幕間
牙と、心臓と
目を見開くしかできなかった。
唐突に僕の胸倉を掴んできたその男は、先ほど初めて顔を合わせたばかりの、海老原先輩の恋人。
凶暴な、なんて言い方では表しきれない。
刺すような視線に至近距離から射抜かれ、もしかしたら自分が取った選択は間違っていたのではと思わざるを得なかった。
「どいつもこいつも……ふざけてんのか」
今さっきまでこの男こそが寄りかかっていた壁に、今度は僕が押しつけられている。あらわな激情に直に触れた気にさせられ、つい身震いしかけたところをなんとか抑え込んだ。
壁にぶつかった後頭部に微かに痛みが走る。男の顔が狂気じみて見えるからか、このまま殺されてしまうのではなどと愚かしいことばかりが脳裏を巡っては消える。
……こんな感情を抱えているようには見えなかった。これほどの激しさを内側にひそませているような、そんな人間には、とても。
飄々とした、見方によっては軽そうとも取れる第一印象だった。ちょうどひと月前にある取引を交わした女社員に抱きつかれたこの男を、休憩室のドア越しに見たときは、面倒そうな顔も相まってか随分と軽薄そうに見えた。
どうして海老原先輩はこんな奴なんかと。確かにそう、思ったのに。
唾を飲み込む。その音が聞こえたのか、男はさらに僕の首を圧迫した。
鈍い音が不意に鼓膜を叩き、それが僕の顔のすぐ横の壁を男が殴った音だと、一拍置いてから理解が及ぶ。
「お前さ。さっきの言い方、分かっててやってたって話?」
「……は?」
「俺があの場に新崎といたことを知っててあいつを連れてきた、ってことでいいのかって訊いてんだよ」
……けしかけたのは僕だ。
そのはずが、男の獰猛な視線に射抜かれて、今や僕は震える呼吸と渇いた喉を抱えて恐怖するしかできない。殺されてしまうのではと、先刻思ったそれが再び脳裏を過ぎり、今度はその不安をどうにも払拭しきれなかった。
「っ、あなたには、関係ないでしょう……っ」
やっとのことで絞り出した声は、我ながらみっともなく掠れていた。
自分でも聞き取りにくい、雑音みたいな音。それさえも男の嘲笑交じりの態度に霞まされ、僕はただ、息をひそめるしかできなくなる。
「ハッ、自分から吹っかけといてビビッてんじゃねえよ。なんだお前、そんなんで俺から真由を奪えるとでも思ってんのか」
「……あ……っ」
「やらねえよ、お前にも、誰にも。あいつは俺のだ。つまんねえことは二度と考えねえほうが身のためだと思うぞ」
真由、と呼んだ男の声が、頭の中で乱反射を繰り返す。
……うるさい。うるさいうるさい、うるさい。あんただって、海老原先輩の外見に惹かれて近づいただけなんだろ。
僕は違う。先輩が、以前の外見だった頃から憧れ続けてきたんだ。あの微笑みは、僕に向けられるはずだったのに。僕だけが独占できるはずだったのに。
それを横から掠め取っていったのは、そっちだろうが。
「それとも根性見せるか? 俺はそれでも全然構わねえよ。けど新崎と手を組んでまであいつを苦しめておいて、いまさらどのツラ下げてって気もするなぁ」
「っ、黙れ!」
「うるせえよ。後輩なら知ってんだろ、あいつは賢い。お前の薄っぺらい打算なんか簡単に見破られんぞ……っつーかお前がやってることって、俺だけじゃなくてあいつのことも侮辱してるって、お前ちゃんと分かってるか?」
「……あ……っ」
「分かってねえよな? だからあんな真似した後なのに、平気なツラして俺を追いかけてこれたんだよな? ……本当、イメチェンさせてからバカばっかり寄ってきやがる。マジでさせるべきじゃなかったな」
言葉の最後は、吐き捨てるような調子だった。
苦々しげな顔を見て、まさか、と思う。まさか、この男は。
「……海老原先輩は、僕、前から。外見が変わるより、もっとずっと、前から」
途切れ途切れの喋り方になったのは、内心を大いに乱されたせいだ。
やっとのことで絞り出した言葉は、しかし結局、場違いに等しい男の爽やかな笑顔にあっけなく掻き消されてしまった。
「へぇ、そりゃ奇遇だね。実は俺もなんだよねって言ったらどうすんの?」
にっこりと微笑んだ瞳の奥に、狂気のゆらめきを見て取った。
ああ、やっぱり間違えたのだ。さっきも感じた後悔によく似た思いが、爆発的に膨れ上がっていく。
正攻法では勝てない、そう思ったから新崎さんの提案に応じた。
それなのに、ここまで卑怯でねじ曲がった手段を使っても、これっぽっちも敵わないとでも。
『お前の薄っぺらい打算なんか簡単に見破られんぞ』
そのひと言は、この男が僕と同じく――否、僕以上に海老原先輩の本質を理解していることを示していた。どいつもこいつも彼女の外見に惹かれているだけ、そう高を括っていたこと自体が誤算だった。
どうすればいい。
僕に残された方法は、なんだ。
「せいぜい足掻けば? まぁそもそも、こんなつまんない方法しか選べねえ奴にあいつを守れるワケなんかねえだろうけど」
痛烈な皮肉は、鋭利な牙となって僕の心臓を突き刺した。噛みつかれたような痛みがそのまま色を成したかのごとく、瞼の裏側が血よりも赤く染め上げられていく。
男がその場を去った後も、僕はしばらくそこから動けなかった。
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