悪魔は躊躇せず、謝らず

柳ノ雉

第1章<第1話>

翼を失った鳥にとって世界は恐怖だった。死を目の前にした私は、飛び立つことさえ諦める。己の項を捕食者に捧げながら自ら希望を切り裂く。貪欲な捕食者は狂気に満ち、歓喜を振り撒き、私のため祈る。捕食者にとって私の存在はガラスの上の食材の欠片に過ぎず、私にとってあれは悪魔でも、捕食者でもない、ただの運命に過ぎない。失った者に訪れる確定された結末に過ぎない。




 礼拝堂の鐘が鳴ると、院長は私を呼び出した。仕方なく彼女がいる院長室へ足を運ぶ。幼き修道女たちは正午の余裕を満喫するため庭へ向かっている。


 「キャトル姉さま!次の稽古もよろしくお願いします!」


 髪の毛を三つ編みにした若い修道女が院長室へ向かう私を見て元気よく挨拶する。彼女は埃まみれの古い体操服を着て、片手には長い木刀が握っていた。まだ休憩時間であるはずなのに、既に何回か稽古を行った様子だった。


 「私こそ、よろしくお願い致します」


 私との稽古を期待しているように見える彼女に向けて、微笑みを見せると、少女は嬉しそうに明るく笑いながら首を縦に振る。彼女の隣にいる長い黒髪の少女も、三つ編みの修道女に続いて頷きながら挨拶をする。彼女たちと挨拶を交わった私は、再び院長室の方へ足先を向ける。


 院長室と書かれた扉を軽く二回ノックすると、扉の内側から女性の落ち着いた声が聞こえてくる。


 「どうぞ」


 扉を開き、部屋の中に入ったら、レオル院長が沢山の書類が置かれた机を前にして私を待っていた。お人好しに見える笑みを見せる彼女からは、一緒にいる人の心を落ち着かせる大人しくて堂々とした雰囲気が溢れていた。顔や体格は10代半ばにしか見えないが、その雰囲気のおかげで私は勿論、修道院の誰も、彼女を子ども扱いすることはできなかった。


 「お呼びしたと聞きましたが……」


 「すみません。キャトルも忙しいのに急に呼んでしまって」


 「いいえ、私なんか……」


 申し訳なさそうな顔をする彼女の視線から目を逸らす。床に敷いているタイルを睨みながら腰の後ろに手を隠す。私は何故自分がここに呼ばれたのか知っている。そして院長の前で堂々と彼女の視線と向き合うことができないことも当然自覚していた。院長も私の気持ちを知らないわけなかったが、彼女は焦ることも、興奮することもなく、ただ微笑みながら会話を続く。院長の目線は窓の方へ向かっていた。


 「頭を下げる必要はありません。最近若い子たちがキャトルによく懐いているのはもう知ってます。私なんかが彼女たちから貴女を奪ってしまって、本当 に申し訳ないとも思っています」


 「身に過ぎる扱いです」


 窓の外には庭があった。庭には若い修道女たちと、彼女らより少し年上の修道女たちが仲良く会話をしている。一方、庭の隅っこでは先院長室の前で遭遇した二人の修道女たちを含む、何人かの修道女たちが群れを作って木刀で稽古を行っていた。ベンチに座って談話を楽しむ者たちが黒いベールと修道服を着ていることと異なって、木刀を握っている者たちは全員体操服の恰好だった。


 「人はそう簡単に他人を尊敬しません。貴女が尊敬されるとするのなら、それはそれに相応しい理由があるということなんでしょう。自分の価値を否定しないでください」


 歪んでいるタイルに目を奪われていたが、前を見なずとも私に向けられている院長の視線を感じられた。彼女は相変わらず笑顔で私を眺めている。その視線を無視するのは案外容易いことではなかった。少し勇気を出して顔を上げたら、予想通り……

優しく微笑んでいる顔をよそ目で覗き込んだら、秒で目を背け、視線を床に戻す。院長の視線を無視するのは心苦しいことであったが、彼女と顔を合わせるのはそれよりももっと大変だった。


 「稽古の時、若い子たちがキャトルに従う様子はここでも見れます。特にアリエスは面談の際、毎回キャトルの話ばかりするんですよ?」


 「才能ある子です。少し、ほんの少し冷静になったらいいと思いますが……」


 窓からは三つ編みの修道女、アリエスの姿が見えた。やっと彼女の出番が来ると、彼女はかけていた丸い眼鏡を外し、椅子の横に置いていた木刀を握り、それを肩にかける。眼鏡をかけていた時には柔らかくて優しい印象だったものの、それを外すと鋭い目つきが現れ、猛々しい戦士の顔と化した。


 「ふふ、アリエスはまだ若いんだから。今はあの程度が子どもらしくてちょうどいいんですよ」


 稽古の相手を木刀で容赦なく叩きのめし、あの小さい身体のどこから出しているのか分からないバカ力で年ごろの女の子をぶっ投げるアリエスの姿を見て、一体どこが子どもらしいのか聞きたくなったが、ここでは沈黙を守ることにした。余計なことを言われそうだったからだ。


 「キャトルもあの頃は今の彼女以上に暴れていたのに、今はこうやって立派な大人になったんじゃないですか?」


 そう。こんな風に。


 はは……、空笑いを零す。腰の後ろに隠している両手は既に汗だらけだ。頬が暑くて、顔が真っ赤になる。気まずい沈黙を、気まずい笑いで誤魔化す。


 彼女の言う通りだ。私には他人に説教をする資格なんてない。2年前まで私は、恐らくこの修道院の創設以来、歴史上最悪の問題児であって、自らもその事実をはっきりと分かっていた。生まれつきの性格のせいか、集団行動と厳しい規律が苦手で、年を取っても修道院に慣れることはできなかった。礼拝の時も礼拝堂に行かず、同年代の修道女たちとは勿論、私より年上の人たちともよく拳を交えた。


 問題を起して独房に閉じ込められることも、一生経験したことのない子が大半なのにも関わらず、私は月に一回は経験したし、16歳には独房を出た直後八つ当たりで当時の院長を殴って、再び独房行きにされた。最短再収監と最長独房生活の記録を両方とも同時に更新した時だった。それから5年が経った今にもその記録はまだ更新されていない。


 他にも壁を越えて修道院から脱出しようとした経験とか、禁書を解読した経験、こっそり酒を造ろうとした経験も存在する。勿論、それらは全部途中に他の人にばれて独立行きになってしまったが、17歳、院長の許可なしに立ち入り禁止の地下室へ潜り込んで、そこにあった礼式用の酒を飲んだことだけは、『一応』ばれずに済んだ。

しかし、当時口にした酒の度数が想像以上高かったせいか、酒が喉を通ると、間もなく視界が揺らぎ、耐えられない眠気に襲われた。その時、レオル院長の声が微かに聞こえた。前の院長を殴って、独房に収監された時に新しく就任したレオル院長とは、それ程いい関係ではなかった。院長になる前までは時々私の面倒を見てくれたけど、反抗期が全盛期を迎えたあの頃の私は、彼女の親切に吐き気を感じるばかりで、彼女が近づいて来ても私から彼女を拒否し、時には酷い言葉で彼女の心に傷をつけた。彼女が院長になった後からは仕事が忙しくなったせいか、話す機会も著しく減ってしまった。


 酔いで倒れたその時聞こえた彼女の声は、何だか懐かしい感じがした。


 「私は貴女を傷つけたりしません」


 それが現実であったのか、それとも夢であったのか、未だに分からない。翌日の朝、慌てながら目を覚めて周りを見回すと、私が横たわっていた小部屋と部屋の外には誰一人もいなかった。思ってたより身体は軽かったので早速気を取り戻して自分の部屋へ帰った。部屋に帰って来て直ぐ布団を被って息を吞み込んだ。その後、院長が地下室の件で私を呼び出したことはなかった。やはりあれは夢に過ぎなかったのか?

一週間後、レオル姉さまが院長になって初めて、礼拝堂に向かった。礼拝をしながらも、頭の中は地下室で聞いたあの声で一杯だった。その時からだった。以前はサボるばかりだった礼拝にも毎日きちんと参加するようとなり、果樹園でも人並み以上は無理だったがせめて人並み程にはできるように頑張って働いた。聖書の筆写も、最初は退屈で、あまりやりたくなかったが、一度慣れたらいい時間潰しになったし、筆写の実力も上達し、姉さまたちにもよく褒められるようになった。幼い頃から力だけは強かったので、思い荷物を運ぶなどの力仕事に積極的に取り組むと、それ以前までは最悪だった私への評価も、段々よくなった。


 「私は別に立派な大人ではないと思います」


 落ち着かない指を無理やり止める。手の汗を修道服で拭いた。目の先があっちこっち彷徨う様だったが、どうしても院長の顔にだけ向けられなかった。掌のまめを掻く。木刀を振るうっていたらいつの間にかできていた。稽古は幼い頃唯一好きだった日課だったが、成長した後からは、地下室で酔っ払って倒れたあの事件があるまで一度も木刀に触れなかった。稽古が嫌いになったわけではなく、私たちが何のため稽古をやっているのかを学び、そこから逃げたくなったせいだった。


 曖昧な沈黙が続く。院長の顔は見たくなかったが、背ける勇気もなかった。若干視線を上げて院長の顔色を伺う。彼女は以前と同様に、大人しく、かつ真剣に、優しく私を眺めていた。


 「すみません。貴女を困らせるつもりではありませんでした」


 「いいえ、私はただ」


 「騎士になりたくないんですね?」


 一瞬心臓が止まったと思う。彼女から幾ら褒められようが、決して緊張を解くことができなかったわけだ。私は何故院長が私を呼んだのか分かっている。結局それを聞かれるようになると当然予想していた。固唾を飲み込み、再び視線を下げる。床を凝視しようとも、タイル一枚視野の中に入って来ない。


 「はい……」


 思わず本音が零れてしまった。


 ずっと剣術授業に参加しなかった理由、そして修道女たちに剣術と格闘を教える理由。修道院の子どもたちは18歳になれば修道院を出る。自由になるという意味ではない。私たちはいつまでも修道女でい続けるべきだった。一本の剣と一枚の地図だけを手に握って修道女は修道院の正門から外の世界へ旅立つ。私たちは修道女としての義務を果たすため、戦線へ向かう。修道女の責務、少女の義務、人類の希望のため。『森の悪魔』たちに立ち向かい、剣を振るう。


 地図に記されている騎士団の支部に着くと修道女は騎士として任命され、森の悪魔との闘いに向かう。修道院は騎士を育つための施設であり、稽古を始めとする剣術授業は、私たちにとって最も重要な授業であった。15歳頃、修道院を出なきゃいけない時期が狭まることを自覚した。その頃から私は、稽古は勿論、修道院での日課全てに集中できなくなった。


 1年前、ルームメイトは18歳の誕生日を迎えて二日後修道院を出た。彼女は元々騎士になることを期待していたので、喜んで修道院を出た。古き伝統に従い、人に背中を見せず、ただ神のみに己を任し、他の子たちがまだ寝ている夜明けの時、部屋を出た。今まで私が見た修道女の皆はそうやって騎士になることに憧れ、神の言葉に従い悪魔を滅するという使命だけを信じて世界へ旅立った。


 もしかしたら私がここにいる誰よりも修道院に入った時期が遅かったせいかも知らない。子どもの頃から人と仲良く過ごすことが苦手だったが、それが原因だったのかも知らない。または、修道院に入る前、一度森で悪魔を見た経験があったせいなのかも。鋭い牙で人の胴体を貫き、血まみれの爪で土を散らす『あれ』の黄金の眼を見た時の記憶は、私が持つ悪魔に対する恐怖の根源となった。


 いや違う。


 理由はどうでもいい。私はただ死にたくなかった。怯えているだけだ。

騎士になることも、他の子たちが修道院を出ることも。一時期の反抗期が終わり、真面目に礼拝に参席するようになった今になっても、私は己の義務から逃れようとする。


 18歳の誕生日も最早1年前のことで、19歳になっても修道院にいる自分の状況に疑問と恐怖を感じながらも、今日も一日を耐えたと安心感を味わう。だがその感情さえも、恐怖もまた今日で終わりだ。


 「私は貴女に何も強制したくありません」


 院長は相変わらず優しい笑顔で私を見つめている。焦ることも、急かすことも、怒ることもない。今日も今までそうしたように沈黙を答えの代わりにすれば、院長はきっと何も言わず私を許してくれるはずだ。


 だけどそんな気まずい同情も今日で終わりだ。毎晩義務の恐怖に怯え、明日が来ないように祈ることももう飽きた。ずっとこの瞬間を待っていたのだ。既に決まったことだった。私も大人になるのだ。


 「やります」


 声が震える。恥ずかしい。


 「私も騎士になります」


 彼女と向き合った。レオル院長は私の答えに驚く様子だった。珍しく目を大きくして私を見つめる。嬉しがるようにも、緊張しているようにも見える。素直に私の答えに驚く彼女の反応を見たら、やはり沈黙で日々を過ごしてもよかったんじゃないのかと後悔する心も再び顔を上げる。理由は分からないが、いや恐らく自分の都合のいい妄想に過ぎないのに決まっているが、院長は私が騎士になりたくないと正直に答えても、それを受け入れてくれたかも知らなかった。……という気がした。


 「修道女としての義務を行うつもりなんですか?」


 「はい。準備できてます」


 嘘だ。何一つ準備されていない。ただ自分の居場所を葬ろうとするだけだ。私は未だに自分に与えられた使命を、義務を拒み、嫌悪し、憎む。そもそも、一人で悪魔が住む森へ行き、一生冷たい剣を手に握って己を鍛えなければならない、そんな命かけの人生に熱狂するのが寧ろおかしいのだ。私はこんな神聖たる任務に共感できない部類の人間であって、義務という名の死と苦難を強いる修道院を恨んでしまう者なんだ。


 こんな私が、いつ死ぬか分からない騎士の道を自ら肯定したのは、疲れたからだ。


 「私も大人にならねばならないんですから」


 口角を上げるつもりだったが、実際笑顔ができたのかどうかは分からない。恐らく臆病者の顔のままだろう。もし私が院長に話した先の言葉を取り消して、土下座しながら死にたくないと訴えたらどうなるんだろう?院長は本当に私を許し、私を義務から解き放してくれるだろうか?妄想が止まらなく目眩で苦しみつつ、私は自分がそんな無様な恰好を見せないことを知っていた。それが恰好悪いからじゃない。多分、私が正解を知ることを恐れるか、それとも正解を追及する気力も失ったせいなんだろう。


 「そうなんですか……」


 院長は私を同情しているように見える。だが、同時に私の選択を歓迎する。胸は苦しいが、少し安心する。


 「分かりました。では騎士団入団に関する手続きを行うことにしましょう。三日後またここに来てください」


 彼女は明るく口角を上げる。その笑顔は、私が今まで見た笑顔の中で、最も嘘に近いものだった。そんな笑顔を、他でもなくレオル院長が見せたことが信じられなかったが、レオル院長であったからこそ、本当にありがたいと思った。


 院長は院長になる前から私が騎士になるのを嫌っていたことを知っていた。私が騎士団に入ると話を申し込むまで、どれほど辛い思いをしたのかも多分知っていたはずだ。そんな院長がわざと明るく振る舞おうしているのは、私の苦しみと悩みを少しでも減らすためであろう。


 私は彼女を尊敬する。


 「では三日間、他の子たちの世話をお願いします。いずれまた会うことになるでしょうが、それでも若い子たちにはまだ別れが親しくはないはずですし。そして、もし聞きたいことがあればいつでも私に声をかけてください」


 「はい、そうします。ありがとうございます」


 頭を少し下げて挨拶をする。


 院長室から出る時の足取りは、ここに入る時より、少し軽い。

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