかった。

 その代わり、そんなことよりも遥かに私と先生を奈落に突き落とす行動に出てくれた。


 わざと先生が教室に入ってくるタイミングを狙っていた。

 悲鳴じみた声をあげてナイフを自分の喉に突きつけ……一世一代の演技でも気取っていたのかもしれない。先生が止めに入ることまで見据えていたのだろう、今度は先生へ刃を向け、それでもアレンの視線は完全に私ひとりを捉えていた。


 当然だ。アレンのあの行動は、すべて私への復讐だったのだから。

 自分に振り向かなかった私を苦しめるためだけの、当てつけだったのだから。


 アレンの誤算はおそらく、先生の脇腹にナイフが刺さってしまったことだった。

 フェイクのために振り回していた凶器が見る間に血に濡れていくさまを見て、取っ手から慌てて手を放したアレンは、完全に意識が混濁しているように見えた。

 元々気の弱い男だった。殺してしまったと思い込んで半狂乱に陥り、そのまま窓から飛び降りたのだろう。


 先生は、あの男のつまらない意地と嫉妬に巻き込まれただけだ。そして、アレンの本質をある程度把握していながら挑発することを選んだ私も、あの男と同罪と言って差し支えない。

 どれだけ後悔しても時間は戻らない。アレンは生き返らないし、私も先生も生き返ることなんてない。

 それなら、中途半端に途切れてしまった先生の命の責任を、せめて私に負わせてほしかった。


「私のせいなんです。アレンが自殺を図ったのも、先生がアレンに刺されてしまったのも、先生が自ら命を絶ってしまったのも、私が自害したのも、すべて」

「……。」

「先生こそ私を許せますか? 苦しんで、なにもかもを狂わされて、今だってつらいんでしょう? それ、全部私のせいなんですよ?」


 いつしか私は死神の鎌の柄に手を添えていた。

 裁いてほしい。お前のせいで自分はすべてを狂わせる羽目になったと、私をきつくなじってくれればいい。心の底からそう思う。それなのに。


 次いで耳を掠めたのは、予想し得なかった言葉だった。


「……いいえ、思いませんよ。」


 え、と思った瞬間、がしゃんと耳障りな音が聞こえた。


「君は本当に変わらない。あの頃から、僕はずっと、君のその美しい心に惹かれていたんです。」


 耳に響いた音が、骨となった先生の手から死神の鎌の柄が離れた音だと、一拍置いてから気がつく。

 宙に浮く私たちのすぐ傍で、大鎌は落ちたその場所から周辺の星屑を吸い取り、深淵を作り出していく。

 深い闇、あるいは終焉。辺りを瞬く数多の星々は、見る間にそれに置き換えられていき、そして。


「やっとです。やっと君に触れられる。生きている間にはどうあっても果たせなかった願いを、叶えることができる。」

「……先生?」


 ……おかしい。甘い期待が胸を覆い尽くしていく。

 自分だけが想いを寄せていたと思い込んでいたというのに、まさか。


 胸を占拠した期待は、走った動揺を瞬時に歓喜へ変えた。

 眼前の無機質な髑髏しゃれこうべにも、微かに悦びの気配が宿って見える。それは見る間に彼の全身を覆い尽くしていく。狂気さえ湛えて私に向けられた視線を感じ、意識が伴わないまま私は呼吸を止めた。


 ……呼吸?

 いや、そんなものは最初から必要ないのではなかったか。

 だって、私も先生ももう生きてはいない。


 それなのに、胸を満たしていくこの感覚はなんだ。

 私の頬を両手で包み込みながら口元を緩ませた先生の、人ならざる形をした目尻から零れ落ちたそれは、一体。


 顔を近づけられ、唇が触れ合う。肉と骨が重なり合う。

 体温を持たない私たちが交わす口づけは、氷と氷の触れ合いに等しかった。


 行き着く先のない、中途半端に途絶えさせられた命の成れの果て。生前の豊かな感情の切れ端をずるずると引きずりながら、私は今、新たな死神になる。

 身にまとっていた白いドレス――柩の中で眠っていた私が着ているものと同じそれは、瞬く間にどす黒く染まっていく。ものの数秒も経たぬうち、それは先生が身に着けているものとよく似た黒色のローブへと姿を変えた。


 そのさまを恍惚と見つめる先生と目が合う。

 今度は、どちらからともなく唇を寄せ合った。すでに生きてはいない身体、その目尻を涙が零れ落ちていく。それを拭うように、肉のない指先が私の頬を掠めた。


「美しい。君にはやはり黒が似合います。『死』がまとう深淵の色が、こんなにも。」

「……はい、先生。」


 硬い骨の指へ、自分の指をそっと絡める。

 蕩けた声が口をつくばかりだ。本当に伝えたい言葉は、もう出てきそうになかった。


 愛しているんです、先生。

 これは教師に対する生徒の敬愛などではない。

 私はあなたを、ひとりの男性として、他の誰よりも愛している。それなのに。


 命を持たないからっぽな身体は、少しも満たされやしない。この上なく満たされているにもかかわらず、渇きは少しも癒えそうになかった。

 己の命を自ら切り捨てた私たちに、愛を交わす資格が残っているはずもない。その癖、麻薬のような痺れをもたらすこの口づけは、こんなにも甘美で、そして空虚だ。むしろ、これこそが私の望んでいたことだったと思えてくる。


(違う)

(違う)

(違う……)

(ちが、う)

(……本当に?)

(ちが)

(ちが……わないのでは)

(違わないのかもしれない)

(違わない)


 ――違いやしないわ。


 胸の内で叫び続ける声無き声が、徐々に変貌を遂げていく。

 心を這うように増殖する不穏な感情も、そもそももう人の心を宿していない身であるという事実の前には完全な塵と化す。


 もしかして、先生も一緒だろうか。

 今このときも、私と同じ耐えがたい渇きを抱えているのだろうか。


 ああ、それってなんて素敵なこと。


 ねえ、私たち、一緒なのね。

 命を持たないことも、渇きを癒やせないことも、望んで深淵に身を捧げたことも、それが間違いだと理解していることも、なにもかも。


 それでいい。望む幸せを手に入れることが永遠にできなくても、それで構わない。

 この先ずっとあなたが隣にいてくれるなら、私はもう、それだけで。

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