第13話 錯乱


――ここって……


 エリザベスは想い出の泉を目の前に、思わず背後を振り返っていた。そんな筈はない。彼がこの泉を知っているはずがない。


 脳裏に浮かんだ既視感を払うためエリザベスは頭を振るが、陽の光を背に立つハインツの姿が金色の少年と重なっていく。


「エリザベス、手を」


「えっ?」


「ずっと、馬に乗っている訳にもいかないでしょ」


 先に馬上から降りたハインツが手を差し出している。ただ、その手を取ることが出来ない。その手を取ってしまえば、引き返せないところまで追い詰められてしまう予感がする。もう、彼から逃げられなくなってしまう。


 このまま手綱を握り、馬を走らせればいい。今ならまだ逃げ出せる。そんな思いを見透かしたかのように宙を彷徨うエリザベスの手をハインツが掴み、引いた。


 バランスを崩し落ちていく。


 エリザベスは落ちていく身体をどうすることも出来ず、ハインツの腕の中へと収まってしまった。


「ハインツ様、降ろしてください!」


「ふふふ、逃げようとしていたでしょ?」


「うっ……」


「図星ですか。往生際が悪いというか、なんというか。エリザベスはひどい人ですね。こんな森の中に私を置き去りにするつもりだったと」


「いいえ! 違うわ。ちゃんと迎えを寄越すつもりだったわよ」


「やはり、逃げるつもりだったのですね」


「あっ……」


 カマをかけられた事に気づいたエリザベスの頬が赤く染まる。


(恥ずかしい……、これじゃ、完全に私が悪者じゃないの)


 エリザベスは気まずさからハインツの顔を見れず、俯くことしか出来なくなってしまった。


「今の貴方の心境を考えれば逃げ出したくもなるでしょうけど……。まぁ、たとえ置き去りにされても、帰るすべはありますけどね。シュバイン公爵領は目と鼻の先ですし」


 えっ? シュバイン公爵領が目と鼻の先って本当に? 


 ハインツの言葉を頭の中で思案しても答えがわからない。シュバイン公爵領とベイカー公爵領が隣り合っていると、エリザベスは聞いたことがなかった。しかし、公爵家ともなれば治める土地は広大になる。エリザベスが知らないだけで、ハインツの話が真実であるということは十分にあり得る話だった。


(まさか……、ハインツ様はこの泉の存在を知っていたとでも言うの?)


「さて本題に入りましょうか。なぜ、私がベイカー公爵領に来たかを」


「えっ……、えぇ」


「ベイカー公爵家とシュバイン公爵家の婚約を成立させるため、と言ったら貴方はどうしますか?」


「……」


 ハインツの言葉にエリザベスが驚くことはなかった。ハインツがベイカー公爵領に来た時から考えていた。エリザベスとウィリアムとの婚約が破棄されたあのタイミングでハインツが現れれば、その理由はしぼられる。しかし、ずっと確信が持てずにいた。なぜなら、グルテンブルク王国には破ってはならない暗黙のルールがあるからだ。


『公爵家同士は姻戚関係を結ぶ事を禁ずる』


 グルテンブルク王国の四大公爵家は地位もさる事ながら、権力、財力共に他の貴族家とは比べものにならない程の力を有している。故に、公爵家同士が姻戚関係を結べば、王家に匹敵する力を有する事に他ならない。だからこそ、公爵家同士の婚姻は許されていないのだ。


 その暗黙のルールがある限り、ハインツとの結婚はあり得ない。そんな事を、目の前の策士が知らない訳がない。だからこそエリザベスはずっと、彼の目的に確信が持てなかった。


「意外ですね。あまり驚かれていないように感じる」


「えぇ、全く驚いていないわ。だって、ハインツ様の話は荒唐無稽の作り話ですもの。公爵家同士の婚姻? 馬鹿じゃないの。それが不可能な事くらい貴族の誰もが知っているわ」


「公爵家同士の婚姻、確かに不可能ですね。今のままでは――、と注釈をつけておきましょうか」


「どう言うことよ!? それではまるで、未来では可能になると言っているようなものじゃない」


 腕を組み笑みを浮かべていたハインツの態度が変わる。心底おかしいとでも言うように笑い出したハインツの様子を見て、エリザベスの頭はさらに混乱していく。


(……公爵家同士が婚約する方法を知っているなんて言わないわよね)


「くくく……、近い将来、ベイカー公爵家とシュバイン公爵家は姻戚関係を結びますよ。そのための布石は打ってきたつもりだ。ただ、一番厄介な御仁から、ある条件を出されましてね」


 姻戚関係を結ぶ!? あり得ないわ……


 ちょ、ちょっと待って……


 結婚すると言われたことよりも黒い笑みを浮かべ、こちらへと近づいて来るハインツに恐怖を覚えエリザベスが後ずさる。スッと伸ばされたハインツの手を払い除ける事も出来ず、エリザベスはただ捕まるしかなかった。


「実はね、エリザベス。貴方と婚約するには、貴方の許可が必要なのですよ」


「えっ?」


 耳元で囁かれた言葉に、エリザベスの頭が混乱していく。


(私の許可が必要って、いったいどう言う事よ?)


 今後に関しては全て父に一存している。次の婚約者が誰になるのかも、はたまた利用価値無しとして修道院に入れるかも、父の心ひとつだ。そこにエリザベスの意志は関係ない。ウィリアム王子との婚約に際し散々わがままを言って来たエリザベスは、父の意向に従うつもりだ。父宛の手紙にも、その旨は書いていた。父がその事を知らない訳がない。


 それなのに目の前の男は、公爵家同士の婚姻が私の一存で決まると言っているのだ。


(まさか、それすらも私を騙すための嘘なの?)


 ハインツが何を考えているのか分からない。だからこそエリザベスは怖かった。


「エリザベス、私が怖いですか?」


「怖くなんてないわ……」


「貴方は昔から変わらない。夜会でひとり虚しく壁の花になっていようとも、私に頼ってはくれなかった。いつになったら貴方は、私を視界に捉えてくれるのだろうか。そんな想いで会うたびにキツい事を言ってしまった」


「何よそれ。今さら謝罪でもする気?」


 ハインツが何の目的でベイカー公爵家と姻戚関係になりたいかなど、どうでもいい。どうせ碌な理由じゃない。ただ、婚約に関してエリザベスの意志が最優先されるのであれば絶対に『OK』だけは言うまいと心に誓う。


「謝罪? する訳ないじゃ無いですか。憎しみの感情ほど強いものはない。現に貴方の中の私の存在は、出会った頃に比べ大きくなっているはずだ」


「そんな事ないわ!」


「本当にそうでしょうか? ベイカー公爵邸に私が現れてから、エリザベスの頭の中は私の事でいっぱいだ。ウィリアム王子の事を綺麗さっぱり忘れる程にね」


 確かにハインツの言う通りだった。ハインツが、ベイカー公爵領に来てから、エリザベスの頭の中は彼の事ばかりだ。


(そう言えば、あんなにウジウジと考えていたウィリアム様の事を思い出しもしなかったわね)


 だからと言って、ハインツに感謝している訳ではない。


「……そんな事、ハインツ様には関係ございません」


「そうですか。仮にも貴方に婚約を申し込んでいる男を目の前に、よくそんな可愛くない口が利けますね」


「えっ? 婚約を申し込んでいる?」


「はっ……、まさか公爵家同士の婚約話、自分の事ではないと思っていた?」


 ハインツの胡乱な視線がエリザベスに突き刺さる。


(ちょって待ってよ。流石に自分の事だとは思っていたわよ。でも、まさかハインツ様が相手だとは思わないじゃない、普通。あんなに仲が悪いのに)


「自分の事だと思っていましてよ、もちろん。でも、お相手がハインツ様だとは思わないじゃありませんか。例えば、弟様とか」


「……私に兄弟はいません」


「えっ……」


 マズい……、公爵令嬢としてはあるまじき失態だわ。


 ハインツの胡乱な視線が鋭さを増し、エリザベスの背を大量の冷や汗が流れていく。


 高位貴族なら自国の貴族名鑑が全て頭に入っていて然るべきだ。以前のエリザベスなら、自国のみならず、隣国の貴族名鑑ですら空で覚えていた。この半年の自堕落な生活で公爵令嬢としての最低限の教養も頭の片隅から消え去っていた。


「はは……ははは……、私が想像する以上に、貴方の心に私はいないのですね。結局のところ、あの頃と何も変わっていない」


「あの頃?」


「そうです。あの頃ですよ。この場所に連れてくれば思い出すと信じていた私が馬鹿だった」


 この場所に連れてくれば思い出すと信じていたって……


 ずっと感じていた既視感が再び脳裏をかすめる。


 そんな筈ないわ。だって彼は金色の髪をしていたのよ。


「エリザベス、この泉を見ても何も思い出しませんか? 貴方がまだ幼かった頃、私とエリザベスは出逢っている」


「嘘よ。そんな筈ないわ! だって彼は……彼は……」


 ハインツの言葉に頭が混乱する。何度否定しても、既視感が拭い去れない。


「嘘よ、嘘よ。そんな筈ない!」


 混乱を来した頭は、とうとう考える事を放棄した。


(逃げなければ、逃げられなくなる……)


 得体の知れない恐怖に支配され、彼の腕に囚われている事が怖くてたまらない。どうにか逃げ出そうと暴れたエリザベスは一瞬の隙をつき、ハインツの腕を飛び出した。


 しかし、錯乱していたエリザベスは前を見ていなかった。


 バシャンという大きな音と共に水飛沫があがり、泉に落ちた事にエリザベスが気づいた時には、どうすことも出来なくなっていた。


 水を吸って重くなった衣服がまとわりつき、身体が水底へと沈んでいく。それと同時にエリザベスの頭の中を過去の記憶がフラッシュバックしては消えていく。


 死ぬのだろうか……


 漠然とそう感じた時、世界が浮上した。


 金色の世界を背に立つ男。彼を瞳に写した時、エリザベスは全てを思い出した。


「昔も今も、世話のやけるご令嬢だよ」


 そんな憎まれ口を聴きながら、エリザベスの世界は深淵へと落ちた。

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