「夏侯霸從妹爲張飛所得」③

 張飛の妻、張皇后の母が夏侯氏、夏侯淵の弟女であり、夏侯霸の「從妹」であったというのは、一定の事実であると考えるが、では何故、それが『三國志』に記されていないのか、逆に、何ゆえ『魏略』に載錄されたのかについて考えていきたい。


 『三國志』、特に蜀書に於いて張飛の妻に関する記述が無いのは、元来、それが不可欠ではなく、一方で、張飛の妻が夏侯氏、夏侯淵の弟女という事を喧伝するのは、蜀漢にとって不都合であったからであろう。

 敵國の、それも、漢の再興を標榜する蜀漢政権にとっては、漢を簒奪した魏の重臣で、劉備自らが敗死させた夏侯淵の親族が皇后の母というのは、その関係が「野合」と言うべきものであった事もあり、芳しからぬ話であっただろう。

 ただ、であるからと言って、蜀漢を貶める為に、この逸話が捏造されたというのは考え過ぎである。それはあまりに突飛であり、事実無根ならば、むしろ話の信憑性が疑われる。

 とは言え、蜀漢としては積極的に公表すべき事でもなく、一種の公然の秘密といった扱いであったのではないか。そして、それが蜀漢政権としての公式な見解であれば、陳壽としても強いて記す必要のない皇后の母について記述する事は無かったと考える。

 或いは、夏侯霸への記述が薄いのも、それに係わる事を避ける意図があったのかも知れない。


 また、『三國志』が編纂されたのは、その正確な時期は不明だが、その「三國」志という体裁から見ても、魏から晉への禪代を経て、晉が吳を滅ぼして以降の太康年間(280~289)、遅くとも『晉書』卷八十二陳壽傳に彼が卒したという元康七年(297)以前、元康年間(291~299)前半までの期間である。

 この頃の夏侯氏に関して言えば、夏侯淵傳の「霸弟威」について『世語』を引いて、「威字季權、任俠。貴歷荊・兗二州刺史。子駿、并州刺史。次莊、淮南太守。莊子湛、字孝若、以才博文章、至南陽相・散騎常侍。莊、晉景陽皇后姊夫也。由此。」と、夏侯威の子、乃ち夏侯霸の弟子である夏侯莊が「景陽皇后姊夫」であったので、一門が繁栄したとある。

 「景陽皇后」というのは、『晉書』卷三十一后妃傳に「景獻羊皇后」とある景帝司馬師の妻羊徽瑜であり、「景獻皇后同產弟(『晉書』卷三十四羊祜傳)」と、彼女の弟である羊祜は「郡將夏侯威異之、以兄霸之子妻之。(同)」と、夏侯霸の女を娶っている。

 なお、卷二十五魏書五の辛毗傳に、やはり『世語』を引いて「毗女憲英、適太常泰山羊耽、外孫夏侯湛爲其傳曰:……」とあり、辛毗の女憲英と羊耽の外孫が夏侯湛で、羊耽は『晉書』卷九十三外戚傳に「景獻皇后之從父弟」である羊琇の父として見えるので、正確には夏侯莊は羊徽瑜の從姊の夫である。


 ともあれ、夏侯莊自身は淮南太守に終わっているので、比較的早くに亡くなっている様だが、司馬氏の外戚である泰山羊氏の姻戚であり、更に夏侯莊の女光姫は司馬懿の子、司馬師の弟である「琅邪武王」(司馬伷)の「世子覲」に嫁ぎ、その世子睿、後の元帝を生んでいる。

 また、夏侯莊の兄駿は字が長容であるが、『晉書』卷四十七傅咸傳(傅玄傳附)に「長容則公之姻」と見え、ここで「公」と呼ばれているのは司馬懿の子で、司馬伷の母兄たる汝南王亮(司馬亮)である。

 「姻」は広義では姻戚全般も云うが、狭義では「婿之父」であり、司馬亮の女が夏侯駿の子に嫁いでいる事になる。『通典』(禮二十嘉禮五)に「夏侯俊有弟子喪、爲息恒納婦、恒無服」という一文があり、この「夏侯俊」は夏侯駿と見られ、「息恒」というのが、汝南王の婿である可能性がある。

 因みに、ここで、「喪」とある夏侯駿の「弟子」は『文選』潘岳「夏侯常侍誄」に、元康元年(291)五月に卒したとある夏侯莊の長子湛とも考えられる。この夏侯湛の傳(『晉書』卷五十五)にも「、性頗豪侈、侯服玉食、窮滋極珍。」と、彼の一門の盛んなる様が記されている。

 なお、陳壽傳には「時著魏書、見壽所作、便壞己書而罷。」と、『魏書』を著そうとしていた夏侯湛が陳壽の『三國志』を見て断念したとある。


 この様に、多少の前後はあるが、太康年間(280~289)前後の夏侯氏は帝室(司馬昭系)そのものではないが、司馬氏やその外戚である羊氏の縁戚で、その富盛を唱われており、権門とまではいかないまでも、諸方に影響力を持つ一定の勢家であったと言える。

 その夏侯氏にとって、蜀に亡命した夏侯霸は元より、「野合」によって張飛の妻となった「霸從妹」の存在は触れられたくないものであったと思われる。そして、であれば、陳壽が強いてそれに触れる事は無かったであろう。

 陳壽はその傳に、丁儀・丁廙の子に「佳傳」の代価に「千斛米」を要求し、断られた為に立傳しなかった、或いは、彼の父が諸葛亮によって髠刑に処され、彼自身もその子諸葛瞻によって軽んぜられた為に、「亮將略非長、無應敵之才」・「瞻惟工書、名過其實」と記したという、私怨・私欲による著述を為したという誹謗が残されている。

 この誹謗自体は真実とは言い難いが、先にも述べた様に、彼の撰述は直筆に徹したものとは言い難い。


 一方で、『魏略』は『史通』に「事止明帝」とあるが、夏侯霸の亡命が景初三年(239)正月の明帝崩御から十年後の正始十年(249)正月の事である様に、明帝以降にまで筆は及んでおり、同書が編纂されたのは司馬氏の奪権以降、その専制が進む過程の最中となる。

 『魏略』の編纂方針が如何なるものであったかは兎も角、司馬氏に反抗して蜀に亡命した夏侯霸を擁護するものとはならなかっただろう。司馬師と羊徽瑜、羊祜と夏侯霸の女などの関係は既に生じていたが、それは顧慮されなかったと思われる。

 因みに、羊祜は「姻親多告絕、祜獨安其室、恩禮有加焉。(『晉書』羊祜傳)」と、他の姻戚が夏侯氏と絶縁する中、その妻を安んじたと云う。

 むしろ、夏侯霸については積極的に誹謗された可能性もあり、そうした中で、この逸話が『魏略』に載錄されたと考えられる。また、或いは、張飛の妻が夏侯淵の姪(弟女)ではなく、「霸從妹」とされているのも、夏侯氏全般ではなく、彼個人に結びつける意図があるのかも知れない。


 以上の様に、この逸話に関しても、『魏略』には採り上げるべき事情はあれど、積極的に捏造する程ではなく、『三國志』には秘すべき理由があるという事になり、先と同じく『三國志』に載錄されていない事を以て、虚偽であるとはできない。『魏略』に載錄されるに足る、真実の一端があったと考える。


 斯くして、二つの逸話を検討した結果、『三國志』に記述が無い事を以て、『魏略』が一概に虚偽であるとは言えない。そこで、今度は、『魏略』が明白に『三國志』と齟齬を来している事例を見てみたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る