【短編】美食家A

ぐらたんのすけ

美食家A

 高級感あふれる店内に足を踏み入れたばかりの私を、心地よいざわめきが包み込む。

 店員に案内されて個室へと通されれば、夜景の美しい窓際席。

 目の前のテーブルにはキャンドルの明かりが揺らめき、ゲストたちを幻想的なムードで歓迎している。

 運ばれてきたのは、ほかほかのグラタンだった。

 表面はこんがりときつね色に焼けており、中はまだぐつぐつと煮えている。

 香ばしいチーズの匂いが立ち上り、食欲をそそった。

 一口食べると、ホワイトソースとチーズがまろやかに絡み合いつつ、ダイレクトな乳の衝撃が舌を襲う。

 

「……シェフは?」

「はい。私です」


 出てきたのは思っていたよりも若めの男性だった。

 私は彼に向かって語りかける。

 

「一口食べる前から、ガーリックの香ばしい香りが広がってきていい。さらに、バジルのさわやかな香りが混じり合い、食欲をそそる。チーズのコクがそれらを包み、完成された味わいとなっています」


 眼の前のグラタンは、確かに完成されていた。

 

「っ……ありがとうございます!」


 このグラタンを作ったであろうシェフも、思わず笑顔を浮かべる。

 ただ、私はスプーンを置いて口を拭いた。まだ一口しか食べていないというのに。


「ただ、美味しくはないですがね。豚の餌としては完成されているのではないでしょうか」

「えっ……」


 みるみる青ざめるシェフの顔が滑稽だ。それでも彼は何も言い返せない、事実なのだから。

 優越感の美味が全身に広がる。この感覚は”美食家”である私にしか感じられないものだろう。

 水で口の中の油分を洗い流し、席を立つ。


「もう、お帰りになられるのですか……?」

「もちろん。これ以上何があるのですか」


 敢えて冷たく言い放った。

 

「いえ……有難うございました」


 痛いほど引き攣っている唇を横目に、私は店を出る。

 梅田の喧騒が心地よい。背中に恨めしい視線を感じながらタクシーに乗り込む。


 ――神の舌。


 そう呼ばれるようになったのはいつからだろうか。

 父親は有名ホテルの料理長だった。

 忙しいのにも関わらず、父は毎日私にご飯を作ってくれた。

 それが影響したのだろうか。悪影響と呼ぶ方が正しいのかもしれない。

 美味しい料理、美味しくない料理。区別できるようになってしまったのは不幸でもあった。

 不味い料理を食べた時の落胆は、一般人には想像できないだろう。

上を知ってしまった私には、食べれたものではなかった。

 

 父のもとを離れてからも数多の料理を食し、食し、食し続けた。


 その内私は他人の料理を評価するようになり。

 有名雑誌にコメントが取り上げられてからは、仕事の電話が鳴り止むことがなくて。

 

 私が「美味しい」と言ったものは世間一般的に美味しいものと扱われる。

 私が「美味しくない」と言ったものは世間一般的に”残飯”として扱われる。

 

 人の感性によって左右される表裏一体の抽象的概念に、唯一終止符を打てるのは私だけだった。


「お姉さん、どこまで?」


 タクシーのエンジン音が軽快に鳴り響く。


「えぇと、この住所まで」


 運転手にメモを渡しながらシートに腰を深く落とした。


「あれっ。ご飯屋さんから出てきたのに、ハシゴですか?」

「まぁ、そんなところです」

「へぇ〜。しかもまたお高いお店。お姉さん、リッチだね〜」


 メモに書かれた高級店の店名を見ながら吐き出される、俗世的な彼の言葉を鼻で笑う。


「……煙草、いいですか?」


 ルームミラー越しに運転手と目が合う。既に煙草の箱を取り出しながら私に聞いていた。


「勝手にどうぞ」


 窓を開けながら返事をした。

 外の空気が臭い。かと言って煙草の匂いを車に充満させるのは嫌だった。

 

 煙草を吸う人の気が知れない。嬉しそうな運転手を見ながらそう思う。

 味覚破壊兵器を直接肺に流し込み、挙句の果てには「美味しい」などとほざくその神経も、理解しがたいものだった。

 

 都会の空気はヒトを駄目にする。

 物理的な汚さもそうだが、何でもかんでも許容したがるその空気感がダメだ。

 この世界は絶えず鼓動し動き続けているように見えて、死んでいる。

 芯がないのだ。どいつもこいつも、「誰か」がやってるからやる。言ってたから自分も言う。

 心底気持ちが悪い。

 

 何も無い空っぽの箱に、乱雑に詰め込まれた残飯共へ向ける慈悲など無かった。


「お姉さん、タバコ嫌い?」


 おちゃらけた雰囲気で聞く彼の体内にも、きっと汚い煙しか充満していなくて。

 返事はしなかった。無駄な空気を吸うのもためらわれた。



 少しウトウトしていると、ゆっくり車は止まった。


「はい、お待たせしたね」

「いえ、全然」

 

 渋滞のせいで、メーターは実際進んだ距離に似つかない値段となっている。

 運転手に渋い顔をしながらお金を渡す。

 ただ、運転手は私が渡したお金とは不相応な金額を掌に置くのだった。


「あの、多分お釣り間違えてますよ。ちょっと多い」

「あー、いいのいいの。サービスだよ」


 運転手はそう言いながら去ってしまった。

 

 和風な看板が私を出迎える。でも決して”和”などではない。どこまで行っても和風なのだ。

 第一、こんな都会に本物の和を求める方も間違っているかも知れないが。


 入店すると、複数の従業員がこちらをチラチラと見た後、奥に戻っていった。

 私はサービスの質に目を向けたことは一度もない。結局は味で判断するのだから無駄な行為だと思っている。

 ただそれでも丁重に出迎えてもらえることに嫌な気分はしなかった。


「ようこそおいでなさいました。是非こちらへ」

「……どうも」


 案内されたのは座敷で、部屋の真ん中にぽつんとお膳立てされていた。

 一人で来ることが想定されていないのか、それとも元からこうなのか。

 正面には荘厳な掛け軸が掛けられ、その隣には如何にも高そうな壺が置かれている。


 「こちらを」


 運ばれてきたのは前菜、恐らく牛肉の味噌煮であろうか。

 一口口に運ぶと、爽やかな山椒の香りが鼻を抜ける。

 ただ、味が薄かった。豊かさが足りない。

 それは前菜だから敢えて、という訳でもなさそうだった


 「もう、十分です」


 次々と運ばれてくる食事を一瞥する。

 食後の甘味まで待つ必要性は無いなと思った。


「あ、あのっ。お気に召さなかったでしょうか……?」

「それは自身でお考えになって下さい。それでは」


 席を立って店を出た。

 最近の店はみんなそうだ、何だか物足りない。

 私を満足させる食事など出しやしない、長い間そういうものには出会えていないのだ。


「……お父さんのご飯が恋しいな」


 一人呟く。

 

 

 再び乗り込んだタクシーの運転手は、先程と同じだった。


「あれっ!まさかとは思ったけど、お姉さん食べるの早い?」

「……まぁ、そんなところです」

「はは、そりゃいいや。たくさん食べる女の子はモテるよ〜」

 

 彼の言葉を遮るようにイヤホンを嵌めた。

 運転手もそれを見て少し悲しそうな顔をしたが、車は黙って目的地へと進み始めた。


 ――久しぶりにお父さんの料理が食べたいな。


 そうメッセージを送る。

 何だか最近、下劣な料理ばかりを食べていて舌が腐っているような感覚がある。

 父親の料理を食べてリフレッシュしたいと思ったのだ。


 両親の住む家は、都心から少し離れた場所にあった。

 所謂高級住宅街。立派な一軒家が多く立っている。

 その中でも一際目立つ大きな家が、元私の家だった。


「ただいま」


 懐かしい香りが体にぶつかる。良い匂いだとは思わないけれど、どこか安心する実家の匂い。

 

「あら、お帰りなさい。どうしたの急に帰ってきて」

「いや、今日の夕食はお父さんのご飯が食べたいなと思って」

「まぁ、あんまり無理言うものじゃないのよ。あの人だって忙しいんだから」


 そう言いながら、母の顔もどこか嬉しそうだった。

 

 和風で、温かい香りが香る。

 父は仕事を途中で切り上げて帰ってきてくれたらしい。

 食卓に並んだ料理は、いつかの私が好きだったものばかりだった。

 唐揚げ、コロッケ、味噌汁、サラダ。

 庶民的なラインナップに見えて、それらは全て一級品であることが確約されていた。

 なんせ、父の料理なのだから。


「うん……美味しそう」

「そうか、たくさん食べなよ」


 温かい食事を囲むというのはこんなにも幸せな事だったのかと実感する。

 思わず頰が緩み、ふと我に返って口角を元に戻した。

 箸を手にとって、臨戦態勢に入る。

 どれから手を付けようか。やはり最初は唐揚げか。

 サクサクとした衣に身を包んだ鶏肉を取る。

 口に入れた瞬間、肉汁が溢れ出してくる。

 

 ただ、その時違和感がして。

 

 私は思わず目を見開いた。


「お父さん、ちょっと味薄くない?」


 いつも食べる父の料理とは似ても似つかない味だった。

 一言で形容するならば”下劣”。

 ただ父に限ってそんな事はありえない。


「そうか……?お前にそう言われるのは少しショックだな……」


 父は少し暗い顔をして目を伏せた。

 私も、それこそ父自身も彼の料理には自信を持っているはずだ。

 ”不味い”なんてことはあり得ないのだ。

 急いで味噌汁も飲む。これも味が薄い。

 

 ここ最近の違和感の合致。

 私はコロッケのソースを手に取った。


「おい!何してるんだ!」


 父が私を制止する。でも私は構わずソースの蓋を開けて喉奥に流し込んだ。

 ドクドクと、ゴクゴクと粘性の高い液体を押し込むように飲む。

 

 自然と、涙がこぼれる。今私は、私史上一番の不安感に襲われている。


「…………味が、しない」


 父が間違えるはずないのだ。

 問題があるのは私の味覚の方だった。

 涙が溢れて止まらない。私唯一のアイデンティティが死んでいた。

 頬を張って口に入ってくる塩水ですら、味がしない。


 その日はあと何も口にしなかった。父親は私の背を撫でながら慰めてくれたが、それよりショックのほうが大きくて何も感じなかった。


 次の日、父の助言で病院に訪れた。

 真っ白い部屋と初老の男性。私と対面して椅子に座っていた。


「あー、味覚障害だと思うよ〜。なんか心当たりとかないの。亜鉛不足とか」

「……栄養には気を付けてます」


 何だか落ち着いていられなくて、腕をしきりにさする。

 医者はパソコンをじっと見ていた。カチカチとマウスをクリックする音がよく響く。


「女性は味覚障害になりやすいんだよね。ホルモンバランスの乱れとかもあるから。ちゃんと生理きてる?」

「はい、特に問題は……」

「うーん、精神的な問題だとは思うけどね。まぁ、気長に様子見るしかないね。お薬出しとくから」


 医者はもう既に次の患者のカルテを開いているようだった。


 外は酷く冷えていた。


 それから私は仕事を全て断るようになった。当然だ。

 味のわからない評論家の価値など無いに等しい。

 来年の予定まで決まっていたスケジュール帳は、たった一日で真っ白になる。

 仕事が無くなって、私は必然的に家に引きこもった。

 自炊なんてしたこともなかったから、沢山のインスタント食品を買い貯めて。

 そうして何週間、何ヶ月過ぎただろうか。

 

 私の味覚はどんどん鈍くなる一方だった。


 インスタント麺の袋を開けて、本来は茹でるノンフライ麺を直接噛む。

 バリバリと軽快な音を立てながら溢れる麺の欠片も気にならなかった。

 ふと、粉末調味料を手に取る。

油ぎった手では開けづらかった。苦戦しながらようやく袋を口で破く。それをパラパラと麺にかけた。

 気休めだ。もう私の舌はほとんど味を感じない。

 

 台所で水を飲んで、塩の袋を手に取った。

 

 ただ何となく揃えられた調味料の中から、1つ取ってきたのだ。それをリビングのテーブルに置く。

 塩は湿気て固まっていた。ガンガンと机にぶつけて砕く。

 そうして現れたサラサラとした白い粉を手で掬う。


「……ぁっ」


 私は大きく口を開けて、大さじ一杯ほどのそれを流し込む。

 塩は舌の上に雪のように積もって、痛かった。

 ただ痛いだけで、何も感じなかった。

 溶ける砂を噛み締める。満足感は得られない。

 暫くそうしていると異様に喉が渇いて。

 洗面台へ向かい、何度も何度も口を濯ぐ。

 鏡に映る私の相貌は酷く醜かった。ここ最近まともに食事を取っていないからだろうか。

 青白い肌は目の下の隈を更に強調している。ニキビも多く目立って。

 医者にも、父からも注意された。このままでは一生治らないとも言われた。

 それでも不味いものは不味いのだ。私にとっての美食はこの世界から消えてしまっていて。


 元々お金はあるのだから稼ぐ必要も無い。

 私だけの厨房で、私だけの美食を探していた。

 美食、もう一度美味しい食事だと思えるものを。

 

 でもやはり強い味ばかりを求めてしまい、遂には何も感じなくなってしまった。

 微かに揺らめく味覚の炎を、無理矢理扇いで大きくしようとしたから消えてしまった。


 室内は常に不衛生で汚かった。

 味がするものを求めて何でも食べたが、私は片付けの仕方を知らない。

 だから至る所に食器が散らかっていた。


 ふと目の端に黒く走る虫が見えて、私は嬉しくなる。

執拗に追いかけてソレを虫籠に入れた。

唯一の楽しみだった。沢山蠢く虫達をうっとりと眺める。

 

何時間そうしていたか分からない。なんせ引きこもってから時間感覚があやふやだ。

 私ははっと我に返り、おもむろに立ち上がって引き出しを開ける。

 沢山のサプリメントや栄養食品の空は散乱していたが、目的のものは無かった。

 スマートフォンを手に取り、ある人物に電話をかけた。

 ぷつっ、という音と共に男の声が画面越しに聞こえてきた。

 

「もしもし?」

「あの、私です……。次はいつ会えますか?」


 私が震える声で言うと男は笑った。


「んー、何時でもいいんだけどさ。使いすぎじゃない?」

「……いいんです」

「…………じゃ、明日。いつもの階段で。あっ……あとさアンタ。元々美食家?みたいなことやってたんだって?」


 男は言った。私は面食らって、思わずスマホを落としそうになる。

 

「プライベートのことはちょっと……」

「いいじゃんさちょっとくらい。じゃないと売らないよ〜?」

「……一応、そうでした。今は違います」

「あー、俺等さぁ。今度店開こうと思っててさ、飲食店。そこの飯食ってコメントしてくんねぇかな」


 半笑いの声は不快だった。震える手を何とかもう一方の手で抑える。


「……私、実は味覚障害と診断されていて。だからもう、料理を判別することが出来ないんです」


 電話越しの相手にそう言った。

 声は聞こえなくとも、驚いている様子はどことなく伝わってきていた。

でもどこか納得した様子で彼は言う。


「……まぁ、それは可哀想だけどさ。コメントするだけでいいから!」

「はぁ、味も分からないのにどうコメントすれば……?」

「だから、嘘八百でいいから褒めろってハ・ナ・シ! お金は出すからさ」

「えっ…………」

 

 面倒くせぇな、というため息が聞こえてきそうだった。

 

 「……分かりました。その仕事受けさせて頂きます」


 私は返事を聞く前に、震える指で電話を切った。

 

 

 ガチャリと扉を開けてタクシーに乗り込む。

あの電話から数週間後、約束の仕事だ。


「……お姉さんこの前も会ったよね」

「ええ、多分」


 タクシー運転手の顔など普段はすぐ忘れてしまうのだが、眼の前の男には見覚えがあった。

 あの頃とは何もかも変わってしまった私の事を、彼は本当に覚えているのだろうか。


「運命だね〜、煙草いい?」

「私にも、一本貰えませんか?」

「姉ちゃんも吸うのかい」

「…………最近吸うようになりました」

 

 タクシーの運転手に言った。彼は黙って一本私にくれた。

 一緒にライターも貰い、火を点ける。

 手が震えて、なかなか狙いが定まらなかった。

 ようやく赤く灯ったその先端を見ていると、自然とリラックス出来る。

 肺に異物が流れ込んできて、心地よい。


「はは、前は嫌そうな顔してたのにねぇ……」


 運転手は快活に笑っていた。ゆっくり、口の中で転がすように煙を吸う。

 

 流れていく都会の景色は嫌に眩しい。

 煙に染められた私の体内は、酷く空虚な物だった。


 到着した店は、如何にも治安が悪そうな地域の中に燦々と煌めいていた。

 埃っぽい空気が店内を占めていて、豪華な外装からは見当もつかない劣悪さの中。

私は味のしないペペロンチーノをただ食べていた。

 

「……ごめんなさい。やっぱり私には分からないです」


食器をカチャリと置く音が個室によく響く。

目の前のビデオカメラは、お世辞にも良いものとは呼べなかった。

高級そうにあしらった店内も、至る所に埃や蜘蛛の巣があって。


「そんな事言われたってねぇ、こっちだって金払ってんだから困るよ」

「でも」

「…………チッ。面倒くせぇ……」


男はドンと机を強く叩いた。食器が跳ね、コップの中の水が溢れる。

 

味に嘘は吐けなかった。

味なんかとうの昔に捨てたものだと思っていたけれど、最後の一歩が踏み出せずにいる。


「ねぇ、じゃあさ。仕方ないからサービスするよ」


 強面の男が一人、私の前に立つ。


「君、お得意サンだからさぁ。ちゃんと仕事してくれたら、もっと安く売ってあげる」


 何を、とは言わなかった。私も頷かなかった。

 男は痺れを切らしたようで、私のポケットに強引に手を突っ込む。

何かを入れたようだ。軟膏の容器のような。

 

 男が録画ボタンを押すのが見えた。指で秒数をカウントしている。

無言の圧力があった。私にはそれが理解できた。

置いたフォークを再び手に取る。

私は何とか笑顔を作って、ペペロンチーノを頬張った。

柔らかい熱だけが口の中に広がる。

何とか鼻腔を潜り抜けてきた香辛料の香りがくすぐったい。


「とっても......美味しいです」

 

 全部。全部全部全部ハリボテだったんだ。

 私も、お前らも。


 吐き気がする。


 「ああっ!!」

 「おい!何してんだお前!」


 私は目の前のペペロンチーノを、机ごとひっくり返す。

そして立ち上がり、厨房に入り込んだ。

 一見、清潔に保たれた厨房。何も異常など無い。

 

 厨房は清潔感が第一だ。

 掃除は欠かさず行い、汚れが溜まらないように心がけなければならない。

 食材を扱う場所には常に細心の注意を払わなければ、味は格段に落ちる。


 だから、料理人の全ては厨房に現れると言っても過言ではない。

 ハリボテの厨房は、ヤツが潜むには絶好の場所だった。


「何してるんだ!辞めろ!!」

「来ないでっ!」


 料理人を制止しながら棚を漁る。冷蔵庫も、冷暗所も漁る。

 洗面台の下、遠目ではわからなかったが汚れがよく溜まっていた。

 指を入れてみても分からなかった。

 その隙間を丹念に揺らしたり、スマホのライトで照らしたりする。

 何度かそうしていると、視界の端になにか光を反射するものが見えた。

 

「………………いた」


 ぬらぬらと黒光りするそのフォルム。捕まえようとすると、素早い動きで私の手を避けた。

 棚と棚の間から逃げ出したソレは、大理石の床の上をつるつると走り回る。

 私はバン、バン、と手を床に叩き付けるようにして奴を追った。

 その掌の端に足が挟まって、動けなくなったところを摘み上げる。

 

 ソレは足をバタバタさせ藻掻いていた。薄茶色の羽が見え隠れしている。

 

 皆が嫌悪するこいつだって立派な食材じゃないか。

 古来から各地で食されてきた歴史がある。

 素揚げ、天ぷら、塩焼き。18世紀のイギリスでは、ジャムまで作られていたらしい。


「ねぇ、君たちはいいよね。好きなものを食べて、好きなように騒いで」


 私を囲む男達はその場から動かなかった。冷えた汗が、脂ぎった額を滑り落ちているのがよく見える。


「私はさ、小さい頃から美味しいものしか食べてこなかったから。いや、美味しいもの以外を食べることが許されなかったから、逆に何が美味しいのか分からなくなっちゃったよ」


料理は下処理が肝心だ。

人生で初めての料理はこいつだった。要領は心得ている。

足は口腔内で引っかかり、雑味を生むから取り除いた方が良い。

ぐぐぐっと引っ張ると、案外簡単に足は千切れた。


「最近気付いたのはね、美味しいものは必ず味がするってこと。私の舌が壊れてから、私の世界は真っ白になった。何も無いんだ。砂を噛むように塩を食べて、体が溶けるまで砂糖を飲んだ。でも何も感じなかった」


 ソレはもう達磨状態なのに、じらじらと触覚を動かして抵抗しようとしている。


「でもこいつだけは違った」

「……やめろ」


 誰かが口を開いた。でもどこから声が聞こえてきたのか分からなかった。

 あたりを見回す。誰も彼も同じような顔をしている。

 壁際まで追い詰められたネズミのように、段々と壁が迫ってくるような不安感。

 全員が私を指さして糾弾しているようにも見えた。

 

 誰だ私に指図した奴は。お前らは今まで私の言葉を盲信してきたというのに、今更何を言うと言うんだ。

 もうどうにもならないというのに。

 

 ポケットから、軟膏の入れ物を取り出す。

 仕上げに私は、脂ぎったそいつに更にワックスを纏わせるのだ。

 アンフェタミン、最高の調味料だ。

 

「頂きます」


 口に放り込まれたゴキブリは、ぬるりと舌の上で踊った。

 一口噛むと、無機質だったその表皮から粘性のある液体が流れ込んでくる。

 噛むたびに生臭さが増していって、舌先が痺れる感覚があって。

 それでも味がするのが美味しくって美味しくって堪らなかった。

 

 自室で食べていたゴキブリより数段震えるその感覚は、確かにホンモノだった。

 

「……気持ち悪い」


 誰かが言った。恐らくこの場にいる全員がそう思っていた。

 定まらない焦点で、男達を何とか睨みつける。


 煩いな。食事中は静かにしろよ。

 これが私の”美食”なんだ、誰にも邪魔はさせない。

 

 誰かが電話をしている声が遠くから聞こえた。

 大理石の床に塩水が数滴垂れる。ふわふわして、思わず倒れ込んだ。

 いつの間にか、天井しか見えない。

 

 私はただ痺れる全身を抱きしめながら、その甘美に酔っていた。

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