モノクロの世界

@wlm6223

モノクロの世界

 今年の夏は突然やって来た。梅雨明けはその区切り目をはっきりとさせ、昨日までの雨はすっかり干上がり、青く高い空に朝から太陽が力の限り陽を照りつけてきた。

 その季節の変わり目に吉岡はついて行けなかった。

 どうも体調がおかしい。気分が優れないというより体が気候の変動に順応できていない。そんな感じだった。

 吉岡はその朝、いつも通りパン食でさっさと朝食を済ませ、スーツに着替えて自宅マンションを出た。

 吉岡のマンションは早稲田にある。東西線に乗って今回のプロジェクトの現場である九段下まではすぐだ。

 吉岡は今年で三十五歳になる独身男だ。一時は結婚も考えた。しかし吉岡は恋はしたいが結婚となると何かと足手まといになるのを懸念して嫌ったのだ。生涯の伴侶などいなくても人生楽に暮らせていける。吉岡の長い独身生活がその証左だった。

 仕事はSEをやっている。一日中PCのモニタとにらめっこの日々だ。

 しかし、吉岡の年齢でばりばりコーディング(SEは所謂「プログラミング」をこう呼ぶ)するのはもう限界だった。

 現場のSEからプロジェクトリーダ(PL)、プロジェクトマネージャ(PM)へ昇格していくのがこの業界の習慣だ。

 しかし、吉岡はその道を敢えて選ばなかった。吉岡は純粋にコーディングが好きなのだ。とはいえプログラマー三十五歳定年説というのが昔から言われ続けている。ここで身を起こして上流工程に突き進むか、現場の泥臭い作業を生涯続けるか、その選択ができる最後の年齢になっていた。

 そんなことをうつらうつら考えながら今日もいつも通り東西線に乗っていた。

 吉岡は電車の中で居眠りをした。束の間ではあるが夢を見た。

 吉岡は夢の中で一人、牢獄に入っていた。

 六方全てコンクリート造りで、扉はなく、天井近くに明かり取りの小さな窓があった。そこからわずかに光が漏れ差し込んでいた。牢獄内はいやに湿っぽく、明かり取りの窓があっても室内は見渡せないほど暗かった。

 その窓を通して外の群衆の怒鳴り声が響いてきた。

 「殺してしまえ!」「死を与えよ!」「命を奪え!」「死罪! 死罪!」と男たちの罵声があがっていた。吉岡はその声に怯えた。

 吉岡は助けを呼びたかったがその小窓以外には外部との連結が全くなく、どうにもならない身の上を案じ、部屋の片隅に怯えて蹲った。

 そこで吉岡は目を覚ました。九段下駅に着いたのだ。

 駅から徒歩七分ほどで現場に着いた。

 吉岡はまだ寝ぼけ眼で社屋に入った。

「おはようございます」

 フロアのあちこちから生返事が返ってきた。

 吉岡はいつものデスクに座ってPCの電源を入れた。

 吉岡はそのときになって強烈な違和感を覚えた。

 色が見えないのだ。

 具体的には目に見えるものがすべてモノクロ映画のように白と黒しかなく、その陰影しか見えなくなっていたのだ。のみならず、いやに眩しい。

 フロア内を見渡して吉岡は自分の目の不調が本物かどうか確認した。

 本物だった。

 PCが起動しIDEを立ち上げた。モニタに映るのも、モノクロだった。

 色はなくアイコンもモノクロだった。

 吉岡はモニタのケーブルの接触不良を疑ってコネクタを三回ほど抜き差ししてみたが結果は変わらなかった。

 吉岡は迷った。自分一人だけがおかしいのか、それとも自分の周り全てがおかしいのか、判断がつかなかった。

 吉岡は左手で両目を覆い、何度か両目をマッサージしてみてもう一度モニタを見たが、やはりモノクロのままである。

 明らかに自分の不調だ。吉岡はそう思った。

 しかし仕事がある以上、その不思議な症状を理由に現場を離れる訳にもいかない。

 吉岡は「時間が経てば何とかなるさ」と気楽に考え、午前中を過ごした。

 昼休みになり昼食を摂りに同僚の磯田と現場を出た。

 磯田とは新卒で入社以来の同期だ。以前にも同じプロジェクトにアサインされた事がある。別プロジェクトのときでもよく一緒に飲み行く間柄だ。吉岡のようなコンピュータ馬鹿ではなく、きっちりと仕事とプライベートを切り分けている、この業界にしては珍しい「普通の社会人」だ。磯田が仕事に求めるものはずばり金であり、休日でもコーディングの勉強をしてしまう吉岡とは好対照な人物だ。それだけに上昇志向が強く、人脈も広い。いずれはPLを目指している、というより独立を考えているタイプだった。

 初夏の九段下は光に溢れていた。昨日までの曇天が嘘のように陽が照りつけ、まだ梅雨明けの湿り気が街中に残っていた。

 吉岡が見る限りでは現場の社屋の外もモノクロの世界だった。空は明るい白であり、舗装道路のアスファルトの灰色は薄い黒となり、街路樹の色は失われていた。

「それにして急に暑くなったな」

 磯田はそう言って額の汗をハンカチで拭った。

「今日、梅雨明けだって言ってなかったけどな」

「たまにあるだろ。後になってから『梅雨明けしてました』宣言が出ること。今年もそうなんじゃないかな」

「ああ、確かに。気象庁もいい加減なもんだよな」

「まあ、仕方ないさ。お天気相手の仕事じゃ、想定外のことがしょっちゅうあるんだろ」

 磯田はワイシャツを腕捲りした。

 吉岡と磯田は現場近くのインドカレー屋へ入った。

 店の入り口にインド国旗が掲げてあるのだが、それも吉岡にはモノクロでしか見えなかった。

 その地下階のカレー屋は店内には多少露悪的だが様々なインド風装飾があり、吉岡にはその一つ一つの色彩が感じられなかった。ここもまたモノクロだった。

 吉岡と磯田はランチセットのカレーを注文した。

 店員のインド人の顔の色が吉岡には判断つかなかった。

 吉岡と磯田がしばらく雑談していると、注文した料理が運ばれてきた。

 そのカレーも吉岡には茶色ではなく黒に見えた。

「磯田、このカレー、何色に見える?」

「何色? 見れば分かるだろ。茶色じゃないか」

「それが見えないんだよ」

「見えない? どういう事だ?」

「どうも今朝から見えるもの全てがモノクロにしか見えないんだ」

「モノクロ? どういう事だ?」

「自分でも不思議なんだが、色が見えなくなったんだ。全てが白黒で、PCを触ってても構文ハイライトの色もモノクロの濃淡にしか見えないんだ。まるで世界中が白黒の世界になったようなんだ」

 磯田は一息吐いて真剣に吉岡の顔を見て言った。

「それ、病気じゃないか? 緑内障とか白内障とか何だっけ、確かそういう症状が出る病気があった筈だ」

「病気? やっぱりそうなのかな」

「目が見えなくなったら仕事、続けられなくなるだろ。早めに行けよ、医者」

「やっぱりそうなるよな。しかし今回の案件が片付いてからにしようかとも思うんだが」

「そんな事言ってる場合じゃないかもしれんだろ。病状が悪化して取り返しがつかなくなる前に対処しておかないと、仕事云々の前にお前が駄目になっちまうじゃないか」

 仕事より病気の治療が優先か。

 言われてみればその通りだ。どの職業でも自身の健康を害してまで働け、とは普通言わない。特にSEという職業柄、色が見えないというのは職務遂行上、問題である。エディタの構文ハイライトが見えないだけでも、かなりtypoに気が付かなくなってしまうからだ。

 吉岡と磯田は早々に昼食を済ませて職場に戻り、吉岡はPLに自分の現状を相談した。

「そういうことでしたら、早く病院に行ってください」

 吉岡はそのあっさりした言い分に少々呆気にとられた。

 というのも、SEという職業は残業が当たり前、納期直前は泊まり込みも徹夜も当たり前の業種だからだ。こうも簡単に休みをもらえるとは思いもしなかったのだ。

「本当にいいんですか?」

「当然ですよ。吉岡さんの会社に連絡してください。私からは至急に人員の補充を申し入れておきます」

「ありがとうございます」

「とにかくお大事にしてください」

 吉岡は自分の所属する会社の担当営業に事の顛末を報告した。

「そういう事でしたら仕方ありませんね」

「申し訳ありません」

「健康上の事由でしたら、こちらも無理はさせられません。PLには報告しましたか」

「しました。私の代わりを要請する、という事を言ってました」

「分かりました。吉岡さんはとにかく至急、病院へ行ってください。その後の事は診察結果次第で対応しましょう」

 そう言われても吉岡には何処のどの病院の何科に行けば良いのか判然としなかった。

 とにかく目の故障が予想されるので、取り敢えず職場近くの眼科をスマホで探した。

 「九段坂病院」が検索のトップに出てきた。総合病院との事なので原因が眼科の範疇外であっても他の科へ行ける。その利便のために九段坂病院へ予約の電話を入れた。

 眼科の予約はすぐに取れた。キャンセルが出たため今日中に診察ができる、との事だった。

 地図をスマホで調べると、九段坂病院は徒歩で五分ほどの場所だった。

 吉岡はスマホに従い靖國通りを歩き、その瀟洒な病院に着いた。

 改修仕立てたばかりと思われるその病院は、いやに小綺麗で立派だった。地上十三階もある立派な総合病院だ。

 吉岡は三階の眼科へエスカレーターで向かった。病院内はほどよい明るさを基調とした色合いになっているらしく、白黒しか見えない吉岡にも清潔で新しい風が分かった。ちょっと見には病院の薬臭い辛気な雰囲気ではなかった。

 吉岡は待合室で三十分ほど待って診察となった。

「今日はどうなさいました」

 女性らしい柔らかい口調で医者は吉岡に言った。

「実は色が見えなくなりまして」

 吉岡は子細を医者に告げた。

 医者は吉岡の一言一言をPCのカルテへ入力していった。一見して患者と向き合う気はないのかな、と吉岡は思ったが、そうではなかった。

 医者は吉岡に向き直り「ちょっと失礼しますね」と言ってペンライトを左手にかざし、吉岡の右目左目とその様子を見てみた。

「瞳孔が開ききってますね。眩しいのはそのせいでしょう」

 医者は躊躇せずそう言い切った。

「今朝から急に色が見えなくなった、とのことですが昨晩や今朝のうちに頭を打ったりしてませんか」

「いえ。全然してません」

「お酒、飲みました?」

「いえ、今週はまだ飲んでません」

「何か普段と変わったことはありませんでしたか」

「それも特に」

「そうですか……」

 医者は病名の特定に困っているようだった。

「ちょっとこちらをご覧ください。書いてある数字を読み上げてください」と、医者はフリップを一枚、吉岡に見せた。円形の中に更に小さい円が敷き詰められている。その小さい円には色が塗られているらしかった。

「読めません」

 医者は別の一枚を吉岡に見せた。

「四十三……かな」

 医者は更にもう一枚、吉岡に見せた。

「読めません」

 医者はフリップを片付けると、右手人差し指を吉岡の目の前に突き立てて「指先を目で追ってみてください」と言った。

 医者は人差し指をゆっくり上下左右に動かした。吉岡はそれを目で追ってみせた。

 それが終わるともう一度医者はペンライトで吉岡の両目を倹した。

 次に眼圧検査となった。

「ここに顎を乗せてください」

 と、吉岡は眼圧検査機の上に顎を置いた。

 ちょうどいい高さにセンサーが両目の高さにあった。

「それじゃ瞬きしないでください」

 吉岡は瞬きを止めた。

 ぷしゅっと右目に風が当たった。続いて左目も同じように風があたった。

 眼圧検査機からレシート状の検査結果が印刷された。

 医者はそれを見てちょっと躊躇いの表情を浮かべた。

 医者は「なるほど……全ての色が見えなくなっているのはちょっと珍しいですね。よくあるのが赤と緑だけ区別がつかないとか、緑と茶色の違いが分からないような症状なんですが、吉岡さんの場合は後天性の色覚異常の疑いがあります。この症状の場合、吉岡さんのように今朝から急に、というのも非常に珍しいんです。吉岡さんは職業上、パソコンばかり見詰めているとのことですので末梢神経がやられています。心因性要因が原因かも知れません。今のところでは眼圧にも異常がないので緑内障の疑いはありません。色が全く見えないので視神経疾患でもなさそうです。大脳疾患の疑いがあるのでMRI検査しましょう」

 MRI? そんな大病なのか、と吉岡は思った。

「MRI検査は早くて二週間ほどで受けられますので予約だけ先にとっておきますね」

 と医者は言ってPCに向かった。医者は早速MRI検査の予約を取り、日時と場所を吉岡へ伝えた。十日後の午前十時、飯田橋での検診センターだった。

「先生、それまでの間は仕事を続けていいですか」

 医者は即答した。

「仕事は控えてください。今のところ今後病状が悪化する可能性もありますのでなるべく目を休ませてください」

「スマホもPCも駄目?」

「できるだけ控えてください」

「じゃあ、何ならやっていいんですか」

「安静にしていてください」

「はあ……」

「現段階では脳の器質に異常が見られる可能性があります。治療はその結果を待ってからということです」

 PCもスマホも駄目で安静にしていろと言われても、何をして良いのか吉岡には分からなかった。

 診察が終わると処方箋を受け取り薬局部で処方薬を受け取った。トランサミンとヘパリンとあった。

 医者の診察の結果が処方薬として反映される。どちらも抗凝固薬とのことである。要するに血をさらさらにする薬だと吉岡は判断した。

 色が見えないのと血液の粘度がどう関わりを持っているのか吉岡には不思議だったが、とにかく専門家である医者の診察結果である。鵜呑みにするしかなかった。

 吉岡は薬を貰うとさっそく会社へ電話を入れた。吉岡の担当営業はすぐに出た。

「お医者さんは何て言ってました?」

「病名は言ってませんでしたが色覚異常とのことでMRI検査するそうです」

「MRI? となると結構な病気だと?」

「それが現時点では判明していないようです。そのためのMRI検査だそうです」

「なるほど」

「十日後にMRI検査をするので、それまではPCもスマホも駄目で安静にしてくださいと言われました」

「ということはしばらくの間、休職ですね」

 吉岡は「休職」という言葉に息を呑んだ。

「……ですね」

「分かりました。吉岡さんは今回のプロジェクトとから離れてもらいます。代わりの人員を手配しますのでご心配なく。とにかく医者の診断に従って養生してください」

「……はい」

「現場のPLにはこちらから報告しておきますので、MRI検査の結果が出たらまた報告してください」

「分かりました」

「それではお大事に」

 電話が切れた。

 その短い電話の遣り取りだけで吉岡は無職になってしまった。しかも病名の分からぬ病気持ちで。

 時計を見ると午後二時四十五分だった。

 今から現場に戻って荷物の整理――といってもボールペン一本とノート一冊だけだが――をして現場を引き上げなければならない。

 吉岡は気乗りしないまま、現場へ戻った。靖國通りの九段坂を上る事になるのだが、その一歩一歩の足取りが重い。左手に皇居、右手に靖國神社。その合間に靖國通りの太い車道が通る。炎天下ではそれだけで蒸し暑いというのに、更に暑気を奮い立たせる光景だ。

 まだ(気象庁からの正式発表前だが)夏は始まったばかりだというのに、ほんの五分の道程さえ吉岡には長く険しく感じた。

 吉岡のモノクロの世界では、行き交う車はどれも灰色でその意匠を凝らしたデザインは判別できなかった。全てのものが光り輝いて見え、その詳細までは判別できなかった。それほど日射が激しかったのだ。

 吉岡が現場に戻るとPLが待ち構えていた。吉岡は面談室へと促された。

「吉岡さん、会社から報告を受けました。何か大変なご病気の前触れらしいものがあったとか」

「大病かどうかはMRI検査をしてみないと医者も判断が下せないようですが、可能性としてそのようなことも考えられるようです」

「どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか」

「それが、今朝、突然、発症したんです。私も驚きました」

「で、今はどうなんですか」

「症状は変わりません」

「色覚異常と聞いていますが、今でも?」

「はい。このパーティションの色が灰色に見えます」

「私の顔も?」

「ええ。白っぽい灰色に見えます。髪の毛は黒です」

「症状が出ているのは見え方だけですか」

「ええ。そうなんです。他は健康そのものです。これで仕事が続けられなくなるなんて、私も意外でした」

「分かりました。とにかく今日から休息を取らせるようにと会社から指示が来ましたので、不本意でしょうが今日はもう上がってください」

「分かりました。ご迷惑おかけして恐縮です」

 吉岡は自分の席に戻り、バッグにボールペンとノートを入れてPCの電源を落とした。

「お先に失礼します」

 と、やや大きめの声で挨拶をして現場の会社から離れた。同僚たちの反応は薄かった。


    ×


 外へ出ると炎暑だった。

 辺り一面の東京の中心部は太い車道と窮屈な歩道が延々と延び、強い日差しに耐えるようにビル群が佇立していた。

 さっき現場の社から戻るときも感じたのだが、完全な色覚異常は歩行すら危険な行為だった。

 まず信号の色が見えない。

 もっと正確に記すれば、赤青黄のどれかが点灯しているのは判別できるのだが、中央の黄色はともかくとして、赤が点灯しているのか青が点灯しているのかが分からないのだ。

 吉岡は人波が横断歩道を渡るのを見てから自分も横断歩道を渡った。何個かの信号を渡って、車道用は左側の信号が青、右側の信号が赤、歩道用は上が赤、下が青と分かった。普段は気に掛けていなかったが、歩行者用の信号にはピクトグラムが書いてある。これが結構助かる。

 こんな普段何気ないことも色覚異常では気を使うのだ。

 午後三時二十分だった。

 今から帰宅してもいいのだが、ちと早すぎる。少しでも気を紛らわせるため靖國神社へ詣った。

 神社の境内は真っ直ぐに伸びた参道と、その両脇に新緑の陰が立ち並んでいた。

 新緑といっても吉岡の目にはそれらは黒としか見れなかった。しかし梢の葉の一枚一枚が初夏の陽を浴びて輝いて見えた。

 本殿まで来ると二礼二拍手一礼してこの不思議な病気の快癒を願った。

 靖國神社はそういう祈願を受け入れるところであるかどうかは知らないが、今は神仏に縋ってでもこの目の病を早く治したいと吉岡は思った。

 靖國神社の境内は都心の中央にありながら広壮としている。一つの社殿から次の社殿まではそこそこの距離がある。吉岡は境内を逍遥した。

 遊就館を観てから土産物屋に着いた。

 神社に土産物屋も何もないだろうと思っていたが、種々雑多の品物が取りそろえてあった。

 吉岡の目についたのはお守りだった。

 家内安全、恋愛成就、学業成就、交通安全――。今の吉岡には無病息災が最もふさわしいだろうが、一番目惹かれたのは武運長久だった。

 吉岡の心情としては無病息災のようなネガティブなものを何とかするお守りより、前へ突き進むポジティブなものの方が性に合っていた。前進すれば病気など吹き飛んでしまう。体が弱っていたとしても歩みを止めなければ病苦など消し飛んでしまう。そういう思いで武運長久のお守りを一つ買った。

 靖國神社の参道を降りていくと九段下の駅はすぐそこだ。

 相変わらず吉岡の目には世界がモノクロにしか映らない。

 東京を走る電車の駅はアルファベットと数字二文字の駅番号が必ず付与されている。九段下の場合はT07とZ06だ。おそらくTが東西線のことでZは半蔵門線の事だろうと吉岡は予想した。

 その駅番号の前に、路線のカラーを配した丸が描いてあるのだが、その丸の色が黒にしか見えなかった。吉岡は普段来慣れているのでZの半蔵門線は紫、Tの東西線は水色と知っていたから不便はなかったが、色覚異常の人には色分けでは不十分な説明で、文字情報だけが頼りだった。

 健常者には分からないだろうが、色覚異常は結構不便なのだ。

 人間の情報取得の約七割が視覚情報と言われている。それほど視覚は人間にとって大事なのだ。

 その視覚から色彩が奪われると、気のせいか、匂いや触覚、味覚も鈍麻してくるように吉岡は思った。

 その弊害の賜物か、聴覚が異常に敏感になった。

 都心の雑踏、地下鉄の走行音、ちょっとしたざわめきにもその内容を聞き取ろうとしてしまうのだ。

 現場の九段下から自宅の早稲田までの道のりの間、吉岡は様々なものを見聞きした。

 相変わらず見えるものはモノトーンであったが、それが却ってものの本質を見極めるのに気が付いた。

 本でも映画でもそうなのだろうが、色がついていないと、物事の本質の部分、末子末節の技工に惑わされる事なく目を配ることができる。手抜かりやごまかしがモノクロの世界では通用しないのだ。

 例えば広告。例えば男女の身なり。各人の靴の汚れ方、疲労と苛立ちを隠した顔。

 そういったものが自然と見透けてくるのである。

 とはいえ何を見ても眩しく感じるのには吉岡を苦しませた。

 行き交う車が光彩を放ち、地下鉄のプラットフォームも輝いていた。東西線に乗っても車内は煌びやかで光に満ちていた。

 吉岡は軽く頭痛を覚えた。

 ならば目を閉じれば良いだけの話なのだが、吉岡は自分の未知の病気との闘いに向けて、そうはしなかった。加えて、ほんの日常に大きな非日常が齎されてちょっと面白半分になっていたのだ。

 東西線内で隣に座った会社員をちらと横目で見た。彼は平静を装っているが、どうも何か釈然としないものを持っているように見えた。この時間に電車に乗っている会社員と言えば営業マンなのだろうか。これから商談に向けて緊張しているというより、商談が納得できる結果に終わらなかった風が表情から窺える。

 こんな事も見通せるようになったのも、目がモノクロでしか見えなくなったお陰(?)だ。これからMRI検査の十日間はこの状態でいられるのだ。それは吉岡にとって何かの吉兆にも思われた。

 来慣れた我が街、早稲田駅に着いた。

 駅を上って地上に出ると、まだ陽が傾き始めた頃で、夜の気配はまだ感じられなかった。

 これから所謂「トワイライトタイム」だ。

 駅から自宅マンションまで十分ほどだったが、吉岡は敢えてすぐには帰宅せず、街中を散策することにした。

 こうして見てみると、普段よく知っている筈の景色も違って見えるのが面白かった。

 初夏の陽に照らされて白亜のビルが建ち並んでいる。もちろん、本当は色がついている訳なのだが、吉岡にはそれらがモノクロにしか見えなかったのだ。照りつける斜光がビルの一つ一つを際立たせ、白く聳え立つビルは一種異様な都会の風景を形作っていた。

 ここが本当におれが住んでいる街なのか。

 吉岡はそう思うと、これら純白の宮殿が豪奢な神殿に思えてきた。

 都心部の本質はビルにある。そうとも言い切れる景観を見せていた。

 それぞれのビルには窓ガラスが一面に敷き詰められ、その窓ガラスが夕日を照り返してさらにビルの偉容を際立たせた。吉岡はその光景を眺めて自分がこの都心のビル街にふさわしくない卑小な存在のように感じた。

 いや。そんな筈はない。自分はこの街で今まで暮らしてきたんだが。

 そう自問自答したが、その反駁には誰も、吉岡自身も応えられなかった。

 早稲田の街並みはビルばかりではなかった。

 二三階建ての建物もあり、それらは吉岡にちょっとした安堵を与えた。

 根が貧乏にできている吉岡にはそういった矮小な建物の方が身の丈に合っていた。

 そのうちの一件、一階が古本屋になっているところへ立ち寄ってみた。

 その古本屋は文芸書の主流で吉岡の仕事の範疇である技術書は一切なかった。

 吉岡はいい加減に本棚の隙間をぬって書棚を眺めていった。

 その古本屋は文庫本の在庫が多く、吉岡には未知の世界だった。

 森鴎外、泉鏡花、永井荷風――そういった本が目についた。

 吉岡は特に興味を惹かれなかったが、そのうちの一冊を書棚から引き抜き、表紙に書かれている本の梗概を読んでみた。

 南方熊楠。粘菌学者で数多の功績を残したという事が書かれてあった。

 粘菌? 吉岡にはその言葉にピンとくるものがなかった。ページをパラパラと捲っていくと縦書きで日本語のみで書かれており、数式もコードも回路図も一切なかった。

 吉岡はこういった本が主流なのは知識として知ってはいたが、実物を手に取ってみると強烈な違和感を覚えた。

 思い返せば吉岡は高校の進路希望で理系を選択して以降、所謂文系の本を手に取った事がなかった。

 吉岡の目のせいで紙面は明るく輝いていた。そこに書かれた活版の文字列を追ってみたがなかなか頭に入ってこない。

 粘菌といえば自然界の最小単位の微生物でその存在は他の大型動物の陰をひっそりと支えているものだという認識を吉岡は持っていた。

 社会を支える、か。

 吉岡は自分の職業もその粘菌のようなものなんじゃないかと考えた。

 基本的に実社会の一般の会社員たちはコンピュータが何であるのかを知らない。何ができて何ができないか、どのような構成になっているのか、どのように活用できるのか、そういった基本的な事柄を知らないのだ。

 そこでSEの登場である。

 SEは解決すべき問題をコンピュータの力でねじ伏せて、より利便に、より簡潔に、よりシンプルにするのが仕事だ。

 とはいえクライアントがコンピュータの知識不足で無駄な行程を発注することも多くある。そういった際にはPLが代替案を提案してから仕様書を作成するのだが、怠惰なPLはクライアントの要求を鵜呑みにしてしまいがちなのだ。

 クライアントはコンピュータの本質を知らない。PLは実務の本質を知らない。

 だからお互いがお互いの手の内を曝け出して諸業務の簡略化を目指せばいいのだが、現実にはなかなかそうはいかない。吉岡が見るにはPLがクライアントの要求を咀嚼して業務の効率化を計るのが筋道だと考えているが、そうすると何故かクライアントは難色を示すことが多いのだ。

 クライアントは業務が簡略化され仕事が減るのを何故か嫌うのである。

 そもそも産業革命以来、人類は手工業を機械化して効率的に業務を行うことを前提に進歩してきた。現代ではあらかたそれは成功していると吉岡は踏んでいる。どうしても人の手が必要な仕事以外はほぼ機械化されているといってもいいだろう。これが所謂ブルーカラーの実相だ。

 翻ってホワイトカラーの仕事はどうだ。

 オフィスには一人一台のPCがあり(何と贅沢な!)、事務員たちは自分に課せられた業務を粛々とこなしていく。

 その業務に無駄はないのか? あるのだ。

 売上げ報告はBIツールのダッシュボードを見れば一目瞭然で、わざわざ報告書の態に書き直す必要はないし、各種登録作業はOCRで充分だ。

 そんなことはクライアントも重々承知なのだ。そういった効率化を計れば、人員も大幅に削減できる。所謂本来の意味でのリストラ(restructuring)が可能なのだ。

 だからこそなのか、クライアントは業務の自動化を示すと渋面を示す。おそらく現状の雇用をどうしても確保しておきたいようのだ。

 若い理想論としてはデスクワークの自動化により業務がなくなった人は、労働の苦役から解放された人となるのだが、現実社会では彼らは単に失業者になってしまう。

 資本主義社会では彼らを受け入れる体制が整っていないのである。

 だからといって社会が悪い、世間が悪い、政治が悪い、と言ってもどうにもならない。

 吉岡のような末端のSEはそうして無駄なシステム開発で糊口を凌いでいるのが現実なのだ。その仕事は社会を円滑に回転させる潤滑油のようなもので、おそらく自然界の粘菌と似たような性質を持っているのかも知れない。食物連鎖の最下層で大型動物の遺体をゆっくりと貪り食う。そういった現実社会の粘菌がSEという職業なのだ。

 吉岡は手に取った本を書棚に戻した。粘菌である吉岡には南方熊楠の本は物の本質の正鵠を得ているので、それをあからさまに暴露されるのが辛かったのだ。

 吉岡は狭い店内をゆっくりと巡回し、めぼしい本を探したが、どれが何の本なのか、文系の世界のことは全くの門外漢なのでそそくさと店を出た。

 自宅マンションまでの道すがら、吉岡はその眩しい光景に目を奪われた。

 モノクロの世界ではその色の明るさが物の形を象っていた。陽の斜光がますます街を陰影の小絵画を造形し、この早稲田の街は言ってみれば光と影のグラデーションが丁度良く調和を見せた芸術品のように吉岡には見えた。

 マンションに着くと吉岡はオートロックを解除して棟内に入った。エレベータに乗り六階に着いた。

 マンション内の廊下の天井には点々と照明が灯されていた。その明かりはうっすらと部分的に廊下を照らし、その明かりがあるところとないところの陰影の差が美しかった。

 吉岡は自室のドアの前で立ち止まり、鞄から鍵を取り出して室内へ入った。

 まず感じたのは暑さだ。

 吉岡は真っ先にリビングのリモコンを二十五度に設定して冷房を入れた。

 それから室内の照明を点けた。

 が、照明は吉岡には眩しすぎた。

 吉岡はすぐに照明を消してカーテンを開けて西日を室内に入れた。それぐらいの明るさが吉岡には丁度良かったのだ。

 吉岡は部屋着に着替えて夕食の支度を始めた。簡単にパスタにした。

 まだ午後六時過ぎだった。吉岡の夕食には早い時間だった。

 普段であれば午後十時ごろ退社し、自宅近所のラーメン屋か定食屋で夕食を済ませるのだが、これからの十日間はそういう不摂生ともおさらばだ。腹は減っていなかった。しかしこれからは普通の人と同じように、普通の時間帯で夕食を摂ってみようと思った。

 茹で上がったパスタにミートソースを乗せる。ダイニングで出来たての料理を食べる。

 これは吉岡の休暇の食事と同じだ。

 明日以降、この生活が始まるかと思うと吉岡の心にぽっかりと穴が空いた。

 吉岡はそうは思っていなかったが、自分が仕事人間だったことを覚った。

 午前十時の始業から午後十時までの業務、ときには泊まり込みや徹夜の生活習慣に慣れていた吉岡には、この一日の中で余暇が発生するのに戸惑った。

 どうやって時間を潰せば良いのか分からなかったのだ。

 簡単な食事だったのであっという間に夕食は終わってしまった。

 洗い物を片付けてシャワーを浴びた。

 まだ午後七時三十分だった。

 外はもう陽が落ちて夜が始まりかけていた。

 吉岡はリビングの照明を点けた。やはり眩しすぎた。またそっとリビングの照明を落とした。

 吉岡は今の病状と上手く折り合いをつけて生活する方法を模索した。

 太陽の光は確かに眩しいが、室内灯の方がより刺激が強く感じた。これでは夜を過ごせない。もっと刺激の少ない照明はないものかと思ったところ、一つあった。ベッドサイドの照明だ。

 寝るにはまだ早すぎる時間だったが吉岡はベッドに入り込んでベッドサイドの照明を点けた。

 うん。これなら大丈夫。

 そう確認すると吉岡は本棚から「計算機プログラムの構造と解釈 第2版」、通称SICPと呼ばれる本を取り出してベッドに寝転んだ。

 もう何度も読んだ本なので新鮮味は全くなかったが、再読するには丁度良かった。

 この本と「プログラミング言語C」通称K&Rは吉岡の長年の愛読書だ。

 SICPはその訳文が稚拙であるとの批判もあるが、原本の英文をそのまま持ってきたような文章なので、日本語特有の曖昧さが一切なく、どの文も一意に介することができる筆致で、吉岡のような学習者にはぴったりなのだ。

 吉岡はSICPを文頭から読み進めていった。第一章、第二章と読み進めていく内、吉岡の今までのコーディングに非常に影響を与えてきたのが、吉岡自身にも分かってきた。

 吉岡が仕事で使う言語はPython・Ruby・PHP・C++・Perl・JavaScript・VBA・SQL・PICのアセンブラ・組み込みのC・bashスクリプト等様々であるが、SICPに書かれているscheme(LISP)的な思考方法で問題解決に導くのにはいくらでも応用できた。

 例えばこんな例だ。

 「二〇二四年三月二十五日は何月度か」という問題があったとする。

 会社によっては末日締めだったり二十日締めだったりとまちまちだ。世間の風潮としては五十日に締め日を設定するのではなく末日締めにしようとしているのだが、そこで問題になるのが「二〇二三年度内は二十日締めで二〇二四年度以降は末日締めにする」といった問題だ。

 この問題の解決方法として、伝票の日付を見て「二〇二四年三月度までは二十日締め、それ以外は末尾締め」とハードコーディングする方法がある。この場合「三月二十一日から三月三十一日は何月度に所属させるべきか」という問題が発生する。で、並のSEはその例外処理のロジックをまた追加コーディングしてしまう。これは手続き型プログラミングしか知らないSEの悪手と吉岡は判断している。

 しかしLISP的可決策としては以下のようになる。

 まず「伝票日付」と「何月度か」の二つのカラムしかないテーブルを用意する。「伝票日付」には一日ごとの日付を記入する。まあ、西暦三〇〇〇年分も用意しておけば大丈夫だろう。そして「何月度か」のカラムにはその月度をyyyymm形式で用意しておく。

 こうしておけば例外処理のコーディングはなくなるし、将来の仕様変更にも対応しやすい。「年度」カラムを追加して年度ごとの集計にも応用が効く。そもそもこの方法では「三月二十一日から三月三十一日は何月度に所属させるべきか」問題が発生しない。問題があるとすれば西暦三〇〇〇年までしか対応していない点だけだ。しかしドッグイヤーで進化するコンピュータの世界ではその問題は事実上発生しない。それに本当に西暦三〇〇〇年まで運用するシステムなどある筈がない。

 こういった発想を与えてくれたのがscheme(LISP)でありSICPなのだ。

 吉岡はSICPで学んだ事を反芻していった。

 うん。これで間違いない。

 そう確信するに至った。

 それにしても仕事がない日は夜が長い。まだ午後十時十二分だ。今時、小学生でもこんな時間に寝入らない。

 せっかくの夜なのだから夜遊びにでも出掛ければよいのだが、突然の休職を突きつけられた吉岡には今日の今、その発想は思い浮かばなかった。

 寝るにしても寝るには早すぎる。かといって何かすべき事もない。吉岡はこれと言った趣味を持っていないのだ。

 吉岡はSICPを読み進める以外にはこの突然の休暇を過ごす手段が見いだせなかった。 時計が午前零時を回った。

 まあ、今日はこんなところだろ。明日になれば目も治っているかも知れないし。

 吉岡は本をサイドデスクに置き、照明を落としてやっと就寝した。


    ×


 翌朝、吉岡は午前十一時三十二分に目を覚ました。昨晩は久しぶりに目覚まし時計をかけずに寝たのだ。

 それにしても朝が遅いなあ、と吉岡は自嘲した。

 普段であれば午前八時半に起きて大急ぎで現場へ出向くのだが、これからしばらくはこの生活が続くのだ。吉岡は自分の体調の変化・生活習慣の変化にまだ順応していなかったのだ。

 目覚まし時計なしで正午近くまで眠っていたということは、普段、それだけ疲労を蓄積させていた証拠でもある。吉岡は気にしていなかったが、やはり今の仕事で無理をしていたのだ。

 考えてみれば人間も動物であるから日昇で目を覚まし、日没で眠りに入るのが本来であろう。しかし現代人で本当にそんな生活サイクルを送る者など誰一人としている筈がない。みなどこかで無理をしているのだ。

 吉岡の場合は生活習慣の無理だけでなく、思考や日々の問題解決方法にも無理をしている節があった。

 SEの仕事は、即ち実際のコーディング作業は暴力を振るっているのにも等しい。

 仕様書に書かれた通りにすれば良いのだが、それは問題解決のためにコンピュータを無理矢理に仕込み、そのコンピュータの計算力で有無を問わず仕事を片付ける作業の連続なのだ。

 傍目にはおとなしいのがSEであるが、その実は暴力を振るって人様の会社の業務に割り込んでくる暴虐者なのだ。その司令官はPLで現場の戦闘員がSEなのだ。

 その暴力に、知らず知らずのうちに吉岡は疲弊していたのだ。

 遅い寝起きだというのに腹が減っていない。それを感じた吉岡は自分の神経に少々の異変が起こっているのではと考えた。

 寝室からリビングへ行くとそこはいつもの光景だった。

 だが相変わらず色が見えない。モノクロにしか見えない。

 吉岡は一晩たっぷり眠ればそんな体調の異変も好転するだろうと安易に考えていたが、その期待は潰えた。

 吉岡の部屋は西向きだ。正午前なので窓からの日照はまだない。それでも季節のせいか、室内は蒸し暑かった。

 吉岡はエアコンを点けてその冷風を浴びた。そのときになって寝汗をかいていることに気が付いた。もうそんな季節かと思った。

 小さなソファに寝転び、見るともなくテレビを点けた。テレビもモノクロにしか見えない。それでも番組は何事もないように進行して行く。情報バラエティー番組では、磯田が言っていたように今年の梅雨明け宣言は「梅雨明けしてました」宣言だった。

 自宅にじっとしているのが耐えがたく、吉岡は家を外出した。

 外はもう盛夏だった。

 吹き付ける南風は重く湿っており、歩くだけでも汗が噴き出てくる。

 太陽が南中する時刻だ。これからが暑さの本番の時間になる。

 吉岡は通りをゆっくり進み、行く当てどなく彷徨った。

 早稲田の街は学生街だ。安くて量の多い飲食店も多数ある。吉岡は自分の体調の不振を払拭すべく手近にあったラーメン屋で昼食を摂ることにした。

 店の暖簾をくぐって券売機で食券を買った。「ラーメン」とだけ書かれたボタンを押して紙片が出てきた。空いている席に着席し、食券をカウンターの上に置いた。

 昼食時ということもあり、その小さなラーメン屋は吉岡が入って満席になった。

「はい。ラーメン一丁」

 店員の物憂げな小さい声がかけられた。

 ラーメン屋なのだからカウンター席は赤である筈なのだが吉岡には黒に見えた。店内にはラーメンを啜る音しか聞こえなかった。

 ものの二三分でラーメンが来た。ラーメンもモノクロだった。

 モノクロのラーメンがどれほど食欲をそそらないかお分かりいただけるだろうか。黒いスープに白い麺、灰色の具材が湯気の中に沈んでいる。香りは高いが見た目がまずい。だからといって食べずにいる訳にもいかない。吉岡はそのまずそうなラーメンを一口啜った。微妙な味だった。口内で感じる味は確かに旨いのだが、見た目のまずさがどうにも気になる。違和感しかない。他の客はラーメン屋でよくあるように一心にラーメンを啜っている。仕方なし、吉岡もそれに倣った。味はするのだが味がしない。そんな矛盾を突きつけられているようだった。

 麺と具材を食べ終えて残るはスープのみになった。

 最初はレンゲで掬って飲み、残りが少なくなると丼を持ち上げて完食した。

「ごちそうさま」

 店員が作業しながら気のない声で「まいどあり」と言った。その声を背中で聞いて吉岡は店を出た。

 外はすっかり夏の午後になっていた。

 この暑さでラーメンなんぞ食うんじゃなかったと吉岡は後悔した。

 平日の日中だというのに、大の大人が結構多くいる。どう見ても仕事をしているようには見えないが、かといって堅気にしか見えない。

 吉岡は長年のSE生活で気が付かなかったが、こうしてみると会社員だけが世の中の全てではないと分かる。

 知識としては知ってはいたが、それが現前に露呈するとその光景に違和感を持った。

 みな、何を生業として生活しているんだろう?

 そういった子供じみた疑問が湧いてきた。 吉岡の目は相変わらずモノクロにしか見えなかった。

 吉岡の感じた違和感はこの目のせいなのか、本当に会社員生活しか知らない者が持つ違和感なのか判別がつかなかった。

 炎天のもとで行き交う人々はその汗に嫌気が差しているように見えた。夏は暑いのが当たり前だが、吉岡は仕事柄、四季の移り変わりを感じる事が少なかった。いつもエアコンの効いたオフィスか、常に冷房を入れっぱなしのサーバルームしか知らなかったのだ。

 吉岡の世間知は殆どなかったと言えよう。

 確かに吉岡はSEとして一人前である。仕事もそつなくこなし、今の技量はどこへ行っても通用するだけのものを持っている。

 しかし、こと自分の仕事以外の事となると、ほぼ知識も経験もなかった。

 世間がどう動いているかも知らなかったし、異業種の人間がどれだけいて、どのように働いているかも知らなかった。

 これではまるで受験勉強にだけ長けていて学業の本質を知らない高学歴の大学生と変わらないではないか。そう吉岡は思った。

 行き交う人々を観察してみると、老若男女様々だ。学生街を象っているのは学生だけではなく、その街で、そこの人々を動かしている人間たちの活動にあるのだ。つまり、早稲田は単なる住宅地とは違い、そこには外食があり、娯楽があり、文化があり、様々な思惑と野心と試練に耐える若者たちの姿があるのだ。

 今年で三十五歳になる吉岡には、それらのどれもが欠如していた。即ち、早稲田の街で違和感を覚えるのは筋違いで、吉岡こそが早稲田の街に不適当な存在だったのだ。

 自分の居場所がこの早稲田の街にはない。そこまで極論すると、逆にどの街であれば吉岡がすんなりと溶け込めるのか、果たしてそんな街があるのかという疑問にぶつかった。

 やっぱり人気の中央線沿線? 悪い選択肢ではないが不案内なのでどの駅がどういう特徴があるか調べきれないよ。

 下町方面は? ハザードマップ見ると不安しか残らないんだよね。

 いっそ高尾方面は? あっちは車社会だから無理だね。免許持ってないし。

 それなら東京郊外の住宅地は? いや、それはファミリー向け物件だろ。おれは生涯孤独でいたいんだ。

 それで学生時代に住んでいたアパートの近所の早稲田を選んだと? まあ、そういったところだ。

 結局のところ、吉岡は東京に不案内なので学生時代から居慣れた早稲田の街に居を構えたのだ。選択肢はいくらでもあったのだが、自分の将来の事を考えずに、ただよく知っている街で、ということで早稲田を選んだだけなのだ。

 その古巣である筈の早稲田から今、自分が浮き始めていると吉岡は実感した。

 大学を卒業してもう十三年になる。しかし吉岡はどこかまだ学生気分に浸っていたのだ。もうとっくに大学を卒業しているのに、心中では卒業しきれていない、親離れができていない子供のように、この早稲田の街に固執しているだけなのだ。

 もうちょっと真面目に人生計画を考えて、引っ越しでもしようか。そんな考えがふと過った。

 仕事であれば吉岡は決断も早く、そして的確に行動に移せるのだが、こと私事となると、あれこれ思いを巡らすだけでなかなか実行動に移せない。つまり、吉岡は根が怠惰にできているのだ。

 他人様の会社組織やシステム設計に関してはあれこれアドバイスできるのだが、こと自分自身の将来設計がまるでなってない、盲目的に為すがままになっていたのだ。

 これからMRI検査までの間、時間はたっぷりある。それを使って普通ならどうすべきか、どうしているのかを調査するのも悪くはないな、と吉岡は思った。

 しかしそれにしても陽が目に刺さるのが気になって仕方ない。

 初夏はまだ体が慣れていないため余計に暑く感じられた。その陽は射るように痛く、それでいながら生命の活動に必要なエネルギーに満ちているようにも感じられた。

 目で見えるものは思考に様々な影響を与える。

 少しは前向きに人生を考えようとしたのだが、あまりにも陽が眩しすぎて思考が鈍磨していった。

 吉岡はふらふらの体で高田馬場駅まで歩いて行った。

 目に見えるもの全てが眩しすぎて、纏まった考えができない。気のせいか耳鳴りと頭痛と眩暈が始まっていた。目の奥に鈍痛を感じ始めた。

 このままでは流石にまずいと思い、駅前の雑貨屋でサングラスを購入し、その場で着用した。

 確かにサングラスで光の加減は落ち着いた。だが、それまでに蓄積された疲労のせいで冷静な判断ができない。気のせいかも知れないが、記憶も曖昧になっているようである。先ほど購入したサングラスの金額を覚えていないのだ。確か二千円でお釣りがきたのではないかと思うのだが……。

 サングラスをかけたところ、吉岡のモノクロの世界がより一層その度合いを深めていった。

 サングラスを掛けているのだから、モノクロに映るのは当然だ。が、光の強さによる頭痛は多少は緩和されたものの耳鳴りと思考停止はなおも続いていた。

 まずい。今の状態のままではおそらくどこかで倒れるか、吐くか、とにかく身動きできなくなる。

 吉岡はゆらゆらと揺れながら何とか地下鉄東西線の高田馬場駅まで降りていった。

 構内はエアコンも効いていて外の不快な湿った暑さは多少凌げた。だが頭痛と耳鳴りと眩暈を止めることはできなかった。

 ホームで電車が来るのを待っていると、生暖かい風が吹き抜けていった。天然の夏の蒸し暑さも不快だったが、人工的な冷房もまた不快だった。どちらかを取らなければならない、となると、人工の方を取りたかった。

 天然の暑さはその際限を知らない。夏の東京では気温摂氏三十七度を超す日もある。要するに体温より気温の方が高い日もあるのだ。

 吉岡にとって天然の赤熱は生命の維持を保つのを超えた気温に思われた。事実、熱中症で亡くなってしまう人もいる。ましてや今日のように梅雨明けしたばかりの日にはその気候の変化に体が追いつかないのだ。吉岡ももう若くはないのだ。そう自分に言い聞かせて地下鉄の温い風に吹かれて電車を待った。

 五分ほどで電車は高田馬場駅へ滑り込んできた。

 ドアが開いたのを確認して吉岡は一歩電車内に足を踏み込んだ。

 人工の涼しさ、冷房がよく効いていた。

 車内は人も疎らでみな何かに耐えているように見えた。

 高田馬場駅から早稲田駅までは一駅だ。

 吉岡はシートに座ってじっと早稲田駅への到着を待った。

 シートに座っている筈なのに視界が揺れる。

 熱射病か? 早稲田駅に着いたら駅室でちょっと休ませてもらおうかと思った。それまでは辛抱するしかなかった。

 電車は早稲田駅に着くまでいやに時間がかかった。おそらくそれは吉岡の勘違いで、電車は時刻表通りに運行されている筈だ。だがそのほんの一駅の間隔が吉岡には酷く長く感じられた。

 電車が早稲田駅に着いた。

 吉岡は這々の体で下車した。

 吉岡の体調の異常は更に強まっていた。いっそのこと倒れ込んでしまおうかとも思ったが、倒れたら起き上がれる自信がなかったし、そもそも駅員に世話を焼かせるのが憚られた。ベンチを探して座ろうかとも思ったが、座る動作をするだけで吐いてしまうような気がしたので、それも止めておいた。

 どういう訳かホームに駅員の姿が見当たらない。駅室も見当たらない。そうなったら、なんとか自宅まで歩いて帰るしか方法がなかった。

 眩暈と吐き気と頭痛の中、吉岡は駅を出て地上階へ出た。

 見慣れた風景が歪んで見える。もちろん色彩はない。

 ここから普段であれば歩きで十分で帰宅できる。

 しかし今の吉岡は普段通りの足並みで歩けなかった。

 この体調の異常は目に原因があるのか、気候の変化に原因があるのか、またはその他のものなのか、いや、それらの複合でそうなっているのか、とにかく今は普通の健康状態ではないのは明白だった。

 しかし行き倒れになるのはあまりにも惨めすぎた。人として行き倒れになるのが無念だった。その一念だけでなんとか自宅マンションまで辿り着いた。

 何とか自室の前まで来るとポケットから鍵を弄り出し、鍵穴へ突っ込んだ。どちらに回せば解錠するのかも分からなくなっていたが、とにかく扉は空いた。

 室内へ入り込むとすぐさま寝室へ入りベッドに横臥した。

 寝室は暗かった。目を閉じた。そのままの姿勢でサングラスを放り投げた。

 静寂と暗闇の中で吉岡は深呼吸した。自分の小息だけが聞こえた。

 今にも吐きそうだった。

 目を閉じているのに光りの残像が幾何学模様となって瞼の裏に張り付いてなかなか消えない。その模様はあるときは黒を背景にした薄緑色の円形を描き、あるときは青い斑模様を見せた。

 ポケットの中のスマホで一一九番へ電話しようかと逡巡しているうちに、寝入ってしまった。

 寝入ったといっても明白に寝入った感覚があった訳ではなく、どこからが現実でどこからが夢なのか、その線引きが曖昧だった。

 曖昧になっていたのは、夢が現実の吉岡の寝室がその舞台になっていたからだ。

 その夢の中、寝室はいつか見た牢獄の夢の続きだった。

 室内は暗く、明かり取りの窓が部屋の上方に一つあるだけだった。

 吉岡は思った。吐くなら吐いてすっきりしたかった。眠るなら眠るでぐっすりと寝入りたかった。しかし吉岡は半睡状態だった。

 以前見た夢の通り、室内に何があるのか、暗くてよく見えない。しかしいつものベッドに横たわっているのは確かだった。

 窓からは男たちの怒声が響き渡ってくる。

 その声は室内で谺し、一聴しただけは誰が何をいっているのか判別できなかった。

 吉岡はゆっくりと体を起こし、室内を探った。

 ベッドとは反対側の部屋の片隅に何かが積み上がっている。吉岡はそっとそれに触ってみた。

 金属の冷たい感触だった。

 徐々に目が暗闇に慣れてきて、明かり取りの小窓からの光だけでもなんとか室内が薄ぼんやりと見えるようになってきた。

 ベッドの反対側にあったのは、ボイラーか何かの古い機械類だった。機械は乱雑に積み上げられ互いに絡み合い、部屋の半分ほどを占めていた。

 一見しただけではそれが何の機械なのかは判別できなかったが、長年そこに安置されていたらしく、赤銅色の錆びが所々に浮いていた。

 なんとかこの部屋から出なければ。吉岡はこんなところに長居は無用と、壁のどこかに出入り口がないか探してみた。しかしそれは徒労に終わった。

 自分がどうやってこの部屋に監禁されたのかは不明だが、手掛かりであり唯一の脱出口は小窓だけだと判断した。

 吉岡は部屋の片隅の謎の機械を小窓の下へ運び出した。

 機械はかなり重たく、持ち上げるのも一苦労だった。加えてパイプや突起物が絡んでいるため、その一つを取り出すのにも手数をかなりかけた。

 機械類はあるものは箱形や円筒形だったり、それらを連結するパイプや何かのダクトと思われるものだった。

 吉岡はそれら一つ一つを解きほぐし、小窓の下へ積み上げていった。

 その作業は延々と続いた。その間も小窓の外から男たちの罵声が響いてくる。何を言われても構わんから、とにかくこの陰鬱な部屋から脱出したかった。

 小窓の下のガラクタ機械が、何とか攀じ登れる高さまで積み上がった。

 吉岡の身長からすれば、最上段へ上れば小窓に手が掛けられる。懸垂すれば外がどうなっているか分かるだろう。

 吉岡は自分で積み上げた機械類を攀じ登った。足を掛ける度に機械はがしゃがしゃと音を立てた。一度はずり落ちそうになったが、なんとか最上段まで上り詰める事ができた。

 あとは小窓に手を掛けて……。

 そのとき、吉岡が積み上げた機械類が下の方から音を立てて崩れ落ちた。


    ×


 吉岡は目覚めると、辺りの風景を見回した。

 いつもの自宅の寝室だった。

 午前四時三十二分だった。

 気が付くと寝汗でべっとりとしていた。

 吉岡はやおらベッドから這い出すと、まずシャワーを浴びてリビングで冷房を入れて人工の涼をとった。

 リビングのカーテンを開けると、もう夜の気配は過ぎ去って曙の空がさしかかっていた。

 また今日も吉岡の期待に反して目はモノクロでしか見えなかった。空は夜と昼の中間色の灰色にしか見えなかった。

 ベランダに出てみると確かに朝の清浄な空気があった。

 明け方とはいえ、昨日の日中の暑気がまだ尾を引いているようで湿気があった。

 普段の吉岡なら、この時間に仕事が終わることもあり、始発で帰宅して仮眠後、また出社という日もあった。

 だが今日も仕事はない。明日もない。明後日もない。

 吉岡の脳裏を掠めたのは、馘首になったプロジェクトの進捗状況だった。

 馘首になったのだから、もう何も気にする必要もないし、気にしたところで何もできない、何もやってはいけないのだが、つい習慣でそういった仕事への追想の念が湧き起こってしまうのだ。

 納期は確か来月末一杯だったな。

 吉岡は自分の病の事よりも仕事の方が気掛かりになってしまっている自分を見つけ、自嘲し呆れてしまった。

 明け方の時間はあっという間に過ぎ去り、また今日も炎暑の陽がさしてきた。

 昨晩の睡眠時間は短く、明け方起床で寝起きの寝惚けもあったせいで、耳鳴りと頭痛の苦痛は少なかったが、時間を追うごとにそれらは激しくなり吉岡を苦しめた。

 もう一眠りすれば治るかな、とも吉岡は思ったがもう午前九時をまわっていた。これから二度寝しようとしても眠れる時間ではない。

 時間が過ぎるにつれて耳鳴りと頭痛だけではなく目の奥の鈍痛も激しくなってきた。

 医者は「安静にしてください」といっていたが、安静にしていてはあまりにも苦しかった。

 こういったとき頼りになるのがセカンドオピニオンを呈してくれる医者だ。

 結局、体の事は医者に頼るしかないのだ。

 吉岡はスマホで近所の耳鼻科を探した。検索結果のトップページに自宅マンションに近い「耳鼻いんこう科山西クリニック」が出てきた。すぐさま電話し、「今日中に診察できませんか」と問い合わせた。受付員は

「今日でしたら午後の早い時間になってしまいますが……」

 と困ったような声で返事をした。

「いつでもかまいません。診てくれなければ一一九番します」

「ちょっとお待ちください」

 電話は保留音に切り替わった。

 その電子音が鳴っている間でも吉岡の耳鳴りは続いていた。

「午後の最初の時間帯なら大丈夫です」

 朗報だ。

「何時になりますか」

「午後三時になります」

「分かりました。三時に伺います」

「お名前よろしいでしょうか」

「吉岡道介です」

「ヨシオカ様ですね。それではお待ちしてます」

「お願いします」

 吉岡から電話を切った。

 こうしている間にも吉岡の不調は増していった。

 近所の耳鼻科を探す程度のスマホの操作ですら目に痛かった。

 開け放たれたリビングのカーテンを閉じてまた寝室へと戻り、ベッドの上に倒れ込んだ。

 眠りたかったが眠れなかった。

 日頃の激務と引き換えにそれなりのサラリーを貰っていたが、その代償がこういった形で現れてくるとは想像していなかった。

 SE三十五歳定年説――それは三十五歳までの体力でしかSEは続けられないよ、という意味に思えてきた。

 吉岡は本気で転職を考えた。

 自分にできる事といったらコンピュータ関連の仕事しかない。

 しかし目が故障している以上、今まで通りに仕事を続けることが難しくなっているのかもしれない。

 現代ではほぼ全ての仕事でPCを使っている。PCを使わない仕事といえば――吉岡にはそういう仕事が思いつかなかった。

 体力勝負の建築関連の仕事や運送関連の仕事をこの歳から始められる自信はなかった。

 かといってコンピュータ関連の仕事をして体を壊したのだから、もう二度とこの業界ではやっていけなんじゃないだろうかとの危惧が募った。

 ならば素性を隠して現場のSEに固執するか、PLへ昇格するか、このどちらかの道が一番現実的なんじゃないかと思うに至った。

 コンピュータ関連の仕事は若者の体力を食い潰して成り立っているのが実情だ。そのことは吉岡自身の経験からも分かっている。

 もう吉岡は現場でやっていくだけの体力が残っていない事を認めるしかなかった。

 ――潮時かな。

 吉岡はそうも思った。

 そこでまずやるべき事といえば、多少の瑕瑾が残っても今の体を回復することだ。

 現状、ちょっとスマホをいじっただけでも目がやられるようでは仕事にならない。今やるべき事は治療だ。この体の不具合を慢性化させないための回復期間が今だと思う事にした。

 頭ではそう考えられても心中ではどこかさざめくものがあった。

 学校を卒業以来、こうして長期間の休暇をとるのが初めての事なので、吉岡はその休暇の使い道を知らなかったのだ。

 どこかへ出掛けるにしても目は痛むしモノクロでしか見えない。この症状が出始めた当初は面白半分で外の風景の変化を楽しんでいられたが、今はそうではない。ただ不便で危険なだけだった。

 加えて原因不明の頭痛と眩暈と吐き気である。そのせいで食欲も湧かず、寝室から出る事すらままならない。

 九段坂病院で貰った抗凝固薬は本当に効いているのだろうか? 効いていてもこの有様ではどうにもならない。

 吉岡はベッドから起き上がろうともせず、目を守るためひたすら目を閉じてベッドから離れないようにした。

 せっかくの休暇なのになんてざまだ。

 吉岡はベッドの上で煩悶した。

 寝室のベッドの冷房はよく効いている。

 外は晴天だ。

 吉岡は長期の休暇中だ。

 これだけ良い条件が整っているのに吉岡は遊びもせず(とはいえ遊びもろくに知らないのだが)、午後三時の耳鼻科の診察まで何もやる事がない。何もできる事がない。

 何か目を使わずに済む過ごし方はないのか?

 radikoを思い出した。

 なんとかスマホをいじくりradikoで適当に放送局を選んだ。

 ラジオは音だけの世界だ。耳鳴りも気に障ったが、それを誤魔化すのには丁度良かった。

 より耳鳴りを抑えるために吉岡はイヤフォンでradikoを聴いた。DJの軽快なお喋りが鼻についたが、無音で耳鳴りしか聞こえてこない、という状態よりは大分ましだった。

 かつてはAM放送はお喋り中心で、FM放送は音楽中心だった。

 FM放送の番組がAM放送化し始めたのはJ-WAVEが開局してからだったと吉岡は聞いた事がある。もう今はAM放送だろうがFM放送だろうが、その垣根は事実上なくなっている。特にワイドFM放送が始まってからはもうラジオと言えばFM放送のみを指し示しているようなものだ。

 これはAM放送の衰微ではなく法律上の問題らしかった。

 近い将来、全ての民法のAM放送がFM放送へ切り替えられる。NHK第一だけがAMを放送することになる、とネット記事で読んだのを吉岡は思い出した。

 何でもAM局全てを潰す事は法律上できないらしいのだ。

 そんな事情もあって、かつて使用されていなかった90MHz以上の周波数帯へAM局が引っ越してきた。今やラジオの売り文句で「ワイドFM対応」は必須だ。

 考えてみれば最も簡便でコストがかからず大勢に情報を伝えるツールとして、ラジオはかなり優秀なんじゃないかと吉岡は思った。

 第一にラジオは技術的に「枯れた」ものである。

 ラジオ受信機は廉価で購入できるし、送信方式もデジタル化もされていない。ラジオ自体の消費電力もかなり低い。ちょっと電子工作に慣れていれば自作も可能だ。

 一方、IT関連の通信技術はラジオより遙かに脆弱だ。

 電信柱が倒れて中継器が潰れるだけで通信ができなくなってしまう。それに加えてIT関連の通信は断続的な回線断に弱い。ラジオであればただ「受信状態が悪いのなか」で済んでしまうのだが、IT関連ではそこで再度回線へ接続し直さなければならない。もし回線断が中央のDNSの破損だったり中央の中継網のトラブルだったら、それだけで数時間か数日の回線断が予想される。

 構造的にIT関連はラジオよりもっと複雑でネットワークの維持にはコストがかかっているのだ。

 とはいえ、あの3.11のときでさえネットは使えたのだから、そこまで考えるのはただの杞憂に過ぎないのだが……。

 吉岡はエンジニアとしてネットをあまり過信していなかった。

 最後までの残る通信手段はアナログの電波放送だ。吉岡はそう考えていた。

 しかしこうして現にradikoは今日も元気に放送している。そのことに吉岡は多少の不安を覚えた。

 この仕組みがいつ破綻するか、いつ音声が途切れるか、そういった不安がないでもなかった。

 ラジオ放送が正午を伝えた。吉岡は昼食を摂ることにした。

 そういえば今朝は朝食を摂っていない。しかし腹は減っていない。不思議な事にそういった不摂生ももう板についていたのだ。

 吉岡はなんとか寝室から這い出してキッチンの前にたった。

 男の一人暮らしなので、ツードアの冷蔵庫にはそれほど買い置きの食材が入っていない。

 今日も買い置きのパスタにミートソースだ。

 吉岡は食事にあまり頓着するタイプではない。必要な栄養が摂れればそれで充分という考え方だ。

 真っ白な器に真っ白なパスタを盛り付け、真っ黒な(吉岡の目にはそう見えた)ミートソースを掛ける。食事は五分とかからなかった。毎食後の服薬も忘れなかった。

 それでも視界はモノクロのままで頭痛も耳鳴りも一向に治まる気配がなかった。

 吉岡はすでにこの状態に慣れつつあった。

 いや、駄目だ。こんな状態のままではいかん。あと三時間、その三時間をなんとかやり過ごせばこの症状は回復する筈だ。

 吉岡はそう自分に言い聞かせた。

 洗い物を済ませて、また寝室に戻った。

 吉岡は目の痛みをこらえながら磯田にLINEを送った。

「いま時間、大丈夫?」

 返事はすぐ来た。

「大丈夫。おまえこそ大丈夫か」

 吉岡は正直に返信した。

「あんまり良くない。今日、耳鼻科へ行ってみる」

「大変だな。何があった?」

「頭痛と耳鳴りと目の奥の鈍痛。吐き気と眩暈もする」

「お前、そんな状態で仕事してたのかよ」

「うん。してた。これが普段の体調だったから」

「どうみても普通じゃないだろ」

「慣れるんだ」

「何故もっと早くに言わなかったんだ?」

「今回のプロジェクトが終わってから医者に行く積もりだった」

「確かそんなこと言ってたな」

「で、進捗はどう?」

「やや遅れ気味。いつものことだ」

「やっぱりおれが悪かったか」

「お前がいても変わんねえよ。納期はいつも三日足りないのは常識じゃないか」

「おれの代わりの新任は?」

「来た。さっそく働いてる」

「万事問題なしか」

「問題はお前だ。さっさと治せ」

「ありがとう」

 そこでLINEを終わらせた。これだけのLINEだったが、かなり疲れた。

 吉岡はまたradikoを聴いた。

 もう今日は読書すらできない。当然スマホもいじれない。ただ寝室に臥せて時間が経つのを待つしかない。吉岡は目覚まし時計を午後二時四十五分にセットして時が経つのを待った。

 吉岡はずっと目を閉じていた。にも関わらず瞼の裏には種々様々な模様が浮かんでは消え、そしてまた現れた。

 その模様の明滅を見るのが吉岡には辛かった。

 目を閉じているのだから真っ暗の筈だ。余計なものはいらない。あって欲しくない。

 吉岡は頭を抱え込むように両腕を目の上で交差させた。

 こうすれば何もしないよりも光の影響を受けなかった。目を強く押し込めば暗闇もそれに従ってより色濃くなっていた。

 それでも不思議な模様は消えなかった。

 むしろ目を押さえつけるほど模様はその造形の複雑さを増し、ゆっくりと回転し始めた。 吉岡は思った。待てよ。この模様、あの変な夢に出てきた機械類の陰なんじゃないか?

 吉岡はその模様と曖昧な夢の記憶を辿っていった。

 確か夢の中の牢獄には沢山の機械類が積み上げられていた。その形は人為のなせる業で造られた計算された造形物だ。それらが幾何学的な形をしているのは不自然ではない。今、吉岡が見ているのも、天然自然にできあがったものではなく、吉岡自身の心の裡にある何らかの心象風景なのではないか――。しかし吉岡はそういった形あるものを造ったことはない。吉岡がやってきた事はコーディングであり、コンピュータの中での書き物だけだった。それがまだ寝入ってもいないのに瞼の裏に形となって現れたというのか。

 吉岡には身に覚えのない話ではなかった。

 あるときは製鉄機械の組み込み開発もやった。またあるときは食品加工工場の製造ラインの制御機械の組み込みもやった。携帯電話基地局の管理システム更新の仕事もやった。

 吉岡がやってきた仕事は間接的に何か形あるものを制御することが多かった。吉岡のキャリアの初期の頃は単純な経理システムや簡単なデータベースの構築もやった。それらをやったのはほんの半年か一年程度で、それ以後は徐々にではあるが上流工程を任されるようになっていた。

 吉岡の仕事は順調にキャリアを積んで、より上部の、より堅牢性を担わされる責任ある仕事の方が多かった。

 夢に見たように、決してガラクタを相手にしたことは、ほんの僅かでしかなかった。

 それらが何故今頃になって夢や瞼の裏に現れてきたのか? 吉岡にとってその初期の仕事が吉岡にどう影響を与えてきているというのか? 吉岡にはそれら全ての疑問が判然としなかった。

 今となって、何かの因縁があって、吉岡のその初期の仕事が吉岡に復讐を企てているのか? 吉岡はそうも思ったが人に恨みをかうような覚えはない。極真っ当に会社員生活を過ごしてきただけだ。確かに泊まり込みも徹夜も多かったが、その成果物は感謝はされど怒りをかうことは全くなかった。

 では今見えている瞼の裏の幾何学模様の正体は?――やはり身に覚えがないとしか言いようがない。

 目覚まし時計が鳴った。

 吉岡は乱暴に目覚まし音を切って耳鼻科へ向かった。

 マンションのドアを開けると、一気に夏の猛暑の気怠い湿気にやられた。

 視界は相変わらずモノクロだった。

 十分もかからない初夏の散歩なのだが、外はあまりにも眩しすぎた。加えてこの熱気だ。ほんの数分であるのに大汗をかいて体力を消耗させてしまった。

 しかし何とか事故を起こさず耳鼻科まで辿り着いた。

 本当に何とか着いたと言ってよかった。それほど吉岡は体力を奪われていた。

 眩暈による歩行困難、日射による視界の不明瞭さ、急な気候変動による頭痛の重さ。

 それらを合わせるとやはり救急車を呼んだ方が良かったかと思われた。

 病院に着いたのは午後二時五十四分だった。 入り口には「診察中」の表札が垂れていた。

 耳鼻科は所謂街医者で、小ぶりな二階建ての建物だった。

 吉岡は扉を開けて受け付けへ行った。

「三時に予約した吉岡です」

「ヨシオカ様ですね。初診ですのでこちらにマイナンバーカードをお願いします」

 受付横にマイナカード読み取り機があった。マイナカードをセットして顔認証をパスした。その間に受付員は診察券を作っていた。

「少々お掛けになってお待ちください」

 受付員は診察室に小走りに入ってきてすぐ戻ってきた。

「吉岡様、診察室へどうぞ」

 全く待たされなかった。吉岡は診察室へ入った。白衣の老人がいた。この病院の主治医でありオーナーと思われた。

「今日はどうなさいました?」

 医者は医者らしく平静だった。吉岡は今までの症状全てを言い、九段坂病院で処方された薬を鞄から取り出して医者に見せた。

「ああ、これね」

 と医者は何事もないかのように言った。

「ちょっと左、向いてください」

 吉岡は左を向いた。医者は円錐形の金属パイプを吉岡の右耳に差し入れ、ペンライトで耳の中を観察した。

「今度は右、向いてください」

 吉岡は言われた通りにし、医者は同じように左耳を観察した。

「じゃ、今度は聴音検査しますから」

 と、吉岡の背後の防音ボックスを示した。

 吉岡は助手に促され防音ボックスに入った。 一平方メートルもない防音ボックスの中に吉岡は座らされ、「音が鳴ったらボタンを押してください」と助手に言われた。

 吉岡はヘッドフォンをし、ボタンを渡された。

 聴音検査は極簡単だった。まず右耳から百ヘルツぐらいと思われる音が鳴った。吉岡はボタンを押した。次に四キロヘルツぐらいと思われる音がしたのでボタンを押した。

 このような作業を十回ほど両耳でやった後、助手は吉岡を防音ボックスから出した。

 再び医者の前の椅子に座らさせられた。

 医者は淡々とした口調で平然としていた。

「聴覚に問題はありませんね。じゃ、これ見て」

 医者は右手人差し指を吉岡の前に上げてゆっくり上下左右に動かした。これは九段坂病院でもやったテストだ。

「確かに末梢神経に問題がありますね。薬を処方しますので二週間、様子を見てください」

 診察はあっという間に終わった。

 吉岡は処方箋を受け取って病院近くの薬局へ行き、薬をもらって帰宅した。

 病院での診察が終わると吉岡の気は晴れた。頭痛は治らず相変わらずモノクロの風景にしか見えなかったが、気分は晴れた。

 帰宅すると薬を検めた。

 メリスロン錠(眩暈止め)、アデホスコーワ顆粒(血流改善)、ビタミンB12とあった。

 ここでもまた血流に関する薬を処方されてしまった。

 そんなにおれの血は固まっているのか?

 吉岡は素人ながらそう不思議に思った。

 それにしても毎食ごとに服用する薬が増えたので、その手間の方が気になった。

 これからMRI検査までの間、これら薬と共に何もせず無為に過ごす時間が来るのだ。 吉岡は自分でも呆れたが、PCとスマホNGとなり目を休めなければならないとなると、何もできることがなくなってしまった。

 逆に言えば、それまでの吉岡の生活はPCとスマホと何かを見る事ばかりであった事になる。

 吉岡は無趣味だった。休日もプログラミングの新たな技法の発見に勤しんでいたし(とはいえ一般に知られているアルゴリズムも二十三個のデザパタもすでに学習済みなのだが)、テレビがなくてもネットがあれば充分に余暇を過ごす事ができる生活習慣が身についていた。

 スポーツは全く駄目だった。これは学生時代からのことで、根が軟弱にできている吉岡は自分の身体能力を高めるための訓練に、すぐ音を上げてしまうからだった。即ち、筋トレ無理、ジョギング無理、基礎訓練無理、といった具合だったからだ。

 医者に言われなくても目を使うのは避けたかった。吉岡の視界は相変わらずモノクロで、いやに眩しいままだった。九段坂病院で貰った薬の効能はまだ出ていないらしかった。

 とにかく暗いところで安静にするしかなかった。

 となると、やはり吉岡が思いつく場所は自宅の寝室以外になかった。

 もし吉岡に楽器の趣味があるのならその練習にこの余暇を当てるのが相応しかったが、あいにく音楽は聴くのみで弾く方はやった事がなかった。

 詰まるところ、やはりradikoで時間を潰すしかなかった。

 吉岡はベッドに寝転んでスマホからイヤフォンでradikoを聴いた。

 横になると眩暈もかなり軽減された。耳鳴りもラジオの音で少々は誤魔化せた。目を閉じているので、視界の刺激は最小限に抑えられていた。

 今できる最善策はこれしかなかったのだ。

 目を閉じて音にだけ集中するのは、それはそれで愉快だった。

 普段であれば吉岡の生活は目で見る文字情報がほぼ全てだった。仕様書、設計書、マニュアル、そしてPCでのコーディング作業……どれもあまり聴覚に頼る仕事ではなかった。

 時折の会議以外ではあまり話す事もなく、昼休みに同僚と雑談する程度だった。

 考えてみれば、あまりSEに対人コミュニケーション能力は必要とされないんじゃないかとすら思えた。

 しかし待てよ。それは吉岡自身がまだPLの仕事をやった事がないから知らないだけで、PLになれば顧客との折衝も増える筈だ。いや、折衝こそがPLの主な仕事になるだろう。

 そういった職種で耳鳴りに悩まされたり、頭痛を理由に先方の話を聞き逃したりしたら…… まあ、PL失格だな。

 吉岡は改めて転職を考え直した。せっかく今まで蓄積してきた技術が吉岡にはある。その自負の方が転職し未知の業界へと転身する誘惑を阻んだ。

 何が問題かというと、今の病状が問題なのだ。おそらくこれは職業病だ。逆に考えれば寛解すればいつだって現場に復帰できるし、PLを目指すことだって年齢的にぎりぎりだができる。

 所詮、おれはこの業界にずぶずぶなのだ。ならば毒をも皿ごと食らってしまえ。この身を削ろうとも(いや既に削り過ぎだが)充分裕福に生活していける自信はある。

 人生は見ている方向に進んでいくのだ。下を見れば下に、上を見上げれば上へ行けるんだ。

 radikoが午後七時を告げた。そろそろ一般の人のように夕食を摂ろうと思った。

 吉岡はほぼ暮れた早稲田の街に出た。

 せっかくだから一杯飲もうかとも思ったが、体調がそれを許してくれなかった。まだ視界はモノクロだし頭痛も酷かった。ここで酒毒にでも当たったら堪ったものじゃない。

 吉岡は考えをすぐに切り替えて近所の弁当屋でカツ丼を注文した。

 五分ほどでカツ丼はできあがった。

 吉岡は弁当を持ち帰ってがつがつとカツ丼を食った。

 思えば休職になってからろくなものを食べていなかった。吉岡にとって食事はただの栄養補給でしかなかったが、この長い休暇を普段の仕事のある日のように過ごすのが勿体ない気がした。

 まあ、目の痛みが引いたら外出して何か良いものでも食べよう。

 そう思うと俄然、明日への活力が漲ってきた。最悪なのは今日のこの日、このときだけだ。医者の診察も受けた。処方薬も貰った。明日からは薬の作用で症状もきっと軽くなるだろう。

 そう思うと急に眠気が襲ってきた。

 考えてみれば今朝は午前四時半から起きている。それに休職中の生活サイクルがまだ整っていなかったのだ。

 朝起きて三食たべて夜就寝する。

 そういう極当たり前の生活をしてこなかったせいで、吉岡の体内時計は狂ったままだったのだ。

 吉岡にその自覚はあった。これからは真人間の生活をしていこう。そしてMRI検査なり何なりを経て社会復帰だ。将来は明るい。 吉岡はシャワーを浴びて就寝した。

 こんな早い時間に眠れるかどうか疑問だったが、とにかく吉岡は照明を消してベッドに入り込んでみた。


    ×


 吉岡は夢を見た。

 それは先日来からの夢の続きだった。

 それに気付いた吉岡は何か不穏な空気を感じた。

 吉岡は牢獄の中で大の字になってひっくり返っていた。

 そう。積み上げた機械類に攀じ登って転落したのだ。

 吉岡は体の傷を確認した。怪我はしていなかった。しかし腰を打ち付けたらしく起き上がるのに難儀した。

 吉岡は唸り声を上げながらなんとか上体を持ち上げた。

 腰の痛みは引き始めていた。

 吉岡は腰をひねったり、伸びをしてみたりと体の不調がないかどうか丹念に調べてみた。右腕の肘に小さな擦過傷があった。それ以外、傷らしい傷はなかった。

 相変わらず天井近くの小窓からは男たちの罵声が聞こえてくる。だが吉岡はそれを恐れなかった。小窓から聞こえる怒声よりも小窓から漏れ光る外の世界に希望を見いだしたからだ。

 吉岡はもう一度、機械類の山を登り始めた。

 その一歩一歩は重かった。

 ある箇所に体重を掛けると、そこにある機械がずり下がり、吉岡の体勢を捻じ曲げた。吉岡はそれでも踏ん張って新しい足場に足を持ち上げた。何度も何度も手足の場所を移し替えてゆっくりと機械類の山を登っていった。諦める、という選択肢はなかった。とにかくこの袋小路の密室から脱出したい。その一念だけで機械類の山を攀じ登った。

 もうすぐでてっぺんだ。吉岡は焦った。もうすぐ外の世界へ通じることができる。汗みどろになりながら自然と笑顔になった。

 ついに頂点に達した。吉岡の笑いは希望の笑いだった。

 足場はぐらついて不安定だったが、そんな事はお構いなしに小窓に右手を掛けた。そして少し飛び上がって左手も手に掛けた。

 後は両腕の力の限り、懸垂するだけだった。

 吉岡は唸りながら両腕に力を込めて顔を小窓の高さまで持ち上げた。吉岡はまた唸り声を上げた。もうすぐ脱出できる。この黴くさい暗い部屋から逃げられる。その思いが吉岡を勇気づけた。

 右腕を使って小窓に右肘が乗った。外の世界はもうすぐそこだ。

 吉岡は左腕を勢いをつけて小窓に引っかけた。

 顔が小窓の正面に向き合った。外の世界が見える!

 が、小窓は外の世界に通じていなかった。

 小窓にはPCのモニタが嵌め込まれていた。

 そのモニタには無数の吉岡の顔があった。

 その吉岡それぞれが「死ね!」「死んでしまえ!」「死をもって償え!」と叫んでいた。 吉岡は一瞬絶望した。誰かが仕組んだ罠としか思えなかった。

 吉岡は乱暴にモニタを殴り倒そうとした。

 右手でモニタを殴ってもモニタは微動だにしない。モニタを引っ張ってみても動かない。押し込んでみても動かない。ならばスライドさせるのかと思い手を掛けたがモニタは動かなかった。

 吉岡の両腕が痺れてきた。もうこの体勢を維持するのは限界だった。だが吉岡は諦めなかった。

 どうにかしてモニタを突き破って外に世界に出るんだ!

 しかし自由の効かない両腕ではこれ以上の力をモニタに掛けるのは不可能だった。

 畜生! これまでか!

 しかし吉岡は諦めなかった。

 やっとここまで辿り着けたのである。そう易々と諦めてたまるか。

 吉岡は残りの力を目一杯掛けてモニタを引っ張った。しかしモニタは罵声を投げ掛けるだけで依然として外せなかった。

 そのとき、吉岡の体から力が抜けた。また機械類で積み上げた足場に戻ってしまった。

 ここは作戦変更して、もっと足場を高くしてモニタを破壊できるようにしなければ、と思った。

 次の瞬間、下の方から金属質の音がした。

 吉岡は何が起こったか判断できず、咄嗟に身を屈めた。

 吉岡が積み上げてきた足場が音を出して崩れ始めた。

 吉岡は姿勢を保つので精一杯で何とか崩れ落ちた機械類の上に落下した。

 しばらくは何が起こったか分からなかったが、状況としては吉岡の体重の負荷が山になった機械類には耐えられなくなり崩落したと思われた。

 だが実際は違った。

 部屋の隅にスーツの男が一人立っている。機械類の上で崩れ落ちた吉岡を見つめている。

 その男が機械の山積みの足場を下から崩したのだ。

 その男は磯田だった。

「……磯田?」

 吉岡は無念と驚きの表情で磯田に言った。

「体調を崩したって聞いてたけど元気そうじゃないか」

 吉岡は二の句が告げなかった。

「吉岡、一体何をやろうとしてたんだ?」

 吉岡はつい口走ってしまった。

「……いや、ここから脱出しようと……」

 磯田は冷ややかに笑った。

「脱出? どうしてお前がここから脱出したいんだ?」

「どうもこうもないだろ。こんな暗くて湿ったところにいてられるか」

 磯田は困惑と呆れた顔で言った。

「何言ってんだ。この部屋を作ったのはお前自身じゃないか。進んでこの部屋に閉じこもったくせに、何を今更」

 おれがこの部屋を作った? そんな事ができる筈がない。

「お前こそ何言ってんだ。ここはどこだ? どうしてお前がここにいるんだ? 出入り口があるなら教えてくれ。もうこの部屋に閉じ込められるのは沢山だ。なあ、一緒に外へ出よう」

 磯田は冷笑した。

「馬鹿な事言うなよ。お前が踏み台にしたそのガラクタ、全部お前が今まで書いてきたコードじゃないか。自分で書いたコードのメンテぐらいちゃんとしろよ。SEの大鉄則じゃないか」

 このガラクタの機械類がおれが書いてきたコード? どういうことだ? この錆び付いた機械がおれが造ったものなのか? じゃあこの部屋は一体何なんだ。

「……どうも自分の言った事、やってきた事が理解できてないらしいから説明してやるよ。

 この部屋はお前が設計したお前自身の人生だよ。全く、狭くて薄汚れていて誰も寄り付きやしない。だがお前はそれを望んでいたんだ。

 何故お前の目が色を失ったか分かるか?

 お前はものの本質を見極めようとして、その装飾とお前が勝手に判断した色彩を見るのを諦めたからなんだよ。お前の病気はお前の望んだ世界なんだよ。お前の夢の実現は、現実社会ではただの病気なんだ。そんな事にも気付きもせず休職にまで追い込まれたんだ、いや、自分で自分を追い込んだんだよ。

 こんな有様だがここはお前の本心が望んだ世界そのものなんだよ。違うか? お前の人生はこの部屋が全てなんだよ。お前は外の世界と隔絶してこの部屋に籠もる人生を選択したじゃないか。

 忘れたか? 忘れたなら思い出させてやろう。

 お前はいちSEとして人生を捧げようと思ってたじゃないか。誰にも邪魔されず、誰とも没交渉でPCに向かう日々を楽しんでたじゃないか。

 その結果、体を壊して休職させられたんだ。

 まだ自覚がないようだが、もうすぐ気付く筈だ。お前はメンタルもやられてるんだよ。

 色が見えなくなっただとか、眩しいだとか、よく精密検査すれば分かるが、全部心因性の疾患だよ。MRI検査なんて必要ない。その事は自分がよく分かっているだろ?

 全く予想外だったか? そう、違うよな。

 自分でも薄々気付いてただろ? 自分はもう気力も体力も限界だって。だがどこにも逃げ場がない。だから余計にこの部屋に閉じ籠もって現実から逃げてたじゃないか。

 だがそれももう限界だった。

 今更人並みの生活を望んだってそりゃ無理だ。

 お前に残された選択肢は一つしかないって分かってるだろ?

 治療だ。特に専門的なやつだ。

 しかし、実際にこの部屋に来てみて驚いたね。

 お前のSEとしての生涯がこんなに荒れすさんだものだとは、正直、おれも意外だったよ。

 しかしね、今からやり直そうとしたら、それなりに時間と覚悟が必要だってことは分かるだろ? お前がどれぐらいの分別があるか知らんが、今までの人生を全否定するぐらいの覚悟がこれから必要になるんだ。その覚悟はできてるか?

 いや、覚悟ができていなくても、もう決断の時期が来ちゃったんだよ。

 もう無理すんな。もういい歳なんだから。

 おれから言える事はこれぐらいのもんかな」

 磯田は両手をポケットに突っ込み見下すように吉岡を見た。

「なあ、この部屋がおれの人生の全てって事は、これからおれ次第でこの部屋をどうにでもできるって事でもあるよな?」

 磯田は即答しなかった。

「……まあ、どうなるか、どうしたいかによるけどな。第一、部屋を造っちまったお前にも責任はあるけどな。

 そもそも閉じ籠もるように部屋を造ったのが間違いだったんじゃないかな。人によっては草原だったり雲の上だったり人生の形は様々だからなあ。その点、お前の場合は部屋のある人生を抜け出す気が残ってただけ、まだ救いはあるのかもしないな」

「磯田、お前の場合はどうなんだよ」

「おれ? 何にも持ってないよ。部屋もない。それ以前に家がない。おれはいつでもどこへでも行けるようにしてあるんだ。だって人生長いだろ? 一カ所に踏み留まって踏ん張るような自信もなかったし色んな人にも出会いたかったからね。まあ、お前とは正反対の人生を選んだんだ。

 今回のプロジェクトでたまたまお前と一緒に働く事になったけど、納期が過ぎてプロジェクトが完了したら後は保守チームに全てを投げて終わる積もりさ。おれとお前の決定的な違いは、自分の造ったものを後生大事に自分で保管しなかったことかな。

 まあ、そう言っても自分で造ったものに愛着を感じる気持ちは分からんでもないが、だからって生涯そんなものに付き合わされるのは真っ平ご免だね。

 SEの世界では技術はどんどん進化していくだろ。だから自分もどんどん進化していくのを要求されるんだ。だがね、おれは年齢と共に学習能力が衰えてくる例を沢山知ってるんだ。だからいつまでもSEに固執しないし、そもそもコンピュータ関連の仕事にも固執してない。だから自由に世界を飛び回れるんだ。例えばお前みたいに狭い部屋の中でじっとしてひたすらコーディングに入れあげてる部屋の中にでもね」

 そうか。そういうことか。全ては自分の裡にあるということか。

 ならば自分が変われば自分の世界も変わるということか。

 しかし吉岡はそう判断したものの、実際にどこでどう活動すればそんな事ができるのか知らなかった。その知らなかった事を探す旅に出掛ける必要があるんじゃないかと思った。 吉岡は夢の中でそこまで覚えていた。それ以後もあったように思うが、吉岡が目覚めると磯田の言葉を最後にどんな夢の続きを見たのか、記憶から欠落していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

モノクロの世界 @wlm6223

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る