第1章:別れ

僕と由美が出会ったのは、大学の天文サークルだった。春の終わり、風の匂いがまだ冬の名残を残していた頃だった。新入生としてサークルに顔を出した彼女が、部室のドアをそっと開けたとき、僕たちの目が合った。その瞬間、何かが微かに始まった気がした。由美は少し控えめで、不安げな表情をしていたが、その瞳の奥には不思議な輝きがあった。


サークルの合宿で初めて彼女としっかり話をしたのは、星を見に行った夜だった。山奥の天文台で泊まり込み、冷たい風が吹き抜ける中、僕たちは肩を寄せ合って星空を見上げていた。由美は星座の名前をいくつも知っていて、それぞれの星にまつわる物語を僕に語ってくれた。彼女の声は穏やかで、どこか懐かしい響きを持っていた。僕らはいつの間にか二人だけで話し込んでいた。好きな星の話から夢、そして未来の話へと、話題が途切れることはなかった。その時、由美がふと見せた笑顔が、心に残って離れなかった。


それから、僕たちは自然と一緒にいる時間が増えていった。サークルのミーティングが終わるたび、いつも二人で帰るのが当たり前になっていた。夜になると、僕らは近くの公園で星を見上げた。静かな公園に、夜風が吹き抜ける。ある日、由美がふと呟いた。


「星を見ていると、なんだかいろいろ考えなくて済むから好きなんだ」


その言葉は、僕の胸の奥に静かに染み込んでいった。由美は物静かだけれど、自分の気持ちを真っ直ぐに伝える人だった。彼女の言葉の一つ一つが、僕の中で小さな光のように瞬いていた。


ある夜、部室でのミーティングが終わった後、僕たちはいつものように並んで歩いていた。満月が浮かぶ夜で、街灯が僕らの影を長く引き伸ばしていた。僕は思い切って由美に声をかけた。


「由美、もし良ければ、今度二人でどこか行かない?」


由美は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで頷いた。


「いいよ。 星が見える場所に行こう」


週末の夜、僕たちは夜のドライブに出かけた。車で海岸沿いを走り、展望台に着くと、夜空には無数の星が瞬いていた。静けさの中、僕たちは何も言わずにただ星を見つめていた。そして、車のスピーカーからBUMP OF CHICKENの「天体観測」が流れ始めた。音楽が夜の空気に溶け込むように響く中で、僕は気持ちを抑えきれずに口を開いた。


「僕、由美のことが好きだ。 もっと一緒にいたい」


由美は少し頬を赤らめ、けれどその瞳は真っ直ぐに僕を見つめていた。


「私も、涼くんのことが好き」


僕たちはお互いの手をそっと握りしめた。満天の星空の下、その温もりが僕の心に静かに溶け込んでいくのを感じた。この幸せな時間が、ずっと続くと信じて疑わなかった。


けれど、大学を卒業する頃、僕は東京の出版社に就職が決まり、上京することになった。由美は地元の鹿児島に残り、僕たちは遠距離恋愛を選んだ。最初は「大丈夫だよ、毎日連絡するし、会いにも行くから」とお互い笑い合っていた。でも、東京での生活が始まると、仕事に追われる日々が続き、由美からのLINEが次第に重荷に感じられるようになった。


「元気? 会いたいなあ」


「ちゃんと食べてる?」


「頑張りすぎちゃダメだぞー!」


彼女の言葉は温かかった。でも、それがかえって僕の心を締め付けるようだった。僕は次第に返事を後回しにするようになり、連絡の間隔は広がっていった。気がつけば、もう何週間も由美からのメッセージは来ていなかった。


そして、ある日突然、知らないアドレスからメールが届いた。


——由美は亡くなりました。


由美の母親からの知らせだった。全身から力が抜け、目の前が真っ暗になった。彼女は僕に一切病気のことを知らせなかった。僕に心配をかけまいと、彼女は最後まで明るい調子で連絡をくれていた。


「大好きだよ!」


病室からの最後のLINE。それが彼女の最後の言葉だったなんて、夢にも思わなかった。僕の中で何かが崩れ落ちていくのがわかった。


何も考えられない。どうやって家に帰ったのか覚えていない。部屋に戻ると、僕はそのままベッドに倒れ込んだ。携帯の電源を切り、布団を頭まで引き上げて、朝まで泣いた。


どれだけの時間が過ぎたのか、僕にはわからない。カーテンを閉め切った部屋の中は薄暗く、昼なのか夜なのかもわからなかった。返事を返さなかった自分への怒り、もう二度と彼女の声を聞けないという絶望。それらが、重い鎖のように僕の心を縛り付けていた。


僕はただ布団の中で縮こまり、世界との繋がりを断ち切るようにしていた。時計の針が時を刻む音だけが、薄暗い部屋の中で響いていた。

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