今際の際

@wlm6223

今際の際

「こんばんは。死神です。お迎えに上がりました」

 おれは病院の相部屋のベッドの上で、その死神と名乗る女に肩を揺すられ起こされた。

 女は年齢で言えば三十代前半、おれと同世代に見えた。黒いビジネススーツの下に真っ白なシャツが映えていた。ショートカットに愛嬌のある大きな瞳、小ぶりな鼻に薄めのルージュを引いた唇、引き締まった体躯にスーツがぴたりと吸い付いている。全く、おれの好みの女だ。

「あの……」

 女は笑顔を返した。

「突然失礼しました。何が何だか分かりませんよね。何でも仰ってください。お答えできる事は全てお答えしますので」

 おれは寝惚け眼で「今、何時ですか」と我ながら何を気にしているのかと不審に思える疑問を呈した。

「いまは午前二時三十五分です」

 女はにこやかに答えた。こうしていると、女の顔がおれと近い。女の甘い匂いがする。

「あ、いや、ちょっと待ってくださいね」

 おれはベッドから半身を起こした。女は「無理なさらなくていいですよ」と柔らかい声で言った。

 確かにここは病院だ。

 おれは昨日ここへ緊急入院させられたのだ。

 病名は喘息の発作による酸欠。血中酸素濃度が八十パーセントしかない、と看護師が言っていたのを覚えている。八十パーセントでは少ないらしいのだが、ではどれぐらいあれば適正なのか、おれは知らない。学校のテストの点数であれば八十点は充分合格点だ。

 それに仕事の方はどうなったのだろう?

 おれがはっきり覚えているのは仕事中に切りのいいところで「体調が悪いので病院行って早退します」と言って産業医のもとへ行った事だ。おれの体調不良はいつものことで、また風邪でも引いたか、と思ったのだ。

 診察室で産業医の問診を受けて聴診器を胸にあてられた。「ちょっと待ってね」と産業医に言われ、パルスオキシメータを引っ張り出してきた。左手人差し指を突っ込んだ時だった。

「××パーセントしかない! 立つな! 動くな! 今すぐ入院しろ!」

 と産業医は急に血相を変えておれに怒鳴りつけた。

「いや、全然大丈夫っすよ。ほれほれ」

 と椅子から立ち上がったり座ったりしてみせた。

 それ以後の事がどうにも曖昧にしか覚えていない。

 たしか「救急車を呼ぶか? タクシーで病院行くか?」と訊かれた覚えがある。今となっては理由は不明だが救急車を選んだ気がする。多分、交通費がかかるのを避けるためだったと思う。

 救急車で連れられてどこぞの病院へと放り込まれた。

 今でもそうだがどこの病院へ放り込まれたのか分からない。それどころか、どの辺りにある病院へ放り込まれたのかも分からない。これが案外おれを不安にさせた。

 次に覚えているのは「誓約書」への署名である。

 たしか「誠心誠意をもって治療にあたる」みたいな事が書かれていたような気がする。

 その誓約書を持ってきた人間に、「要するに何日の入院でいくら治療費がかかる?」と問うた。

 相手は(白衣を着ていたから担当医だと思われる)「治療の経過次第なのではっきりしない」と、返事をした。それがおれの怒りに火を点けた。

「時間も金も分からずに入院しろというのか! お前らはぼったくる積もりなのか!」

 と怒鳴り散らした。周囲の人間から「まあまあ、普通はそういうものだから」と何遍も言われたのを覚えている。これがサラリーマンの良いところなのか悪いところなのか、何でも時間と金の見積もりを要求してしまうのだ。納得しなければ交渉なり何なりするのが普通なのだが、病院にはそういった社会通念が通じなく、おれは周囲の説得に応じて、仕方なく署名したのを覚えている。

 その次に覚えているのは、おれが抵抗しながらベッドに無理矢理寝かせつけられているところだった。

「分かった! 分かった! 寝てりゃいいんでしょ寝てりゃ!」

 そんな事を怒鳴ったのを覚えている。

 最後に覚えているのは点滴をされた事だった。もちろん生涯初の点滴である。おれは注射が苦手だ。その苦手な注射が常に左腕に突き刺さっているのである。不愉快千万である。

 で、気が付いたら眠っていた。おそらく点滴にそれなりの睡眠導入剤が含まれていたものと思われる。

 食事を摂った記憶がない。

 入浴した記憶がない。

 トイレへ行った記憶がない。

 入眠した記憶がない。

 ここが病院だと分かっているが、何という名前のどの辺りにある病院なのかが分からない。

 入院したのは昨日だと覚えているが、それは起床した記憶が一回しかないから昨日と言っているだけで、本当はもっと前からこの病院に入院させられているのかも知れない。

 実のところ、分からない事だらけだ。

 今が深夜という事は分かった。

 遠くのナースステーションに呼び出し音が響き渡り、看護師たちが廊下を部屋から部屋へ走り回っているのが見えた。

「ありゃー、こりゃ大変そうだ」

 女はちょっと苦笑いをして言った。

「夜中の病院はどこも大忙しなんですよ」

「さすがは死神。この業界のことをよくご存じで」

 何故かおれは女が死神だという事を、すんなりと受け入れた。

「でも大丈夫ですよ」

「何が?」

「看護師さんたち、必死で手当してるじゃないですか。ですから、あの人たちは助かります」

 「あの人たち」というのが気にかかった。

「じゃあ、おれは?」

「お亡くなりになります」

 全く現実感がない。

「……そう言われてもねえ……」

「ええ。みなさんそう仰います」

 こんないい女が死神とはちょっと思えない。「ちょっとお願いがあるんだけど」

 女は不思議そうな顔をした。

「何でしょうか」

「ちょっと、おれの足下の方に移動してもらえませんか?」

 女は「はあ」と不思議そうに椅子を持ち上げておれの足の方へ移動し、ちょこんと椅子に座った。

「あじゃらかもくれんてけれっつのぱー!」

 おれは相部屋にも関わらず、大声で言ってみせた。

 女はきょとんとしていた。

「む、この呪文で消えないという事は、お前は本物の死神ではないな!」

 女は溜息を一つ吐いて小首を傾げて言った。

「よく言われるんですよ。それ。落語の『死神』に出てくる死神払いの呪文ですよね。あれは落語です。創作です。本物の死神は呪文なんかで消えません。それにここは病院です。看護師さんたちも他の患者さんたちも気にするでしょうからお静かにお願いします」

「あ、すんません」

 そういえば現実感がなくなったのは、あの産業医の慌てた態度からずっと続いていた。あのとき以降、記憶も曖昧で何もかもが不確かだった。緊急入院という切羽詰まった状況と、人生初の入院という事で、おれも大分慌てふためいていたようだ。だから産業医の診察から今までの記憶が曖昧になったらしい。

「ところで、おれはもう寿命だったのかな」

 おれは女に訊いた。

「いえいえ。煙草の吸い過ぎと運動不足による早めのお迎えです」

 何だそれは。

「じゃあ、煙草をやってなくてスポーツでもやってたら?」

「余裕で八十歳以上が寿命でした」

 なんと。それだけの事で五十年近くも死期が違うのか。

「それにしても君は本当に死神なのか?」

「ええ。本物の死神です」

 いやいや、おれ好みの女にしか見えないのだが。

「そのルックスじゃ説得力がないよ」

「あ、見た目ですか。それならいくらでも変更できますよ。ほら」

 女は中世ヨーロッパの銅版画に出てきそうな死神のスタイル――長身痩躯で真っ黒なローブを着た大鎌首を持った髑髏顔――になった。

「これでどうじゃ」

 声まで嗄れた男の声になった。

「お前さんは日本人だから、こっちの方がいいか」

 今度は落語に出てきそうなちんまりした黒ずくめの小男になった。

「やっぱ一番最初の姿がいいわ」

 元の女の姿に戻った。

「いや、姿を自在に変えられるとは驚いた。しかし、君は今の姿が一番いい」

 女はまじまじとおれを見詰めて言った。

「死神といえども神ですから、この世の掟から逸脱した事も自由にできるんです。ですからお迎えに上がった方の趣向に合わせて姿を変えたまでです」

 相手の趣味嗜好に合わせてって、おれの下心を見抜かれていた訳か。

「みなさん、死神というと先ほどの姿を想像

されるようで、お年を召した方にはあちらの姿にする場合が多いですね」

 死神にもそれなりに職業上の配慮があるらしい。

「ところでおれは何日間、ここにいた? それにここはどこの病院なんだ」

 女はぱっと答えを出した。

「今晩で三日目です。ここは九段坂総合病院。地図で言えばこの辺りですね」

 女は明るくそう言って地図を指し示した。病院は皇居と靖國神社の間近にあった。

「なんだ、会社のすぐ傍じゃないか。しかし三日間もいたとなると、記憶に不整合があるなあ」

 女は健気に言った。

「突然の入院に気が動転していたのでしょう。急患の方にはよくある事なんです。なんせ病院の名前すら知らなかったんでしょう。ほら、ここに書いてありますよ」

 サイドデスクの錠剤を入れた紙袋に「九段坂総合病院」とあり、住所と電話番号が書かれてあった。その程度のこともおれは分からなくなっていたのか、と落ち込んだ。

「で、この三日間、おれは何をしてたんだ?」

 女はなおもにこやかに言った。

「入院初日はバタバタしてましたね。まあ、突然決まった入院だったのでお気持ちお察します。ですがベッドについてステロイドの点滴を打った後は安静にされてましたよ。

 昨日一昨日はずっとぼんやりと天井を見詰めてました。まあ、死神が言うのもなんですが心配しましたよ。心ここにあらず、の状態でしたね」

「飯を食った記憶がないんだが」

「それは全くの記憶喪失です。ちゃんと配膳された食事をぺろっと食べてましたけど」

 そう言われても記憶にないものはない。

「だが全く記憶にないんだ。なあ、死神なんだろ? そういう記憶喪失を何とかしてくれないか? そんな夢から覚めたら死神がいた、じゃ成仏するにも成仏できん」

「そう言われても、死神は記憶まで操れません……」

「使いもんにならん神だな」

「お力になれなくて申し訳ありません……」

「今際の際だ。今生の願いだ。ちょっと散歩に付き合ってくれ。自分の死に場所を確かめたい」

「構いませんがあまり時間はありませんよ」

「だったらなおのことだ。今から出発だ」

 おれはベッドを立って夜の病院内を闊歩した。

 自分で言うのも変だが、体調は大分良く、とても死神のお世話になる身とは思えなかった。

 あの女、ひょっとして偽物? 一瞬そうも思ったが、あの変身の早変わりを見せられては、ぐうの音も出なかった。

 暗黒の病院内に看護師たちが走り回る。

 誰か一人の介助が終わるとすぐさま次の介助だ。一人では対応しきれず三人で介助を始めた。

「あの人、死ぬの?」

 おれは女に訊いた。

「あの方はまだもうちょっと生きてもらいます」

「はあ……。もうちょっと、ね……」

「人にはそれぞれ寿命があります。その寿命を健康的なまま迎える方もいれば、そうでない方もいるんです。健康寿命って言葉、聞いた事ありませんか?」

 ある。誰の介助も受けずに生活できる年齢だったと思う。おれは「うん」とだけ頷いた。

「現代に入って医療は格段に進歩しました。ですが、本来の寿命と健康寿命に乖離があるほど、一般の方でも無理矢理生きさせられてしまうんです。当のご本人にとってはどちらが幸せか、分かりますか?」

 おれは「いや、どうだろう……」と言葉を濁した。

「病院で亡くなる方は私を見て『ああ、やっと来てくれたか』と仰る事が殆どなんですよ。人間、体を害してまで長生きしたいと思う方はいません。死神の私が言うんですから間違いありません。現代の医療制度・医療技術は踏み込んではいけないところまで進歩してしまっているんです。そういう方がここ数十年で沢山増えました。人間からすれば長寿はめでたい事なのでしょうが、それは本来の寿命と健康寿命が一致していた時代の話です」

 なるほどねえ。

「で、おれの場合はどうなんだ? さっきも訊いたけど本来なら八十歳以上まで生きられる筈じゃなかったのか?」

 女は少々むくれておれに言った。

「あなたの場合はあまりにも不摂生が酷すぎたんです。まずチェーンスモーカーですよね。しかもあんなにタールの強い煙草の。もう肺の中、べとべとですよ。それに日頃の食生活。毎日居酒屋で夕食を済ませてたら、そりゃ肝臓が駄目になって当たり前です。それに毎日のように居酒屋のあと、バーでウイスキー飲んでたじゃないですか。飲み過ぎです。単なる飲み過ぎです。それに睡眠時間も足りません。大体毎日終電まで飲み明かしてたら、そりゃ体に悪いですよ」

 おれはちょっと驚いた。女がおれの普段の生活まで見透かしていたとは。

「いやあ、この業界にいると、割と普通なんだけどなあ」

 女は主治医のように答えた。

「あなたは元々の体力がない上にそういう無茶な生活を送るから早死にする事になったんです」

「どうせ早死にするならちょっと散歩でもして飲んでおきたい酒があるんだが……」

 女はきっとなった。

「そういって延命を計ろうたって無駄ですよ。そういう方、多いんです。生前にやり残した事がある、悔いが残るとか何とか言って、要するに自分の死を受け入れない人が多いんです。無駄な延命はこの世に未練や執着を残すだけです。そういう方にはすぱっと逝ってもらいます」

 おれはちょっとだけ慌てた。

「分かった。分かった。分かった。ほんとに散歩だけだって。それ以上は望まないから」「分かっていただければ結構です」

 おれと女は連れだって病院を出た。

 おそらく傍目にはカップルか夫婦に見えたと思う。深夜の靖國通りは交通も疎らで信号待ちの車も二三台しかいなかった。この都心の静寂は眠りの静寂であり死の静寂ではない。明日の躍動に備えた束の間の休息なのだ。

 よくよく考えてみれば、おれは生涯独身で早死にするのが心残りだった。この世に自分のDNAを残したかったし、生涯を共にする伴侶とも出会いたかった。が、もし結婚していれば、それはそれで心残りだったろう。

 理由はともかく、生への執着は切り捨てられないものなのだ。こうして死神と歩いているとそれがひしひしと感じられた。

 靖國通りへ出て市ヶ谷下方面へ登る。

 武道館を過ぎて千鳥ヶ淵公園まで来た。

「ちょっとだけここを散歩してみよう」

「分かりました。それではここでお待ちしてます」

 女はぴたりと足を止めた。

「うん? 一緒に行かないか? おれが逃げるかも知れないよ?」

「ここは皇居の一部分です。私のような死神が立ち入れない場所なんです」

「あっそう。そういうの、あるんだ」

「ええ。厳格にあります」

「じゃあ五分十分で戻ってくるから」

「分かりました。あ、それから死神から逃げられるなんて思わないでくださいね」

「分かったよ。じゃ、一人で行ってくるわ」

 夜の千鳥ヶ淵公園は誰もいなかった。

 この細長い散歩道を歩いて行くと、お堀の向こうに鬱蒼とした森が見える。その森の合間に何かしらの日本建築の屋根だけが見える。

 森があるのだから夜行性の動物もいるのだろうが、堀が広いのでその詮索はできなかった。

 ここ千鳥ヶ淵公園は桜の名所だ。

 春になれば花見客が多く詰めかけ、夜はライトアップもされる。

 そういえば三月も中頃だったな、とおれは急に思い返した。

 今年の桜はもう見れず終いか。

 そう思うといやに未練がましく生きていたい、と一瞬思ったが、それの思いはさっと霧散した。

 今年の桜が見れればまた来年も見たくなる。来年の桜を見ればその翌年の桜も見たくなる。その連続なのは容易に想像できたからだ。

 おれの場合、そうそう生に執着する理由もなかった。おれは独身だから守ってやらなければならない嫁も子供もいない。仕事はサラリーマンをやっているので、いくらでも替えが効く。趣味らしい趣味もなく、ただ飲み友達が数人いる程度だ。

 ま、おれ一人がいなくなっても、世の中平穏無事に回っていけるわな。

 そう思うと寂しくもあったが人生の諦念もついた。

 千鳥ヶ淵公園のお堀は波風立たず、ただ清らかに月を写していた。

 それをぼんやりと眺めるといつの間にか時間だけが経ちすぎてしまいそうで、おれは元いた場所へ引き返した。

 ちゃんと女が待っていた。

「ちゃんと十分以内に戻ってきたじゃない。偉いわね」

「おれは女を待たせるような野暮はしない」

「あらそう。いい心掛けね」

 おれはさっきの死神の変化を思い出した。

 今の見た目は女だが、本当に女かどうかも分かりはしない。そんな相手を女扱いしてどうする? ともう一人の自分が囁いたが無視する事にした。

 深夜の靖國通りは相変わらず車の通りも疎らだった。

 おれはこうして死神と一緒に病院へ向かっている。死出の旅がこうして始まっているのを、何か他人事のような、実感が持てずにいた。

 おれは自分の病室へと戻った。最初に見たように、おれはベッドに横臥し、女がおれを見守っていた。

「なあ、死神さん」

「なあに?」

「死んだらどうなるんだ」

 女は明白に言った。

「何も起きないわよ」

 おれは不審に思った。

「どういう事?」

「死ぬ間際、脳内麻薬でいろんな幻視を見るけど、それが終われば何もかもお終いよ」

「で、その後どうなるの?」

「何もないわ」

「え? 閻魔大王の前に引きずり出されるとか、魂が抜けて神の審判にあうとか。そういう宗教や土俗信仰のいう、何かしらのイベントはないの?」

「ないわ」

 おれは二の句が継げなかった。

「そういう死後の事は一切、人間が作り上げた出鱈目なのよ。死を恐れたり、忌避したりるするのは生き物なら当たり前の事でしょ。考えてもご覧なさい。一体一日で何人が死亡するのか。今まで何人が死亡してきたか。その一人一人について一々審判だの契約だのある訳ないじゃないですか」

「じゃあ、あんたは?……」

「もう分かっているでしょ。あなたが造り上げた幻よ。私はあなたのが死に際した時の防衛機制が造り上げた虚構よ」

 おれは呆気にとられた。

「あなたはもう既に死の床にあるのよ。その一刹那、死神という幻を造り上げてちょっと甘えたがっているだけなのよ」

 おれは自分の願った幻と話している訳か。

 何か妙に得心がいった。

「それじゃあもうすぐおれも死ぬと……」

「そうね。そう言う事になるかしら」

「でもさっきから随分経っているような気もするけど……」

「いまは午前二時三十七分ね。さっき時間を訊かれた時から二分しか経ってないわ」

 確かに二分の出来事にしては色々ありすぎた。

「じゃあ、もう、おれは……」

「そう。実はさっきから咳でむせ返ってぜいぜい言ってるわ」

 その一言を合図に、おれは咳をし始めた。

「どうしてこんな事が……」

「これが人間の生み出した文化の賜物よ。あなたは死に際して多少は安堵したでしょ? 死は必要以上に恐れる事はない。死は誰でもいつか迎える事だ。そういった過去から営々と繋がった文化の中で育ったから、私があなたの目の前に登場したのよ」

 咳が止まらない。

「ナースコールする? 無駄だけど」

 おれはベッドの中でボタンを探した。だがナースコールのボタンは見付からなかった。

「安心していいわよ。今夜はずっとあなたの傍にいてあげるから。私がいるからって、何も恐れる事はないわ。今夜の私はあなたのもの。ずっとついていてあげるわ」

 おれの咳が激しくなってきた。声を出そうとするが呼吸と咳が邪魔をして声にならない。さら呼吸音が上がる。咳が激しくなる。こうして人は死ぬのかと思った。残酷な話だが、意識はしっかりしている。それの上で死が迫ってくるのは感情として耐えられなかった。が、事実は事実として受け入れなければならない。

 女はおれを見ていた。その表情からは何も読み取れなかった。喜怒哀楽のない顔がこういうことなのかと初めて知った。女の顔から表情が消えたのは、これもまたおれの情動のなせる業なのかとも思ったが、その因果関係は結局分からなかった。

 これ以上は耐えられない。そう思った時だった。死神がおれを起こし上げて抱きしめてくれたような気がした。

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