第12話【春風の外野席】
3月の第二日曜日の夕方だった。
「マスター、個人的な話だけど、来週の金曜日空いてるかな?。」
ふいに藤田は客席に座る田中俊夫に声をかけられた。
田中俊夫は町の草野球チームを率いる、還暦を過ぎてもなお元気なオジサンだ。今回もどこかで試合をやってきて、「反省会」と称して喫茶ジータに数名が集まってユニホームにウィンドブレーカーを羽織っただけの格好のまま雑談をしていた。
この日、午後4時ごろまでの試合を終えた後だった。
「今週でなく来週の金曜日ですか?。ちょうど春分の日ですね?。うちは金曜定休日だし、特に個人的に予定もないので空いていると言えば空いていますけど、何ですか?。」
藤田は洗ったカップを磨いて片付けながら、訊いた。
カレンダーを見ると、確かに金曜日は春分の日、祝日となっていた。普通の喫茶店ならば稼ぎ時だろうが、喫茶ジータは定例通り定休日とすることにしていたのだ。
「実は隣町のチームと試合をやるんだけど、普段からただでさえメンバー少ないのに、一人急に来れなくなってメンバーが足りなくなってさ、この際誰でもいいから来てくれると助かるんだよ。」
「野球ですか?。私が?。」
「はいな。お上手そうに見えるし、お願いしますよ。グローブやユニホームも用意しますから・・・。」
「確かに30年以上前に野球をしたことはありますが、大したことないですよ。」
「大丈夫。メンバーが揃えさえすればいいんだ。」
というわけで、藤田は突然に草野球に参加することになった。
金曜日の午前10時過ぎ、市営の野球場で、少し大きいユニホームを着て、ライトのポジションに藤田はいた。所属のリーグのルールで、助っ人はライト・セカンドの順で守備位置が決められる、とのことだった。
「幸い相手チームは右バッターばかりだし、ウチのピッチャーもヘボレベルだから、よほどのことがない限りライトには打球飛んでいかないから。」
とチーム監督の田中に言われた。そのライトのポジションに居ながら藤田は
「ま、確かに殆ど打球は飛んでこないね。」
とあくび交じりに藤田は独り言を言ってぼうっとしていた。
またひとつ、乾いた打球音と共にボールが飛ぶ。レフトとセンターが大忙しだ。
その打球を目線で追いながら空を見上げた。
風がやや強く、少し肌寒いが、爽やかに晴れた春分の日。
白い雲が流れていく。上空は強風が吹いているようで速いスピードで雲が流れていく。
あの雲はどこへ流れていくのだろうか。
姿かたちを変えながら風に流れるちぎれ雲。他の雲とくっついたり、離れたり。
自分も、若かった頃、一時はひとつのちぎれ雲のようになったが、今は香織と言う雲と再び一緒になった。くっついて大きくなった雲の近くにある小さい雲はさしずめ恵美か・・。
今日は香織と恵美が一緒に、フェンスの向こうの芝生席でお弁当をもって観戦に来ている。二人とも祝日で会社も休みだったので、
「私も今日は特にやることないし、暇つぶしよ。」
と応援に来たのだ。嬉しいやら恥ずかしいやらである。
格好悪いところは見せたくないが、かといって自信は全くない。なんせ30年以上やっていなかったから。
と、少し油断していた時だった。
「ライト!」
とキャッチャーで監督の田中が大声を上げた。
見ると、高く舞い上がった白球が自分のところに飛んできた。
「お~・・・。」
空に消えていきそうな勢いで舞い上がったボールがゆっくりと落ちてくる。藤田にとっては平凡なフライだった。
藤田は慌てることなくゆっくりと落下点へと動き、捕球体制に入った。
そして、しっかりと両手でキャッチした。
「ナイスライト~。」
「お父さん、すごーい!」「きゃー、カッコいい~、イチタローみたい~。」
チームのメンバーよりも、フェンスの向こうからの声の方が五月蠅いなあ、と藤田は苦笑いしながら思った。
また、イチタローのことを本当に知って言っているのか?と心の中で思いながら、キャッチしたボールをゆっくりと内野に返球し、藤田は再び定位置に戻った。
相手チームの攻撃が終わり、ベンチに戻ると監督の田中から声をかけられた。
「藤田さん、守備上手いね。なんだか安心して見てられる。」
「ただの平凡なライトフライですよ。」
「いやいや、フライを追いかける動きを見りゃ分かりますよ。やってたんでしょ?野球。」
と言われ、藤田ははにかみながら
「30年以上も前の、遠い出来事ですよ。」
と答えた。
「やっぱりそうなんだ。」
藤田は思い出しながら、
「まあ・・・確かに中学、高校とやっていましたけど・・・。高校3年の夏の地区予選の時に、最後の夏というお情けでやっと打席にも立たせてもらいましたけど、ほぼ万年補欠の身でしたね・・・。」
と呟いていると
「ほい、藤田さん、打順ですよ。」
と、他の人に促され、近くに置いてあるヘルメットを被り、バットを持って素振りを何度かしながら打席に立った。
相手チームのピッチャーも元球児らしいが藤田よりずっと若くまだ30代だろう、なかなかのスピードボールを投げていた。高校時代はピッチャーをしていた男と聞いた。ストレートの球速は最大130Km/hくらいありそうで、ただの野球好きだけで編成する藤田の居るチームのメンバーにとってはそう簡単には打てそうもなかった。
初球を見送った。
「ストライク!」
と審判の声が響く。
なかなかコントロールも良さそうなピッチャーだな、と藤田は思った。久しぶりに肌に感じる本格的な対決に、心が高揚してくるのが自分でもわかった。遠い高校時代の、夏の暑い日が思い出された。
* * *
「タカシ、しっかりボールを見るんだぞ。でも、見ることに気を取られて見送り三振だけはダメだからな。」
「わかってるさ!。今度こそ打ってやるぜ、ホームランを。そして、監督に認めてもらってレギュラー入りだ!。」
「・・・。」
6月の第3日曜日。隣町の高校との練習試合が行われていた。夏の大会が始まる前、野球部監督としては新入部員を含めた全員の現状のスキル確認のためにこういう試合は大事である。
このイニングの先頭打者、二番打者の藤田はチームメイトのコージのアドバイスを聞いて聞かずか、ヘルメットを目深に被ってバットを振りながらバッターボックスへ向かった。その姿を見ながら、コージは心の中で「ダメだなこりゃ。」と思うしかなかった。藤田の素振りのバットの軌道がバラバラで安定していなかったからである・・・。
案の定、初球狙いのフルスイングは見事な空振りだった。勢いあまって打席内で転んでしまい、敵味方含めて笑うしかなかった。
「タカシ、笑い取るとこじゃねーんだぞ!。ちゃんとボール見て振れよ!。」
藤田は立ち上がりながら「うるせーなあ、今度こそかっ飛ばしてやるんだから、黙って見てろ」と独り言を言い、構えなおした。
二球目、なんと相手ピッチャーが投げた球は手が滑ったのか、藤田の身体に向かってきた。
「うわあっ。」
慌てて避けようとしたが、打ちに行こうとしていたためその避ける動作の中で、バットがボールに当たってしまった。
もちろん打つつもりじゃなかったので、バットに当たって鈍い音をたてたボールは全く勢いはなく、三塁手はもちろんピッチャーもキャッチャーもなかなか届かないところに転がっていった。
その打球を見て、藤田は一塁めがけて走った。足だけは自信があったので、ピッチャーがやっと拾った時にはすでに藤田は一塁を駆け抜けていた。
「イェイ!」
藤田がガッツポーズをベンチに向かって見せていた。ベンチは笑いながら「なんだそりゃ!」「あんなので喜ぶな!」「あんなの、ありか?」「ヒットになったぞ、あれで」「もうけもうけ」、と騒いでいた。
次の打者はコージだ。同い年の、パワーヒッターの3年生だ。身長は藤田よりも5センチくらい高く、またひょろっとした藤田よりも逞しい筋肉質な体をしている。これまでレギュラーとしても活躍し、5番を打つこともあったが、この日は他の有望な2年生が5番を打っており、コージは3番打者だった。3回の素振りはしっかりと力強く、安定したスイングだ。
コージがバッターボックスに入り、構える。
相手ピッチャーがキャッチャーのサインに頷き、セットポジションに入った。それを見て、藤田はじりじりと一塁からおよそ3メートルと、リードを取る。
ベンチから特に戦略の指示はない。そんなときは走者と打者の間で互いにサインを発する、と決めていた。走者から発する盗塁なのか、それとも打者から発する送りバントなのか、右方向ねらいのヒットエンドランか。
一球目、全てにおいてノーサインだったが、牽制球が一塁に投げられてきた。が、アウトにするつもりはなかったようで比較的ゆっくりと投げられてきた。藤田は急ぐ必要なく帰塁。
あらためての初球。ノーサイン。コージから見てアウトコースの、外に逃げる変化球だった。見送って、ボール。
二球目。ベンチから盗塁のサインが出た。藤田は、出来るだけ悟られないよういつもと同じだけのリードを取った。そして、ピッチャーが投球動作に入った瞬間、力いっぱい地面を蹴ってスタート、牽制球が来たって振り返らない。二塁に向かって走った。
ピッチャーの投球はコージから見てインコース高めのストレートだった。ボールかもしれない、と気持ちよけるように見送った。キャッチャーが藤田の盗塁に気づき、立ち上がりながら捕球、素早くセカンドベースめがけ低く強い送球をした。
セカンドベースには二塁手がカバーに入ってきた、キャッチャーからの送球はその二塁手のちょうど顔付近に届き、二塁手は捕球後スライディングしてくる藤田にタッチにいこうとしたが、捕球とほぼ同じタイミングで藤田は綺麗なスライディングでセカンドベースに到着していた。
「おおー、ナイスラン!タカシー。」
ベンチが大騒ぎになった。
スライディングでユニホームについた泥汚れを払い落とし、藤田は笑顔で返した。
落ち着いてからの三球目。またベンチから盗塁のサインが送られてきた。まさか二球続けて盗塁はしないだろう、という相手の思惑のスキを突く作戦だ。
藤田は「やっぱり俺にはこれしかないんだ」と思いながらリードを取った。
ピッチャーが投球動作に入るとともに同じように三塁へ向かって全力でダッシュ。
インコース低めの、ストライクくさい球を、コージは気持ち振り遅れるような空振りした。走者藤田を援護するためのものだ。キャッチャーは何とか捕球したものの、ボールが手につかず三塁に投げるタイミングを逃した。藤田はスライディングする必要なくサードベースに到着した。
四球目に入る前、相手ピッチャーは三塁上にいる藤田を偽投で牽制。藤田は二歩ほど戻る。
カウントはツーボール・ワンストライク。
改めて四球目。サインは無し。打者のコージに一択だった。
ピッチャーが投げたボールは真ん中から外角低めに変化する、カーブだった。その変化球を計算に入れていたように、コージはしっかり溜めて踏み込みながら大きく振りぬいた。
快音を残して打球は遠い右中間を真っ二つに飛んでいった。センター・ライトは捕球ではなく追いかけるために走っていく。
藤田は外野手の動きを見ながらゆっくりとホームインした・・・。
* * *
あれから正確に言うと、35年も経つ。あの時のようにはできなくとも、今草野球をやっている自分に、藤田は不思議な巡りあわせを感じずにはいられなかった。
二球目。高めに来たので見送る。
「ボール!」
藤田の打席での落ち着いた仕草を見て何かを感じたのだろうか、相手ピッチャーが藤田に対し警戒し、三球目を準備するのに慎重になった。
三球目。アウトコースへ、スピードを抑えたチェンジアップだ。ついその比較的遅い球につられそうなところだが、藤田は自信をもって見送った。高校の野球部では「選球眼だけはいいな」と監督に褒められたものだった。
「ボール!」
審判のコールに自軍のベンチから「おぉ~、ナイス選球眼!」と声が沸いた。
藤田はひとつ、大きく深呼吸をして構えなおした。相手投手も集中しなおす。
カウントはツーボール・ワンストライク。ピッチャーとしてはボールとなる球は投げたくないカウントだ。ストライクゾーンに投げてくる可能性はぐっと高くなる。
そして、投じられた四球目。インコースへのスピードボール。
「コン」
藤田が選んだのはセーフティーバントだった。うまい具合に三塁線側に転がった。
もともと突っ走るのが得意だった。
三塁手は全く想定外だったようで、完全に油断していた。定位置から慌ててダッシュして捕球したころには藤田は一塁を駆け抜けていた。
「えええええ~っ、。」「おおおおお~っ、」「足、速っ!。」
一・三塁側の両ベンチ、特に藤田の居るチームの一塁側が沸き上がった。
藤田はバットを振ってボールを打ち返すのは下手だった。野球が好きで野球部に入部したのだが、足が速いだけで身長も170センチ程度と野球選手としては小さかった。バッティングも下手で、守備においても肩は弱く遠投は部員の中で最低だった。だから高校の頃はレギュラーを取れなかった。
そんなことを回想しながら、一塁上で藤田はまだ走れたことに我ながら驚いていた。毎日の仕事の中でコーヒー豆を担いで階段を昇ったり、ほぼ一日ずっと立っての作業、更に天気のいい日は自転車で通勤していることがトレーニングにもなっていたのだろうか。でも、明日は筋肉痛間違いないな、と藤田は思った。
結局、3回打席が回ってきて初打席こそ出塁したが、あとの2打席は凡打に終わった。
守備も平凡なフライが3回、ライト前ヒットのゴロが2回飛んできただけで、試合は結局藤田の居るチームは2対9で敗れた。
が、藤田個人は気分爽快だった。
「藤田さんが土日休みの仕事をしてる方なら、ぜひ正式にチームに入ってほしいですよ。レギュラー間違いなしですよ。」
と片づけをしているときに田中に肩を叩かれながら言われた。
「ははは、最初のセーフティバントがあんなに旨く行くとは思いませんでした。でも、バッティングは皆さんの方が上ですよ、打つのは本当に下手ですから。それに、さすがに土日は空かないですね。」
と藤田は苦笑いしながら答えた。
「今日のように金曜日でしたら呼んでください。このユニホームは洗濯してお返しします。」
と藤田は笑顔で返した。
続けて藤田は
「向こうの芝生席で、家内が皆さんのために、とコーヒーを用意しています、是非どうぞ。」
と続けて言うと、
「え?本当に?いいんですか?」「あざーっす。」「ここで喫茶ジータのコーヒーが飲めるなんて、嬉しいなぁ。」
などとチームメイト全員から声が上がった。
ユニホーム姿のままベンチ内の荷物をまとめて、通路を通ってフェンスの向こう、香織と恵美がいる芝生席に藤田はメンバーを連れて行った。
「皆さん、お疲れ様です~。」
と香織がメンバー全員に声をかけ、ポットに入れて持ってきた喫茶ジータのコーヒーを希望者全員に順番に配った。
「いやぁ、外で飲むとまた格別だね。」
とメンバー全員が言い、芝生の上に座って一服した。
藤田も、紙コップにコーヒーを貰い、香織の傍に座った。
「お疲れ様。やるじゃない。学生時代にやっていたっていうのは本当だったのね。」
と香織は藤田の肘を肘でつつくようにして言った。
「まあな・・・。実は誘われたとき、最初は断ろうかと思ったけど、やってよかったと思う。好きな野球が楽しくできた。高校の頃はしょっちゅう下手くそって言われてた・・・ほとんど試合に出させてもらえなかった・・・。今日は存分に楽しませてもらえたよ・・・。」
と藤田は言った。
「ふーん。でも今日は本当にかっこよかったよ・・・ちょっと、惚れ直しちゃった・・・。」
と香織がしみじみと藤田の横顔を見ながら言った。そして、体を寄せ、藤田の肩に頭を傾けた。
「よせよ、みんなが見てるぜ。」
と藤田が言ったが、香織は
「いいじゃない、別に。・・・だって・・・別れていたころ・・・ううん、別れる前も・・・貴方との関係が悪かったころなんて、こうして貴方に寄り添うことすらなかったし、そうしようとも思わなかった・・・寄り添うことがこんなにも安心できて気持ちいいことなんだって、思いもしなかった・・・。」
と藤田の耳元で囁くように言った。
藤田も寄り添われることを嫌がるわけでもなく受け入れ、言った。
「そうだな・・・俺もそう思うし、今とても幸せに感じるよ・・・。」
「うん、幸せ・・・だから・・・。」
と香織は藤田の肩に頭を乗せたまま言った。
「だから?。」
と藤田が言葉の先を期待して訊くと、
「もっと見せびらかしちゃう!。」
と香織は何も気にせず更に藤田に更に体を密着させてきた。ところが、そのひとときを邪魔するように恵美が
「んん!。」
と、わざとらしく咳払いの声を近くで上げた。
「あの~、仲良くしてるところ申し訳ありませんけど・・・」とそっぽを見ながら、そしてやれやれという表情をしながら恵美は「せっかく私が作ってきたお弁当、要らないんですかねぇ?。」
と、弁当を持った片手を伸ばして藤田の目の前に突き出した。
香織が慌てて藤田から離れた。恵美がすぐ傍にいることをすっかり忘れていたのだ。
藤田も「ゴホン」と咳払いして恵美に向き直り、
「お。おう、有難う。実は腹ペコなんだよ、本当に。」
と笑顔で言って受け取った。
「お前たちもまだだろう?、一緒に食べよう。」
「うん!。」
三人は等間隔に座りなおすと、
「いただきまーす。」
と声を合わせ、弁当の蓋を開けた。
恵美が
「実はこのお弁当、私が作りました~。」
と説明した。
「あれ?。今朝、スーパーのお惣菜を盛り合わせていなかったっけ?。」
香織が茶々をいれたが、
「うん。でもね、アレンジして、お弁当として完成させたのは私!。だから、これは私が作った『お弁当』なの。」
と恵美がきっぱりと言いきった。
「なるほどね。」
藤田と香織は納得するしかなかった。
藤田は一口、ニンジンの煮つけを口にした。
「うん、美味しい!。スーパーの味だ。」
三人は声をあげて笑った。
春分の日、晴天。風の外野席に降り注ぐ陽射しはとても優しかった。
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