忘れ雪の糸
ありもと優
第1話 はじまり
1
運命の赤い糸。
この世に、そのようなものが存在するのかは、確かではない。
しかし、誰だって一人や二人、もしかすればそれ以上の運命の出逢いを経験しているかもしれない。
むらさきにも、そう呼べる人が一人いた。今はもうこの世にはいない。むらさきの夫は病気で死んだ。二人に子供はいなかった。だから、過去形になってしまうことを彼女は恐れた。むらさきは主人をとても深く愛していたからだ。人生を温かく包んでくれる人。この先、それ以上の人に出逢えるとは、むらさきはずっと考えもしていなかった。
彼女は夫を亡くしてからの約六年のあいだ、とにかく仕事に集中していた。資産形成のために努力した。そして自分の年齢が四十歳になった時に、むらさきは出産することを決めていた。
しかし、誕生日を迎えても出逢いはなく、セックスをする相手は誰もいなかった。彼女は焦ることなく、計画表を一枚書いた。出産までの道のりを四パターン作った。そして、そんな日常のなかでむらさきは"ゆき"の糸を捉えた。
とあるアプリケーションサービス。多数に向けてメッセージが流せる。そして、個人間でも文章のやり取りができる。最近流行りのマッチングアプリとは違い、性別・年齢・職業は関係がない。アイコンに好きな写真が使える。そして、名前を登録すれば、誰でも始められるサービスだ。
むらさきは源氏物語が好きで、何度も再読していた。名前は紫式部の一文字を拝借し、二ヶ月が過ぎた。
ここから先に記す文章は、むらさきと、"ゆき"のやり取りだ。他者の心を震わせる感動物語ではないだろう。何処かの誰かの役に立つものとは、まったく思えない代物である。
けれど、むらさきは毎日、繰り返し想像していた。いつか生まれてくる子供の、明るい笑顔を。
むらさきとゆきが言葉を交わした時間をここに残すことで、まだ存在しない子供の未来に、希望が膨らむだろう、と彼女は思案していた。その希望は、何かは分からない。
しかし、パソコンに打ち込み、物語として紙に残そうと考えていた。それは、むらさきの心にときめきという刺激を与えた。その期待にも似たほのかな想いが、彼女の心の中心部にあった。
この文章が何かを産む。それは、人々を通してなのか、むらさき自身からなのか、果ては"ゆき"自身の心の中からなのかは、今は誰にも分からないだろう。ある人にとっては、ひどく無駄な言葉の羅列にしか思えないに違いない。生活に必要のないもの、時に文学はそれにあたるかも知れない。
「無駄なものほど、今の世の中には必要や」
むらさきはパソコン画面に向かう。静まり返った部屋に、キーボードから文章を打ち込むパチパチとした音だけが続く。透明のネイルで整えられた爪先。指は階段を駆け上がっていく時の歩調のようにリズムを刻む。
しかし、ふと、手が止まる。自分の行ないは果たして正しいのか、と不安になった。ちらりと、本棚を見る。厚みのある紫色の装丁が並ぶ。それは、現代語訳された、源氏物語。紅葉のしおりを挟んだ一冊を本棚から取り出す。それは、むらさきの一番好きな須磨の章。何度も読んだページは、角が皺になっていた。
しおりを挟み直して、本を閉じた。
「やっぱり文章に残そう。迷う必要は、一つもない」
再度、むらさきはパソコン画面に向き直った。ひねる言葉は何もなく、ありのままを書き続けた。
むらさきの思いの先には、一つの命の誕生を待ち焦がれる気持ちがあった。それは激流のような揺るがない大自然の規律に似ていた。
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