《二》崩落
変わり者。僕に対する周囲の評価は、そのひと言に尽きる。
それで構わなかった。幼い頃から憧れていた職に就き、高い志を抱く学生たちとともに充実した日々を送る――僕にとってそれ以上の幸福はなかったのだから。
君は気づいているかな。
長年抱いていたそんな僕の心を根底から覆してしまったのは、君なんですよ。
分からないでしょう? 僕がどんな気持ちで、幾冊もの本を机に積み上げながら読書に耽る君を見つめていたのか。
ああ、分かるも分からないも、そもそも君は気づいてすらいなかったのかもしれないね。
あと二、三年もすれば、両親とて僕の結婚など諦めてくれるはずだった。
長い間僕が求め続けていたそれは、もう目前まで迫っていた。
君が、僕の目の前に現れさえしなければ。
*
結婚しろ、家に戻れ。
その手の干渉に辟易しているから戻らないのだと、なぜ思い至れないのか。
変わり者で結構。薄汚い打算を滲ませて近寄ってくる女どももその親たちも、視界にも入れたくない。不愉快で堪らない。だからこそ、二十年近くひとりで生きることを選び続けてきた。
縁談も、幾度となく断ってきた。
両親とてそろそろ諦めてくれるのではないかと、何年も思い続けている。現に実家は三つ下の弟が継ぐと決まっている上、弟には妻も子もいる。ならばもうそれでいいだろう、この期に及んでなんの問題がある。
僕が暮らすさして広くもない家に、わざわざ下女やら庭師やらを送り込んでくる。そんな手は不要だと断っても、あれこれと理由をつけてはそれを繰り返す。
埒が明かない。そうやって自分たちが雇った人間を僕の傍へ送り込み、僕の現況を探っているのだろう。容易に想像がついてしまう。
うんざりだ。
放っておいてくれないか。今だけは、なおのこと考えたくない。
無造作に机に放られた一冊の本が目に入り、感じていた憂鬱がますます深くなる。
それを僕に手渡してくれた人物の、最後に見た晴れ姿が瞬時に蘇り、辟易の溜息が零れた。
『私などが贈らなくてもすでにお持ちだと思うのですが、他に思い浮かばなくて』
『先生の授業、楽しかったです。お世話になりました、……どうかお元気で』
卒業式の日に彼女から手渡されたそれは、僕が幼い頃から好んで読んでいた本だった。
以前図書室で顔を合わせた際、なんの気なしに伝えたことを思い出し、手渡されたときは堪らず目を見開いた。
自分が持っているものは、何度も読み返したせいでところどころが擦り切れるほどになってしまっていた。しかし、彼女が手渡してくれたそれは、僕へ贈るためだけに購入したのだろう新品だ。
特別親しくしていたわけではない、顔を合わせる機会だってそうなかった。僕が受け持っている週に数回の授業と、後は互いに通う頻度が高かった図書室で偶然顔を合わせる、せいぜいがその程度だった。
だからさっぱり分からない。どうして彼女のことばかり、いつまでも頭に残り続けてしまうのか。記憶に残るやり取りなど、図書室で交わしたなにげない会話くらいしか思い当たらないのに。
ページをめくれば新書特有のインクと紙の匂いがするだろうそれを、僕はまだ一度も開けていない。大切なものを汚してしまう気がしてためらっていた。
なんなんだ、これは。
相手はただの学生だ、それも深く接点があった相手ではない……それなのに、妙に頭に残ってしまう。
艶やかな袴姿と、わずかに悲しげな気配を宿した儚い微笑みが、いつまでも。
*
彼女の両親が、躍起になって娘の縁談を進めたがっている。
その噂を耳にしたのは、卒業式が終わった直後だったか。ある名家の令嬢が、という話題を、わざわざ僕の自宅を訪れてまで両親が口にしたのもほぼ同じ頃だった。
良家の出だとは知っていた。とはいえ、図書室で齧りつくように本を読んでいた姿を思い返すと、とんでもない違和感に襲われる。結婚だなんて……あの彼女が、と。
もしかしたら、卒業式の日に垣間見えた儚げな微笑みは、自分にどんな未来が訪れるのか知っていたからのものだったのでは――そう思ってしまった時点で、僕は両親の思惑に嵌まり込んでいたのかもしれなかった。
両親は、その縁談を僕に勧めた。
その子は教え子だ、そういう目で見ることはできない。ひと言、そう伝えれば片がつくはずだった。
だが、できなかった。
僕は縁談を受けた。
あの子が他の男のものになる、その姿が想像できなかった。したくもなかった。
両親は飛び上がらんばかりに喜んだ。彼女の両親も大層喜んでいたと、数日後に聞いた。だが。
彼女自身がどう思っているのか、ただただ不安だった。卒業式以降、彼女とは顔を合わせていなかった。縁談が持ち上がってからも、一度も。
自分に婚約を申し込んだ男がかつての師だと知ったら、軽蔑するかもしれない。齢だって、見方次第では親子ほどの差がある。そんな男に婚約を申し込まれ、薄気味悪い、不快だとは感じないだろうか。
しかし、そうした心配自体が不要なものだった。
僕が婚約を交わしたのは彼女ではなかったからだ。彼女の両親が急いでいたのは、彼女の婚約ではなく、彼女の双子の妹御の婚約だった。
眩暈がした。
いわれてみれば、妹がいると話していたことがあった気がする。なんと滑稽な展開だろう、しかも双子だなんて。
縁談はまとまってしまった。両親の態度から考えても、今から覆すのは無理だ。彼女――否、彼女の妹もすでに了承しているという。訂正は利かない。
……いや、むしろこれで良かったのではないか。
彼女だって、こんな齢の離れた、しかも学生時代の教師と結婚するなど不快に違いない。薄気味悪く感じるに違いなかった。それならまだ、面識のない妹御のほうが。
双子だというなら、妹御も彼女とよく似た面立ちをしているのだろう。いっそ僥倖ではないか。彼女に似た令嬢ならありがたいくらいだ。
そういう失礼極まりない考えを平気で抱いていた、だから罰が当たったのだ。
自分が取り返しのつかない過ちを犯したことに気づいたのは、婚姻当日を迎えてからだった。
完全な別人のほうが遥かにましだった。
彼女と同じ顔、同じ声、だが彼女ではない。そんな人が、妻として生涯僕の傍に寄り添っていく。地獄を選んでしまったと、心底そう思った。
初夜には、新妻に対する所作とは思えぬほどぞんざいに肌を暴いた。
大腿を伝う破瓜の証を目にしたときすら感慨は湧かなかった。彼女でなければ意味がない、なのに似た女の純潔を奪ったところでどうなる。そうとしか思えなかった。
それからというもの、妻とは極力顔を合わせなかった。視線を向けないよう強く意識し、名も呼ばなかった。つい彼女の名を呼んでしまいそうだったからだ。
妻である女性を傷つけている自覚は、さすがにあった。
夜中になるまで職場で時間を潰す日が増え、その日のうちに自宅に帰ることはほとんどなかった。どうしてこんな扱いを、と責められてしまうのではと考えては頭を抱えていた。
ある日、通いの下女から『気になることがある』と切り出された。
結婚前には自宅に数名入っていた下女だったが、結婚後にはひとりだけを残し、他の全員を実家へ戻していた。
残したのは、最も歴の長い、老いたひとりだ。無駄口を叩かず、与えられた仕事に黙々と励むさまを見極めてその者を残した。
『部屋に閉じこもって、本ばかり読み耽っていらっしゃるのです』
『身に着ける服にも化粧にも、話に聞いていたほどにはご興味を示さぬのです』
何度も言い淀み、またところどころでためらいを覗かせながら下女が伝えてきた日中の妻の様子に、眉が寄った。
おかしい。僕が結婚した女性は、天真爛漫な性格をしていると聞いていた。加えて、見目の良いきらびやかなものごとを――尖った言い方をするなら派手なことを好む気質だとも聞いていたのだが。
僕が取っている行動は、確かに彼女の自尊心を傷つけるものに違いなかった。
初夜にひどい抱き方をして以降、触れるどころか目も合わせずに今日まで過ごしてしまっている。けれど、なにかが引っかかる。
まさか……だが、そんな。
そんな、わけは。
その夜、頭を掻き回してやまない混乱を振りきるように、同僚と酒を酌み交わしてから自宅へ帰った。久しぶりに足を踏み入れた寝室で目にしたのは、長椅子にもたれて本を手にする君の姿だった。
驚いた顔で僕を迎えてくれた君を、半ば襲うようにして掻き抱いた。
苦痛に顔を歪め、涙を零して僕を受け入れる君へ、それだけでも十分非難に値するだろうに、僕はさらなる暴挙に打って出た。
あろうことか、君の名ではなく彼女の名を口にしたのだ。
少しも期待していなかったと言ったら嘘になる。
長椅子の前に置かれた脇机、その上に煩雑に積み上げられた本の山が、僕の期待をさらに濃くしてしまっていた。学生時代、彼女は自分の机に似たような本の積み重ね方をしていた。わずかずつ背表紙をずらして上に重ねられているそれを見て、すぐさま頭が沸いて、だが。
顔を青くした君は、びくりと全身を強張らせた。
深い絶望の滲んだ顔。それは一瞬で僕を絡め取り、奈落へ叩き落とした。
やはり違うのだ。当然だ。この人は彼女ではない、彼女の妹だ。
天真爛漫だとか派手好きだとか、そのような話は、結局のところ噂で聞いたものでしかない。他人が見た他人の評価が現実と
この人は、本当はこういう人だった。
僕が傷つけてしまった。それだけの話だ。
どうしてだ。さっきの君の顔が、頭から離れない。
脳裏に焼きついた、彼女と同じ君の顔。苦痛と絶望に歪んだ表情が、一度沈んだ奈落からの浮上を僕に許してはくれない。
……彼女と、同じ顔?
彼女と同じ……いや、違う。あの子の顔はどんなだった?
おかしい。思い出せない。あれほど焦がれていた人なのに。
僕は、あの子のなにを知っているのだった?
だいたい、今貪るように掻き抱いているこの人のことも、なにひとつ知らないままじゃないか。この人を苦しめ続けているだけでしかないじゃないか。
どうしたらいいのか分からない。
僕が愛しているのは誰だった? いや、そもそも僕は、生涯誰のことも愛するつもりなどなかったはずではなかったか?
だが、それならどうしてだ。この人が僕を見限って離縁すると言い出したら、もう生きていけなくなるかもしれないなんて、どうしてそんなふうに思ってしまうんだ。
駄目だ。
君は僕の妻だ、僕の傍を離れることは絶対に許さない。
……分からない。君が、本当は誰なのか。
僕の知る彼女なのか、その妹なのか。もしやどちらでもないのではと、そういう気さえしてしまう。
いや、どちらだったとしても別に構わないのではないか。僕が愛しているのは、傍にいてほしいと望んでいるのは、今僕の腕の中にいるこの人だけだ。
早く子を宿させてしまえばいい。
そうやって逃げ場を奪い、さっさと繋ぎ留めてしまえば。
ただそれだけの話なのでは、ないのか。
臆病な僕は、今日も君の名を呼ぶこともないまま君を貪る。
なにもかもをわざと不明瞭な形に留めたきり、それに気づかないふりをして、君を僕の隣に縛り続ける。
君も君だ、なぜなにも訊かない? なぜ拒みもせずに僕を受け入れてしまう?
君を君の姉の名で呼んだあの日以降、身体の関係だけ深めては満足して……そんなことを延々と繰り返している男を、どうして責めようともしないんだ。今もなお、こうして傷つけてばかりだというのに。
我ながらひどい話だと思う。結局、僕はこうやって、自分の落ち度を棚に上げては君を責めてばかり。
そうすることでなんとか自分を保っている。こんなにも身勝手な僕に、君が心を開いてくれる日など訪れるわけがない。
嫌になるほどはっきりそう理解できていて、それでももう、僕にはできないのです。
君が本当は誰なのか確かめるなんて、そんな恐ろしい選択は、僕には。
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