エクスシーアは堕落したか?

望月直毘

序章

プロローグⅠ

 波の音が聞こえる。


 一定の間隔を置いて耳孔に押し寄せる無機質なそのメロディは、思わず身震いしてしまうほどに静かで、それでいて背筋を凍らせるほどの迫力を伴って胸の内を揺れ動かす。その緩急が、心の中の決して見えない部分に編み込まれた琴線に触れれば触れるほど、これまでの旅路で目にした光景が、まるで水しぶきのように勢いよくはじけ飛び、脳裏を淡く濡らす。そうして出来た艶めいた水面から、おぼろげなプロジェクターが生み出される。鏡のような光沢を含んだその画面には、視認することなど到底不可能としか言いようのないほどぼんやりとした映像が浮かび上がってくる。


 彼は自問する。瞼の裏に映る不透明なその映像たち。それらは実際に、自分自身が目の当たりにしたものではあることは自明だった。だが、ここまではっきりと姿形を持たないのはなぜなのだろうか。


 誰しもの心の片隅に潜む消し去りたい記憶。忌まわしき過去。これまでの旅路で自分が為し得てきたことは、抱いてきた感情は、それに類するものとして、自身の中で鮮明に想起されることが無自覚の防波堤なるものによって抑制されているのだろうか。


 それならそれで構うことはない。そう思い込むことで、彼は自分自身を納得させようとした。無為な内省によって自己嫌悪に陥る未来から、その恐怖心から、未来永劫自分の身を守ることができるのだから。


 ただ…。いやに無気味にさざめく潮騒の音にある種の心地よさを感じながら、彼は自身の胸中を這う、不徳義な心情を問い詰める。


 もしも自身の為したる行為がこの世界に存在する生きとし生けるもの全てを悲しみの深淵に誘うものであるならば、どうしてその事実から目をそらすことができようか。どうして茫々たる憎々しい記憶に確かな蓋をすることができようか。


 微かに瞼を動かした後、彼は薄く目を開いた。眼前には、天高く突き抜けるような青空が果てしなく広がっている。遙か上空に点在する巻雲は、風の影響をほとんど受けていないせいか、僅かにたなびいているばかりだった。


 自身の行為が救いようのないほど愚かで、罪深き蛮行であるという確証を得たその時、自身が果たすべき使命は、そのために為すべき行為はただ一つである。堕天使へと成り下がる可能性を秘めた自分であっても、今なお贖罪を全うする機会は残されているのだ。


 まるで虚空を見つめているかのような空虚な瞳を上空に漂わせていた彼の脳内に、その漠々たるプロジェクターに、スラッとした長身の、痩せこけた男の姿が思い浮かんだ。先ほどまでに見ていた不鮮明な光景とは打って変わって、無造作に後ろに掻き束ねられた白髪頭の毛先まで認識できるほどくっきりとした虚像であった。


 “彼女”のいう悪魔なる存在だと思い込んでいた人物。“彼女”とは異なる信条を掲げ、慈愛に満ちた言の葉を吐露し、自分に「躊躇い」という名の呪わしい種を植え付けた人物。その人物が、自らの蒔いた種を取り除く手段として、善悪の境界線上を彷徨う自分に救済の道標を与えてくれたのだった。


 アメリカ合衆国の北西部に位置する旧アラスカ州南部の町。男が提示したその地点は、いよいよ目前に差し迫っていた。自分と“彼女”にとって、その町が通過点となるのか、それとも終着点となるのかは、自分自身の裁量に委ねられているのだ。


 人の子を、最後の審判の際に善悪の軸でより分ける。そのような大義を一身に背負った彼は、もはや神の意志を伝えるメッセンジャーではなく、人に畏怖の念を湧き上がらせる憂慮の象徴、魂の刈り取り手と成り果てていた。


 しばらくの間自身の心の声と向き合っていた彼は、空の柔らかな紺碧に見飽きてきた頃、おもむろに砂浜から身体を起こした。目の前には、安らぎの音色の源である鮮やかな藍色に染まった太平洋の大海原が洋々と広がっている。


 自分の存在以外、生を実感できる対象が見つからない寒々とした海だった。自分達がいるこの島以外に、陸地めいたものは一切見受けられない。おそらく、かつて近隣に浮かんでいた島々は、今はもう深い海の底に沈んでいるのだろう。過去、その地に安住していた人間の叡智の結晶を包み込んだまま…。


 まさしく、おぞましい審判の地として相応しい海だった。



 「美しい海ね。切なくて、愛おしい…」


 物思いに耽る彼の背後に、いつの間にか一人の少女が佇んでいた。銀色がかった仄暗いブロンドヘアが、照りつける陽光を正面から浴びることで、ぎらりと鋭く輝いている。凜々しい面持ちで波間を見据えるその目には、どこまでも広がり続ける海原と同じ色、深藍の光が厳かに宿されている。


 真後ろに立つ少女を振り返りもせず、彼は依然として眼に満ち渡る大海に心を寄せ続ける。確かに、なんとも言いようのない切なさが伝わってくる。しかし、彼は少女とは異なり、「愛おしい」という情緒を微塵も感じなかった。


 重々しく心中に迫り来る海波の音。押しては引いていくその仰々しい律動が招き寄せる、身体の奥底を軋ませるような鋭い感傷。鼻腔にツンとくる、形容しがたい切なさの先にあるもの。それは「愛おしさ」なるものであるはずがない。その先には、なにも存在しない。なにかを感じることなどありえないのだ。


 その心情を、どう表現すればよいのか。彼は答えに窮した。「虚無感」とでも定義づけておけばよいのか。いや、それとはまた少しのズレが存在する。“彼女”の望む結末では、実体として体感できるこの海さえも、否、海だけではない。この世界に物質として既存するあらゆる存在が失滅するのだ。「無」に対し、虚しさを感じるわけがない。主体である自分自身もまた、「無」に回帰してしまうのだから。


 彼は自身の首を斜め後ろに向け、俯きがちに、少女の足下を瞳の端で捉えた。真っ白な砂浜と同化してしまうほどに色白で、華奢な両足。この小さくか細い両足が、“彼女”の、半ば無謀とも思えるくらいに壮大で、繊細な信条を懸命に支えているのだ。


 彼は狼狽した。“彼女”の信念に対する一抹の懐疑心を手にしてしまった自分は、過ぎ去りし日々の、今思えば盲信とも呼べるような尊崇の念を無意識裡に手放してしまった自分は、この小柄な両足に劣らず、真に“彼女”の支えに、“使者”に成り得ているのだろうか。


 「ねえ」


 相変わらず項垂れたまま、視線を純白の地面へと落とす彼に向かって、少女は曇りのない澄みきった声を投げかける。彼はそれを聞き、ようやく頭を上げて少女の顔を見上げた。


 「あなたの目にはどう映っているの?この海が…」


 少女は続けざまに問いかける。瞬きもせず、一心に絶海を見据えて。


 返す言葉が見つからず、彼は押し黙ったまま、再び首を垂れた。いや、正確には、この身に纏わり付く鼻梁を刺激するような潮の匂いに溢れんばかりのやるせなさを、張り詰めるような哀しさをひしひしと感じていた。その心持ちは、“彼女”のそれと分かち合うことができるだろう。しかし…。


 先ほどの思考が、堂々巡りのように彼の脳内をまたしても支配する。知らず図らず胸の内に溜まり、否応なく涙腺を弄る憂愁の情。その果てに、“彼女”の望みの終局に、偶然ではなく必然的に到来する「無」。


 説明のつかないこの思いを、仮に適当な表現を見つけることができたとしても、“彼女”に伝え聞かせることは彼にとって不可能な所業であった。“彼女”が自身に寄せてくれているであろう信頼。それを踏みにじることは、彼のこれまでの生き様に寛容できないほどの悔恨を、おびただしいほどの恐れを植え付ける、最も他愛ない手法なのであった。


 それからしばらくの間、二人の間に息詰まるような沈黙が流れた。長きにわたる思案に意識を溺れさせている彼はもちろんのこと、穏やかに躍動する波音に聞き入る少女もまた、何一つ言葉を発しない。長考の末に彼が導き出す返答を、ただひたすらに待ち望んでいるかのようであった。


 「上手くは言えないんだけど」


 長らく自己の内なる声に揉まれていた彼が、唐突に口を開いた。周囲に充満する重々しい静寂に切り込みを入れるかのような、訥々とした口調であった。


 「苦しいんだ。今まで見てきたどの海よりも、ずっと」


 「苦しい?」


 喘ぐように、喉の奥から絞り出すように思いを語り出した彼に向かって、少女はあどけない声で疑問符を飛ばした。それを受け、彼は少しばかり躊躇うように、軽く下唇を噛んだ後、話を続ける。


 「そう。あの地平線まで暗く広がる藍色を見ていると、なんというか、胸が締め付けられて、自然と気が遠くなっていくような…。そんな気持ちになるんだ」


 「そうなの。…苦しいんだ、その気持ちが」


 少女は、納得がいったような、いかないような曖昧な微笑をほのかに赤い両頬にたたえて、コクコクと浅く数回頷いた。そして、吹けば消えてしまいそうな、弱々しい微笑みを浮かべたまま、未だ目線を下方に向け続ける彼の顔を真っ直ぐに見つめた。そして、


 「大丈夫」


 耳元で囁くかのような、か細い声を発した。それは、これまで少女に寄り添ってきた彼にとって、驚くほどに覇気を感じない、儚げな音響を鼓膜の内に届けさせるものだった。


 まるで枯れ枝から揺落するかのような、物淋しい言の葉を投げかけられた彼は、微動だにしないまま少女の言葉の真意を探る。不安、戸惑い、悲観、虚勢…。“彼女”が“彼女”という存在の中枢部分で、「信念」という名の分厚いカーテンの裏側に隠し続けてきた禁忌となり得る全ての感情、情念が、自身の「苦しい」という発言に誘起されて、半ば無自覚のうちに色濃く反映されてしまった。そのように、彼には思えた。


 また、過ちを犯してしまったのかもしれない。取り返しのつかない過ちを。


 少女の、微かに揺れ動く薄い唇を見上げ、彼は又もや自責の念に駆られた。最も、これまでに犯した、いや、犯してしまったかもしれない罪の深さに比べれば、懺悔するだけ徒労だと、“彼女”は苦笑するかもしれないが。


 「大丈夫だから」


 先ほどと同じように、少女は静かな口調で呟く。しかし、今しがた感受したような、消え入りそうな脆い響きはもはや感じられなかった。それどころか、少女の息遣いやその言葉の節々からは、いつも通りのと言うべきか、内に秘めたる確固たる信条の強固さが垣間見えた。それはまるで…。


 彼は思う。“彼女”が気づかぬふりをしていた心の片隅の翳りよりにじり寄る、“彼女“という存在自体を根底から捻じ曲げる禍々しい邪念。それを振り払うために、“彼女”は自分自身に語りかけているのだ。その慰めは、嘘か真か定まらぬ悔悟に悩まされる自分に向けられたものではないのだ。


 それはまるで、思いがけず目覚めさせてしまった惑いという名の禁断の情を、再び自覚し恐れることのないように、胸の奥底に封じ、眠らせるための“彼女”なりのララバイのようだった。


 彼は目線を再び少女の瞳に移す。瞳孔の深みに粛々と灯る暗い藍の光が、一層激しさを増して耳孔に突き刺さる波音に呼応するかのように、せわしなく揺れ動いている。その光の行き先は、遙か遠く、地平線まで続く寒々とした遠海に向けられているが、“彼女”自身は全く別の景色を見ているかのようだった。そう思わせるほどに、瞬き、零れ落ちる物憂げな光の欠片の源には、思わず息を呑んでしまうほどの気迫が感じられた。


 美しい。


 何度も覚えてきた胸の高鳴りを、彼は今一度、強く体感する。ああ、やはりそうなのだ。僕は“彼女”のことを…。


 気の抜けた顔で、彼は少女の、ふとした瞬間に吸い込まれてしまいそうなほど澄み切った瞳を見つめ続けた。直前まで持ち合わせていた自己を省みる自我なんてものは、とうにどこかへ置き忘れてきたようだった。


 そうした刹那、彼は自身を苦悩させる使命を、与えられし義務を、絶え間なく身に迫る潮音の狭間に打ち捨てることができた。抱え込んできた全てが消え去り、空っぽになった胸の中。自身の、これまでの生き様に対する疑義が飽和していた彼にとっては、その身軽さが、身に染みて心地よかった。


 束の間、二人を取り巻く空間は、静寂と海鳴りに支配された。昂ぶりきった心拍は、反って冷静さを取り戻したようだ。彼は空虚な心の内で、そっと呟く。“彼女”のことだけを考えられるこの時間が、永遠に続けばいいのに…。


 ゆるやかな時の流れの最中、少女はおもむろに、その瞳から溢れ出る藍光をせき止めるかのように、瞬きを数回繰り返した。そして、見惚れる彼の姿には一瞥もくれることなく、ふわりと後ろを振り返る。世界の全てを包み込もうとしているかのような、慈愛に満ち満ちた青空を見上げながら。


 生暖かい風が、少女の背中から微かに音を立てて吹き抜けた。言い知れぬ感傷と共に流れてくる甘美な薫り。鼻先を擽るこの薫りは、いつだって彼を惚けさせる。


 少女の振り向いた先、柔らかな温もりを含んだ砂浜の上では、色褪せ、やつれきった純白の翼が悠々と佇んでいる。羽ばたかずとも周囲に放たれている威風。その様子はまるで、これまで自身が翔けてきた長い長い旅路に思いを馳せ、誇らしい心地に沈んでいるかのようだった。


 しかし、彼も少女も知っているのだ。あの翼に、授けられし栄誉の裏に隠された、大いなる罪の根源の存在を。


 少女は一歩、静かに前に踏み出す。くすんだサンダルを履いた繊細な足元が、降り注ぐ日差しに照らされてキラキラと明滅する白い砂の中に埋もれて消えた。足先が白く霞んだ少女の姿を見上げた彼は、まるで彼女が宙に浮いているような錯覚に陥った。


 女神だ。彼は思わず息を呑んだ。顔の火照りは暑さのせいばかりではない。


 「思い返すと、いつだってあなたは守ってくれていたよね、私のことを。…こんな傷まで負って…」


 心なしか震えた声で、少女は自らの使者に憐れみの声をかけた。白樺の小枝のような指が、片羽に刻まれた物々しい裂傷に躊躇いがちに触れる。それは、もはや生傷とは言い難いほどに風化し、纏わり付いた砂塵で凝り固まった傷口だった。


 少女は無言のまま、母親が生まれたての我が子を愛でるかのような、優しさに溢れた愛撫を何度も何度も繰り返した。ほのかに艶めく微笑を、白桃のような淡いピンク色の両頬にたたえて。


 背後からその光景を眺めていた彼は、突如として猛烈な既視感を覚えた。それを自覚するやいなや、彼の脳内では、すっかりぼやけて放置されていた記憶のプロジェクターに、ある一つの思い出が唐突に、疲れるほどの鮮やかさをもって映し出された。



 昏昏とした夜の山奥で、音もなく乱れ飛ぶ白い塵が木々をざわつかせている。

 

 降り積もり、羽毛布団のようにふかふかと膨れ上がった混じり気のない雪の上。狂ったように辺りを舞い踊る吹雪の中、遙か遠くで赤い薄明かりを放つ星が静かに瞬いた。あれは、なんという星だろう。


 体の芯から震えが襲う。寒くてたまらないはずなのに、異様なほどに瞼が重くなってくる。雪山での遭難者が眠気と戦う様子を映画などでよく見かけるが、あれは嘘ではなく本当だったらしい。


 次第に霞んでいく眼を、薄く氷が張り付いた袖口で擦り、なんとか意識を保とうとする。力なく座り込んだ空白の地面に、ポツポツと赤い滲みができていくのが見えた。割れた膝小僧から流れ出た血だ。


 大げさに開けた傷口とは裏腹に、さほど痛みは感じられなかった。身を突き刺すような冷たさのせいで、もはや身体だけが深い眠りについたようだった。


 このまま目を閉じれば、自分もあの赤い星の周りを不安げに漂う小さな光の粒の一つになれるのかもしれない。


 微睡みの中で、ぼんやりとそんなことを考えていた最中、ゴツゴツとした巨岩のような褐色の手が、自身の膝にできた紅色の浅い滝口に差し伸べられた。甲には焦げついた火傷の跡が無数にこびりついている。


 何層にも重なった固く分厚い指の皮がおもむろに傷口に触れた。その後、父親が力無く涙を流す我が子を勇気づけるように、その手は逞しさに溢れた愛撫を何度も何度も繰り返した。


 吹雪く風が突き刺さり、疼く溝を擦られているにもかかわらず、不思議と痛みを感じることはなかった。それどころか、見た目とは裏腹にたおやかな温もりを含んだその手と触れ合えば触れ合うほど、体の奥底からじんわりとした暖かさが滲み出し、凍えた全身を包み込んだ。


「笑えよ」


 聞き馴染みのある、少し掠れた野太い声が、渦巻く寒空の中へ舞い散りかけていた意識を即座に呼び戻した。それだけの熱が、彼の声からは漏れ出ていた。


 声の主に会いたい。


 その一心で、まるで錆び付いたシャッターのように固まり、びくともしない瞼を懸命に押し上げた。そして、ほんの少しだけ生気の灯った、霞んだ瞳を正面に向ける。


 そこに、彼はいた。


 象牙色に褪せた飛行服を剛健な身体に無造作にあてがい、首元には白い結晶が薄く張った漆黒のサングラスを吊り下げている。ニカっと開かれた鼠色の口元からは、古びた銀歯が鈍い光を放ちながら顔を覗かせている。


「泣いて生きるのは、罪だぜ。」


 何度も耳にしたこの言葉が、これほどまでにひしひしとした響きを伴って胸を照らす心地がしたのは初めてのことだった。凍りついていた涙が、自然と溶かされ頬を優しく伝う。


 爺ちゃん。



 一体なぜ彼の姿が唐突に、こうも鮮明に思い出されたのだろう。脳裏の片隅に立て掛けられたあやふやなプロジェクターは、まるでエンドロールを流すかのように最期のフィルムを余すことなく映し尽くすと、スノーノイズを纏った屍と化した。戸惑いを生み出すという役目を果たしたのだ。


 彼が執着していた「生」。“彼女”もまた、それに魅了されている。“彼女”の手つきが、そのことを証明している。だが少年は力無く首を横に振る。ただ盲目に、“彼女”たちの教えに付き従い生きていく…。それが善なることだとは、もはや思い込むことはできなかった。


 殺人、姦淫、邪悪、欺き、好色、貪欲、妬み、高慢、愚痴…。人間は、生涯の内にありとあらゆる罪を犯す。激しい後悔の念に駆られ、懺悔しようと自らの神に泣きついたとて、悔い改めようと心にもない慈善を積んだとて、その者は穢れたままだ。穢れたまま、生きていくことは罪なのだ。


 自らの生み出した重りに引きづられ、澱みの渦中へと堕ち続ける反逆者たち。彼らには救済が必要だ。罰を受けることすらも、それすらも許されぬ境地へと陥った彼らにとっての唯一の救済とは…。


 ポツリと、じっとりと汗ばんだ鼻尖に、水滴が落ちてくるのを感じた。我に返った少年は、ハッとした表情ですっかり湿りきった辺りを見回す。いつの間にか、淡々しく空を覆った痩せこけた雲の隙間から、小雨が降り注いでいた。


 陰鬱とし始めた空気の塊を粛々と鼻孔にくぐらせると、彼は意味もなく、またもや視線を宙に漂わせる。さらさらと流れ落ちてくるか細い雫の間を縫うように、どこかで耳にしたことのある、妙な声音が微かに頭の奥底で響きだしていた。波音はもはや聞こえなくなった。


 抑揚の欠けた低い男の声が、不安げに羅列された馴染みの無い文字列を冷たい調子で読み上げる。遠い異国の言葉としか思えないようなその響きは、なぜかはわからないが、言い知れぬ悲痛さを覚えさせた。


 読経だ。


 そういえば、あの日も朝から小雨が降り続いていた。耳を澄まさないとはっきりと聞こえないような、世界を白ませる霧雨のしとしととした雨音が、お経の醸し出す気味の悪さをいやに引き立たせていた。


 思い返すと、全ての始まりはあの日だった。年老いた同志が遺した、高潔で忌まわしい使命をその身に背負うことになったのは。


 彼は思う。これまでの自分の人生は、我が古き同輩によって授けられたものだったのではないか。


 いや、違うな。


 彼は自分を哀れむかのように苦笑した。この期に及んで、楽天主義にも程がある。授けられたものだなんて、そんな生易しく、口当たりの良い言葉では、疑心を募らせた自分をごまかすことはできない。


 押しつけられたのだ、きっと。


 自分の人生にはいつだって、彼の影が落ちている。黒く染まった陰りの中から、彼が眼を光らせている。全てを擲って、逃げ出すことはできないのだ。今なお止めどなく降り注ぐこの小雨が、そのことを黙してわからせようとしていた。


 「一つ、訊いてもいいかな」


 知らぬ間に、少女は気の抜けた少年のぼやけた眼前に佇んでいた。無垢な眼差しが焦点の定まりきらない彼の瞳孔を捉える。彼はそれに気がつくと、一度だけ、胸の内が上下に跳ねる心地がした。透き通った軽い声が、じとっと身に纏わりつく雨粒に当たりこだまする。


 「何?」


 乾ききった唇から、少年は訝しげに問う。蒸されているような暑さが彼を襲う。背中を一筋、ぬるま湯のような汗が流れた。


 「私と一緒に旅に出て、よかった?」


 張り詰めていた空気が、息詰まるような緊張が、瞬く間に弛緩していく気配を彼は肌で感じた。日照りに晒されたアイスクリームのように、身体が溶け潰れてしまいそうになる。


 予期せぬ安堵のおかげか、安らかな表情を見せる少年とは打って変わって、少女の眼は浮かばれない。浅い呼吸が彼女の身体を小刻みに揺れ動かす。息を殺して、自我を潜めて喘いでいる。


 “彼女”に言い渡す言葉は、もはや心に決まっていた。


もし仮に、生きとし生けるもの全ての存在を根底から否定する論理を、その真実味を問われたならば、彼は詰まりかけた喉から、掻きむしるような葛藤を叫び出していただろう。


 殺そうが犯そうが騙そうが欲張ろうが妬もうが、今この瞬間を、苦悩と懺悔にまみれながらも懸命に生きている命があるんだ!自らの罪を隠して、穢れを清めた気になって、消えない罪を磨き続ける他者に罰を与える。そんな身勝手な所業をなすことが、赦される人間が果たしているのか?


 少なくとも僕は、まるで線香花火のような切ない想いの灯火なぞに導かれ、腐れきった翼をはためかせた僕は、決して赦される立場ではない。そんなこと、今となってはもうわかりきっている。わかりきっているはずなのに…。


 理性的に自己を捉えようとするほどに、邪な想いを募らせた自分を恥じてしまう。あやふやに開かれていた口元は、自然と真一文字に結ばれていた。


 案外に長く続く沈黙に、少女の呼吸は鼓動と共に速くなっていく。その息吹は湿った微風に乗り、煩いの渦潮に飲み込まれかけた少年を我に返させた。荒々しいさえずりは、彼の、硬く結ばれた唇を否応なく解きほどかせる。


 「ああ、よかった。ほんとに…、よかった」


 全てに納得のいく解を得られたわけではない。ただ、“彼女”の不安げな表情をこれ以上見たくはなかった。“彼女”の身体を貫いている揺るぎない世界を壊すことが、たまらなく辛かった。


 嘘偽り無く、底意でそう思った。だからこそ、送り届けた言葉に迷いの色は含まれていなかった。守り続けた愛だけが、その節々から溢れ落ちていた。


 暫時、時が止まった。少女の瞳は開かれ、左右に細やかにゆらめいている。少年は少女を見据える。これまでとは打って変わり、淀みの無い、実直な姿勢を宿すように努めて。


 「そう」


 間をおいて、少女ははにかみながら応えた。藍に染まりきらない目尻を垂れ、キュッと結えた口角を僅かに上げている。決してわざとらしくない、数多の人間が浮かべるような、擦り寄るような言い訳がましい微笑みではなかった。


 この笑顔だ。この笑顔を側で見続けたくて、見護りたくて、僕は…。


 断罪だとか、救済だとか、本当はどうだっていいのかもしれない。ただ、“彼女”の望みに寄りかかるだけで、僕の生には価値がある、のかもしれない。


 彼はふと、少女が笑みを浮かべたまま、侘しく灰に濁った空を見上げているのに気がついた。覇気の失った太陽が、なぜか後ろめたそうに、雲の隙間から二つの命を覗き見る。


 少女の頬が強張るのを、彼は見逃さなかった。覚悟の色が、今はもう偽りへと成り下がった微笑みの裏側から、無様なほど炙り出される。


 「そろそろね…。翔びましょうか」


 少女の声に合わせるように、彼は傾きかけた、見え隠れする日差しに目線を移す。西陽と言うには幾らか軟弱すぎる光が、未だ降る小雨を貫き、彼の顔に当たった。


 見上げている最中、少年は何かを思い出したかのように、綻びの露出した漆黒の飛行服のポケットに手を入れた。中にあった硬くざらついた感触の物体をおもむろに掴み、眼前に取り出す。


 16時07分。


 微細に砕けた画面に、永遠に動かない数字が表示されている。おそらく、未だ過ぎ去ってはいないだろう。むしろその逆。ただ冷酷に、情け容赦なく差し迫っているばかりだ。


 この世に偶然などない。あるべきは必然だけ。その巡り合わせに驚き、戸惑い、歓喜し、悲嘆にくれる僕たちは、ただ神の、そんなものが実在するかどうかはわからないが、その掌の上で踊らされているに過ぎないのだ。


 正しく、悪戯に過ぎないのだ。


 一瞬のうちに、異様なほど冷たい風が天に向かって吹き抜けた。陽を反射し、キラキラと硝子のように艶めく雫が、辺り一面に舞い散る。2人は微動だにしない。


 煌めく飛沫の中、少女は少年に向き直った。微笑みはすっかり消え失せ、しかつめらしい眼差しを鋭く尖らせている。“彼女”の目の奥底で、荒波の轟を見た。


 「運命の刻は近いわ。エクスシーア」


 どこか遠くで、鹿威しが時を打った。

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