謎解きの夜

@wlm6223

謎解きの夜

 午前二時三十二分、そのマンションの六階の一室だけ、灯りが点いている。その部屋で道介は「ふう」と溜息を吐いた。道介はやっとその抽象画を完成させたのだ。タイトルは「ある男の生涯」。その黒と青を基調とした渦巻きだらけの絵の前で、道介は完成の満足感にひたっていた。道介はリビング兼アトリエの、その一角にあるソファにどかっと座り込み、安ウイスキーをストレートで一杯飲みほした。手にはまだ洗い流していない油絵の具がこびり着いている。そのせいでウイスキーグラスが汚れた。が、そんなことは道介はお構いなしだった。

 完成した絵をほろ酔いで眺めると、「ある男の生涯」というタイトルが、いやに大仰に思えてきた。道介はまだ三十五歳だ。絵に込めた流転の人生と、自分の今まで生きてきた生涯とを比較すると、おれにはこのタイトルの絵を描くにはまだ若すぎたかな、と思った。道介は自分の知りうる人生の不条理、悔悟、苦悩、謀略、そういったネガティブなものを画の材に選んだ積もりだったが、その深度は絵画芸術に落とし込めるほどの深慮がなされていないのではないか、とちょっと心配した。

 しかし、これで完成だ。これ以上の作は今の道介には描けなかった。

 これが自分の実力の全てだ。そう言いきる自信はあった。道介はその生涯で知る思惑すべてをキャンバスに落とし込むのに成功したと思った。

 問題はこの「ある男の生涯」の鑑賞者がどこまで道介の深慮を汲み取れるか、それが問題だった。

 創作の疲れが道介の全身を包み込んでいた。それはウイスキーにより増幅され、緩慢に軽い痺れと暖かさで体中を包んでいった。

 そのときピンポン、と呼び出しベルが不意に鳴った。

 こんな夜中に誰かと思いながら、インターフォンのカメラを見た。女の腕だけが写っており、来い来いという仕草をしている。道介は不気味に思いながら玄関を出ると、そこにはもう女の腕はなかった。ふと見ると、通路の向こう、エレベーターホールの方で女の腕が来い来いとしている。

 外に来い、と言いたいのか?

 道介はその女の腕の示す通りに部屋を出てエレベーターホールへとゆっくり進んでいった。

 エレベーターは既に六階に止まっており、扉は開いていた。

 道介は部屋に戻ろうと思ったが、行き先ボタンが「BF」しかなかった。酔いも手伝ってか冷静な判断ができない。

 幻視? そうも思ったがそれは酔いと疲れのせいにして「BF」ボタンを押してから「閉」ボタンを押した。

 道介のマンションの地下階は駐車場になっている。が、車が一台も停まっていない。道介は不気味に思った。

 「おーい」と呼ばれた方を見ると、親子がキャッチボールをしていた。親のほうが手を振っている。近づいてみると、それは三十年前の道介の父親だった。子供の方は……五歳の道介だった。

「あなた、誰なんですか?」

「親の顔も忘れちまったのか。元気でやってるか」

「ええ……まあ……」

 道介の父親は昨年肺がんで死去している。今は墓の下にいる筈だ。

 ということはここは墓の下? あの世のなのか?

「ここへ来たってことは、あんまり良くないな。未来は前途洋々のつもりいないと、絵描きなんか続けられんだろ? ほら、お前も挨拶ぐらいしろ」

 父親は道介少年に挨拶を促し、少年は「こんにちは」とだけ言った。父親は五歳の道介の頭をぐしゃぐしゃに撫でまわした。

「おじさん、僕は将来どんな大人になっているの?」

 道介少年は不安げな表情で道介を見上げた。

「そうだね……普通科の高校を卒業して美術系の大学で西洋画の勉強をしたね。それから三年間サラリーマンでイラストレーターをやったんだ」

「それから?」

「その三年で会社を辞めたんだ」

 道介少年は不思議そうな顔をした。

「どうしてお仕事辞めちゃったの? 大人はみんな働くんでしょ?」

 道介は苦笑いを噛み殺した。

「仕事を辞めたんじゃないんだ。別の仕事を始めたんだ」

「何を始めたの?」

「自分の作品を描くためにサラリーマンを辞めたんだ」

「自分の作品? サラリーマンは自分の作品を描けないの?」

 子供に大人の事情を説明するのは少々難しい。しかし、道介は幼少期の自分にこれから進むべき道程を指し示さなければならないという奇妙な義務感を感じ、ありのままを話すことにした。

「サラリーマンだとね、お客さんから注文を受けて、お客さんが満足するように画を描かなきゃいけないんだ。自分がこう描きたい、と思っても、それがお客さんが納得しなかったらやり直しなんだ」

「それでいいんじゃないの? 何が駄目なの?」

 道介は一瞬逡巡した。言われてみればその通りだ。客の注文通りに描けばそれでOK。それはたやすい生き方だ。

「でもね、画を描く人は少なからず『創作欲』っていうのがあるんだ。人に言われてああしろ、こうしろ、って言われるのが嫌になったんだ。確かにサラリーマンでもある程度は自由に描けるよ。でもね、画描きには画描きの自分の世界があるんだ。それがお客さんの要求と一致してればいいんだけど、僕の場合はそれがどんどん全然違う方向になっていっちゃったんだ。いや、画を描くのは好きだよ。それで生活できてたから文句を言うのはおかしいかもしれないけど、僕は僕自身の作品を世に出しておきたかったんだ」

 道介少年は言葉の真意を掴みかねた。幼年期の少年には話が込み入り過ぎていたのだ。道介もそれを察して言葉を言い換えた。

「簡単にいうと、サラリーマンから芸術家になったんだ」

 道介少年の目が輝いた!

「凄い! 未来の僕は凄い!」

 だが父の目は怒っていた。その目線は道介少年へ向けられた。

「道介、芸術家っていうのは大変なんだ。信用調査じゃかなり下のランクだし、収入も不安定だし。いつ食えなくなってもおかしくない仕事なんだぞ。そんな浮薄な仕事に憧れを持つもんじゃない。お前はしっかり地に足をつけて生きていけ」

 道介少年は将来の姿である道介の言葉と、それに反する父の言葉との板挟みにあって動揺した。

「じゃあ、僕は未来に何になればいいの?」

「芸術家」

「公務員」

 道介と父は違う言葉を即答した。道介少年はますます混乱の顔をしかめた。

 父は道介少年の頭を撫でながら言った。

「人間、なるようにしかならんというやつもるが、自分で運命を切り開こうとするやつもいるんだ。道介、お前の性格からしてお前はなるようにしかならんタイプだ。だから人生で冒険を選ぶよりレールの上を走る道を選んだ方がお前にとって幸せだ。どっちの生き方の方が良いとか正しいとかじゃないんだ。お前の人生の問題なんだ。おれはお前が生まれてから今まで、ずっとお前を見てきたから分かる。お前は冒険家じゃない」

 父が道介少年にそう言っているのを道介は傍観した。父が道介少年に語ったことは、まだ道介が幼かった頃に言われた覚えがあったのだ。その記憶はほんの微かであったが、道介の脳裏にしっかりと刻み込まれていた。

「道介、自分の欲しいままに生きようとするな。自分にとって大切なものに重きをおけ。お前の場合、それは生活の安寧だ。お前は神経過敏なところがあるから、自由業には向かんよ。安定したサラリーを貰える会社員になれ。そう、それ以外の道はお前がお前自身を傷つけてしまうかもしれん。お前はそう生まれついたんだ。生まれつきのまま、真っ直ぐ生きろ。それがお前にとって一番幸せな道なんだ」

 道介少年は「うん」と頷いた。

 が、道介はそんな道介少年を見て反発心が込み上げてきた。

「人生は一度きりなんだ。思うままに生きて好きに死ねばいいんだ。おれはその道を選んだんだ」

 道介少年の頭を撫でていた父が道介へ厳しい目線を送った。

「ほう。それで本当に後悔はないのか?」

「ない」

「ではどうしてお前は今ここへ来ているんだ?」

 どうしてここへ? 自宅マンションの地下の駐車場へ?

「お前がここに来たということは、今のお前が何かしらの親の庇護と助言を求めて、父性の安らぎを求めてきたからじゃないんじゃないか?」

 道介は言葉が出なかった。

「図星のようだな。一人息子がこれじゃあ、おれは死んでも死に切れんよ」

 道介は父を見詰めた。

「お前、自分のしてきたことに少しは後悔があるようだな」

 それこそ図星だった。

「だがお前の人生はお前のものだ。それにもう立派な歳だ。親と言えども口出しはできん。失敗しようと成功しようと、後悔さえしない人生であればそれで正解だ。もし後悔するようなことがあれば今すぐにでも軌道修正しろ。それにな」

 父は言葉を続けた。

「何事も一歩一歩進んでいかなきゃ、足下をすくわれるぞ。世間には悪い連中がごろごろしている。そいつらに裏をかかれるな。真っ直ぐ進めよ」

 道介はやっと言葉を発した。

「ああ。やれるところまでやってみるよ。今夜も作品が一つ完成したんだ。後悔はしてない。自信作なんだ」

 父は「そうか。それは良かった」と呟いた。

「さあ、早く元の世界に帰れ。人生、やることは多いし時間は少ない。こんな地下で燻っていてはいけない。上を見て歩いて行くんだ。屋上へ行ってみろ」

 父親と道介少年は砂が風に吹かれるように消え去った。跡には車が駐車されていない駐車場だけが残った。

 二人は消え去ったがその余韻は道介に深く脳裏にこびりついた。

 かつて父とは家族関係にあり、死別した今となってもその交情は変わることはない。それに五歳の自分と対面できたのは、父が幼少自分の道介を引き合いに出して人生の出発点である親子体験を追走させ、今までの道介の生き方を再度評価する機会を作らせるためだったのかも知れない。

 親はいつまで経っても親なのだ。

 父は道介に「屋上へ行け」と言った。それは草葉の陰からの生ある者への忠言のように思われた。

 道介は素直に父の言葉に従うことにした。

 道介はまたエレベーターホールへ戻った。

 道介はエレベーターに乗ると、行き先ボタンが「R」しかないのに気付いた。道介は不気味に思いながら屋上へ向かった。

 エレベーターが静かに屋上階へ着いた。

 扉が開くとまだ日中の温気を含んだ湿っぽい夏の風が軽く吹き込んできた。

 時間から察するに、一日の最低気温となる筈だったが、空気はまだ湿気を含んでおり生温かった。だが道介には不思議と不快には思えなかった。

 屋上は規則正しく高い柵が立ち巡らされていた。おそらく転落事故防止か自殺防止のためだろう。

 半径一メートルほどの吸排気ダクトが転々と並び床面はグレーに塗られ、殺風景だった。

 空を見上げると夏の大三角形が瞬いていた。 道介は仕事柄、昼夜逆転の生活になりがちだったが、こういった大自然を思わせる光景に出くわすと何か高揚感を覚えた。

 道介は視線を屋上の奥へ移した。

 誰かいる。

 キャッキャと騒いでいる女の声がする。

 道介はその声の方へと向かった。

 夏服の制服を着た女子高生五人がいた。

 五人の女子高校生が道介に気付くと走って近づいてきた。五人はみな同じ顔、同じロングの髪型、同じ制服を着ている。五つ子? まさか。道介は不気味に感じた。

 女子高生Aが道介を見詰めながら言った。

「ねえパパ、この中に一人だけ本物のパパの子がいるの。誰か当ててみて」

 パパ? 道介は独身だ。結婚したことすらない。どういう訳だ?

「君たちは誰なんだ? 俺に子供はいないんだが」

「これから産まれるのよ。いいから、当ててみて!」

 女子高生Bが切り出すと、他の四人はクスクスと微笑みながら道介にせめよった。

「いや、これから産まれるって言われてもね……みんな同じじゃないか」

 女子高生たちはそこで大笑いした。

 女子高生Dが微笑しながら道介に言った。

「パパ、未来が怖いんでしょう? パパは過去に囚われ過ぎなのよ。もう少しは自分の将来のことを考えてみたらどう?」

 道介は大して売れない画家だと自覚している。だが自分の一人の糊口を凌ぐ程度には稼げている。逆に言えば、自分一人が生活できる程度にしか稼げていない。その道介に結婚だとかその先の子供だとか、そういったことはもう半分ほど諦めていることだった。

「ねえ、誰か一人、選んでみて」

 女子高生Cが満面の笑顔で道介に言った。

 女子高生たちは自分こそが選ばれる、そういった期待の笑顔で道介を見詰めていた。

 しかし道介には誰が誰なのか全く区別がつかなかった。みな同じなのだ。その顔つきも道介から引き継いだと思われる鼻梁をしているし、声も全く同じだった。

 道介は女子高生たちを凝視してその差異を見付けようとしたが、どう見ても五人揃って同一人物にしか見えなかった。その容姿、仕草、声、目つき、そういったものが全員まったく同じだった。

 女子高生たちは思い思いの仕草で道介の審判を待っていた。自分こそ選ばれる。そういった自信と期待とで笑顔を隠しきれない様子だった。

「……じゃあ……」

「誰にするの?」

「いや、分からないよ……」

 女子高生たちは一気に肩を落とし、それぞれが「ああ、もう」「何よまったく」と意気消沈した。

 女子高生Cが他の女子高生たちに言った。

「じゃあ、あたしたちで決めるしかないわね」

 女子高生たちは頷いた。

「そうね。そうするしかないわね」

「でもちょっと手荒なんじゃない?」

「でも他に方法、ある?」

「……ないわねえ……」

「本物のパパの子も納得してくれるんじゃないかしら」

「そうね。贋物は消えていなくなるから」

「じゃあ、早速そうしましょうよ」

「うん。そうしよう」

 道介には女子高生たちの会話は理解できなかった。彼女たちの言う「手荒な」方法というのがよく分からなかったが、これから良くないことが起こることは予想できた。

「君たち、何を言い出しているんだ? 何をするつもりなんだ?」

 女子高生Eが応えた。

「パパは何もしないで。見ててくれるだけでいいから」

 その言葉が終わると女子高生たちは屋上の片隅へと列をなして進んでいった。道介もついていった。

 女子高生たちは非常階段へ来た。非常階段は手すり以外に柵はない。彼女たちはその階段に一人ずつ並んで何か企みを含んだ表情をしていた。

 女子高生Aが言った。

「それじゃあパパ、あっちで待ってるから」

 そう言うやいなや、女子高生たちは一斉に手すりを乗り越えて投身した。

「あ!」

 女子高生たちは制服のスカートを翻して一斉に投身した。途中、階段にぶつかったのか、鈍いガン、ガンという音が聞こえ、地面に落下したと思われる鈍いドンという音が聞こえた。

 道介は咄嗟の出来事で何も対処できなかった。

 道介は女子高生たちのいた非常階段に駆け寄り、慌ててその場所から下を見下ろした。

 だが複雑に絡み合った非常階段のせいで地上階は見えなかった。

「大丈夫か!」

 道介は下へ叫んだが応答はなかった。

 道介の住むマンションは九階建てだ。飛び降りた五人のうち誰かが助かっているかも知れない。慌ててエレベーターホールへ向かった。エレベーターは屋上階にいた。だが「開」ボタンをいくら押してもエレベーターの扉は閉まったままだ。

「クソッ!」

 道介は階段で地上階へ猛進した。息が上がる。階段を一段飛ばしで駆け下りる。その途中、スマホで一一九番に電話をかけたが応答がない。こんな時に限ってなんでこんなことになっているのか判断がつかない。

 とにかく今は一刻も早く地上階に降りて女子高生たちの救急手当てをしなければなるまい。道介は焦り動揺していた。

 地上階へつくとエントランスの大ガラスの自動ドアが開いた。

 が、その先にまた自動ドアの大ガラスがあった。

 道介は急がなければならないのに、なんて構造をしているのかと怒った。

 その大ガラスの扉を抜けると、また同じ大ガラスの扉があった。

 畜生! 何が起こっているんだ!

 道介はこの不思議な構造を持つエントランスに辟易した。

 普段なら一枚しかないエントランスの大ガラスが四十二枚もあった。道介はその一枚一枚をくぐり抜けていった。扉を超す度に足取りが重くなる。息も切れ切れになる。

 最後の数枚を残すあたりで、前方に立ち尽くす人影が見えた。

 道介が最後の大ガラスを抜けるとその人物は、ゆっくりと優しく声をかけてきた。

「……パパ……」

 その老嬢は道介に頬笑みかけた。

「どなたですか」

「もう忘れちゃったの? さっき屋上から飛び降りたパパの本物の娘よ」

 どうしてさっきまで高校生だった人間がこうも加齢しているのか道介には分からなかった。が、それよりも自称道介の娘の安否が気にかかった。

「大丈夫か⁉ 無事なのか⁉」

「うん。私は大丈夫」

「他の四人はどうなった」

「あ、贋物は消えちゃったの」

「贋物は消えた? どういうことだ」

「贋物は所詮贋物なの。屋上から飛び降りたら空中分解して綺麗さっぱり消えちゃったわ」

「君は無事なのか」

「うん。この通り大丈夫よ。それよりパパ、早く部屋へ戻った方がいいわよ」

 老嬢は気が動転しているの見てを悟った。

「パパ、何も考えないでここまで来ちゃったでしょ?」

 道介は返答に窮した。

「え、ああ……まあ……」

「扉の数、勘定した?」

「いや、していない」

「駄目ねえ」

 老嬢が何か含みのある笑顔で道介に言った。

「あの扉はね、一枚が一年経つようになっているの。パパの寿命は七十七歳だから四十二枚あった筈よ」

 確かにそれぐらいの枚数はあったと思ったが、全くその実感が道介には湧かなかった。

「いま立っているここはパパが死ぬ年の世界なの。早く戻らないとお陀仏よ」

 道介はスマホのカメラで自分の顔を見た。

 女子高生の言った通り、七十七歳の老人の姿をした自分の姿がそこにあった。

「さあ、早くうちに戻りましょ!」

 老嬢は道介の手を取ってマンションの中へ引き返した。

 大ガラスの波を一枚一枚過ぎる度に二人は若返っていった。服装もその度に変化していった。足取りも次第に軽くなり、道介は自分が若返っていくのが不思議と自然なことのように思われた。

 全ての扉を抜けると、いつものエレベーターホールに着いた。老嬢はいつの間にか制服姿の女子高生になっていた。

「早く戻らないと!」

 女子高生は慌ててエレベーターのボタンを押して道介を連れて六階まで上った。

「パパ、早く!」

 女子高生に手を引かれて六〇五号室の扉を開けた。

 二人はバタバタと部屋に入った。

 そこはもぬけの空だった。

 道介のリビング兼アトリエは散らかったままだった。道介にとっては普段の見慣れた光景だったが、女子高生には違って見えた。

 女子高生は思わず「ああ」という言葉を漏らした。

 道介はふと目を上げ、キャンバスを見ると先程描き上げた「ある男の生涯」がズタズタに引き裂かれていた。道介は思わずその破片を手に取り握りしめた。

「何だ? 何なんだ? おれの作品をどうしてくれてるんだ……」

「ママ、怒っちゃって出て行ったんだわ……」

「誰だ! 誰がこんなまねをしてくれてんだ!」

 女子高生は少々の焦りと困惑の顔をした。

「ママに決まってるじゃない。パパ、いつも自分のことばっかりで、あたしのこともママのこともほったらかしだったじゃない。自分の画のことばっかりで、家族らしいことなんてしてくれたことなかったじゃないの。だからママは怒って出て行っちゃったんだわ」

 なんだそんなことか、と道介は思ったが、思い起こせば道介は結婚歴も子供もない。この女子高生にしたってどこの誰かなのかも知れない。それに道介を戸外に案内したあの女の腕は何者なんだ? いわゆる道介の「妻」の腕だったのか?

 しかしそう遠くない将来、こういったことが起きるのではないかとの予想も立った。

 描いた画の題は「ある男の生涯」だ。それが無残にもバラバラに切り裂かれてしまっている。道介はそれが自分への何かの暗示かのように思われたが、そんなことはない、といううもう一方の自分も確かにいた。その両者の主張のどちらかが正解なのか分からないが、あと数年、十数年すればその答えは自ずと明瞭になるだろうと考えた。

 明日また、Pサイズの四十号のカンバスを買って、本当の「ある男の生涯」を描き直さなければならないな。

 道介はそう思い、落胆と溜息と共にまた創作意欲が沸いてくるのを感じた。

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