紡がぬ唇と沈黙

夏越リイユ|鞠坂小鞠

《一》沈黙

 逃げたいという気持ちは、毛頭ございませんでした。

 そもそも私には選択権など最初からなかったわけですし、仮にこの場から逃げ出したところで、今となっては逃げる先すらありはしないのですから。


 すべては数多の偶然が重なった結果であり、それ以上でもそれ以下でもございません。しかし、この人のもとへ嫁ぐことができた時点で、私がこの上ない幸せを感じていたのは浅ましくも事実なのです。


 誰がどう見ても不運としか思えないだろう私の結婚生活は、……私にとっては。


 たとえどれほどの時間が経過し、その先において私の想いが報われることなどなかったとしても、それだけは絶対に変わり得ぬ真実なのです。



     *



 私を狂わせようと、それは今日も鋭く牙を剥いてきました。

 何度繰り返しても慣れることのないそれは、嬉々として私を蹂躙しては支配を深めてゆくばかり。


 息を乱すことさえ許せぬとでも言いたいのか、大きな手のひらが私の口を覆います。これではまともに息ができず、申し訳程度に鼻から零れ落ちる細い声が自分のものだとも気づけず……これもいつだって同じ。

 すぐにはそうと思い至れぬほどに、私たちが交わす熱は刹那的であり、また悲しみすら感じさせるものなのです。


 彼が愛している女性は、私ではありません。

 加えて、今の私が彼に名乗っている名も、本来の私の名ではない。


 彼が愛しているのは、私の双子の妹。

 そして今の私が名乗っている名もまた、他の男と駆け落ちしてすでにこの地を去ってしまった、その妹のものなのです。


 妹の身代わりとして、嫁いだ先でも――夫となる人の前でも妹の名を名乗り続けるようにと、両親から命じられました。

 いくら性格に違いはあれど、双子は双子。私たち姉妹はほとんど同じ顔をしているのです。とはいっても、天真爛漫な妹とは違い、私は勉学と読書に時間を割きたがる根っからの本の虫。元々、両親の期待にはまったく沿えぬ娘ではありましたが。


 暴力にも似た両親からの指示を、しかし私は、己の意思で受け入れました。


 彼は名家の出身です。幼い頃から学問を志し、教師となったそうです。

 跡を継げ、家に入れという家族の言葉を頑なに拒み、長くひとりで暮らし続けてきたのだとか。そのせいで、彼を奇人扱いする者は今も少なくありません。


 私との婚姻が成立した後も、彼は実家には戻りませんでした。そちらはすべて弟に任せているといった主旨を口にしたきりで、彼は詳しい事情を伝えてはくれませんでした。

 つまり私が嫁いだ先は、彼がそれまでひとりで暮らしてきた住まいです。とはいえ、掃除や炊事などといった家の仕事はそのために雇われた者が行っていて、そこに私が挟まる余地はございませんでした。


 私の実家は、名ばかりは広く知られているものの、近年では贅沢できる余裕はありませんでしたので、家の仕事は私もひと通りこなしておりました。

 要は妹がそういったことを苦手にしていて、母が手伝いを頼む相手が私しかいなかったというだけなのですが。


 この家に入ってからというもの、なにもすることがなくなってしまいました。

 だからといって、実家で暇なときにしていたように、常に本にかじりついているわけにもいきません。勘の良い彼になにかしら悟られてしまうのではと、いつも不安に思っていました。


 妹は、きらびやかで派手な性質たちだと有名でした。彼とて、おそらくはそういった噂を耳にする機会があったはずです。

 なんとか妹の行いを真似てみたり、着る物や化粧をなるべくあの子のそれに近づけようとしたり、私は私なりに密やかながらも努力を重ねていたのです。


 訪れる未来がこういったものだということくらい、嫁ぐ前から嫌というほど理解してはいたのです……それなのに、どうしたことでしょう。

 熱心に妹へ婚約の申し入れをしていたと聞き及んでいるのに、結婚以来、彼は一度たりとも妹の名を――私の今の名を呼ぼうとしません。それどころか、私の姿を視界に入れることさえ不快とばかりに、視線のひとつも合わせてはくれないのです。

 嫁いだ当日、迎えた初夜のしとねの中でも、彼は心ここにあらずといった様子でした。願って婚姻を結んだ人を相手にしているとは思えぬ辱めを、あの日、私はこの身に受けたのです。


 妹を愛しているのではなかったのでしょうか。望んで妹へ婚約を申し入れたのではなかったのでしょうか。あるいは、私が妹の身代わりだと見破られてしまったのでしょうか。

 なんにせよ、気を失いそうになるほどの破瓜の痛みに耐えていたそのときの私には、それ以上余計な考えを巡らせるなどできはしませんでした。


 彼の愛している人が私ではなく、また、私も本来の自分の名を名乗れていない。そんな二重の矛盾に囚われたきりの婚姻が、幸福をもたらしてくれるわけはない。

 そう気づいたときに、私の心は息を引き取ったのかもしれません。なぜなら、妹に扮した私と結婚したその人は。


 ――今このとき、私の奥をひたすらに苛み続けるその人は、私の。


 喉から零れ落ちたのは、悲鳴じみた声のみ。潰れかけた喉のせいでひどく掠れ、なんとも醜い音にしかなっていません。

 ところが、どうしてでしょうか。

 どうしてあなたは、そんな私の声を耳にしては満足そうに微笑んでいるのでしょう。壊れた私を眺めることが、それほどまでに楽しいのでしょうか。


 生まれて初めてこの身に男性を受け入れた日から、およそ一年。

 私の身体は、心に反し、従順に彼を受け入れられるようになりました。


 ある種の自己防衛なのかもしれません。痛いと思えば際限なく苦痛が襲いかかってくる、それならば、はなから苦痛だと思わなければ良い。苦痛が完全に消え去ることはありませんが、そうすれば、少なくとも心が感じる痛みは鈍らせられるのです。

 一年もの歳月、私は自分をごまかしながら日々を送ってまいりました。そうでなければとても耐えきれませんでしたから。


 とはいえ、この一年で、彼の私に対する態度には幾たびか変化がございました。

 その最たるものが、結婚からおよそ半年が経過した頃のある夜のこと。あろうことかその日、夜伽の最中に、彼は私の本当の名を呼んだのです。愛しい人を呼ぶかのごとく、どこか縋るような声で、私の名を。


 横たわったまま、私はすっかり血の気を引かせていました。

 どうして知っている。そういった素振りは取らぬよう、嫁いで以降、細心の注意を払ってきたのに。

 どこまでを知られている。この人に対して私が長く抱えていた想いも、まさか見抜かれてしまっているとでも。


 女学校時代に師と慕ったこの人へ抱いてきた――心の奥底で殺し続けてきた、私の想いを。


 いけません。それでは駄目なのです。私の名は、もうそれではないのです。

 どうしてですか。いつから気づいていたのですか。それとも、かつての教え子である私の姿が、単に今の私に重なっただけなのでしょうか。けれど、それではあの声音の理由にはならないと思えてしまうのです。


 私を掻き抱きながら、あんなにも切なげに私の名を呼んだ理由にはなり得ない。


 なにもかもがおかしいのです。あり得ないのです。

 あなたが私の本当の名を呼ぶことも、その声に愛おしさが宿ることも、どちらも絶対に起こり得ぬことのはずなのに。



     *



 私の名を呼んだ夜以降、彼の帰宅は随分と早くなりました。

 仕事に明け暮れ、初夜以後もほとんど寝室へ足を運ぶことのなかった彼は、今度は毎晩、執拗に私へ触れるようになったのです。


 掠れた声で私を追い詰めながら、その癖、愛の言葉も私の名も絶対に口にしない。唇が私のそれに触れることも、絶対にありません。

 まるで安定を欠いた行為を、何度も何度も繰り返すようになったのです。私が気を失って、崩れ落ちてしまうまで。


 今も夜伽のたび、彼はもはや妄執的と言い表しても過言ではないほど丹念に私に触れます。指先で、唇で、ときには舌先で、私の身体を甘くなぞっては、堪えきれず悲鳴をあげる私を満足そうに眺めるのです。

 初夜からは想像も及ばぬ行為の数々に、これまでに幾度気がふれそうになったか分かりません。


 かと思えば、痛みを伴うほど激しく私を苛む夜もありました。

 苦痛を訴えても、なにも聞こえていないと言わんばかり。ひたすら私を暴き続けるその熱を、いっそ厭わしく思ったこととて一度ではありません。

 けれどそういうとき、彼は決まって今にも泣き出しそうな顔で私を苛んでいるのです。血が滲んでしまうのではと不安になってくるくらい、強く唇を噛み締めながら。


 そんな顔をされては、嫌だと拒むことさえためらわれてしまうのです。

 なぜなら彼は、曲がりなりにも夫婦として暮らし始めるよりもずっと前から私が憧れてきた、大切な想い人なのですから。


 すでに私の心が朽ち、枯れ果ててしまっているとはいっても、最後に行き着くところはそこでしかない。


 どうしてそんな顔をするのですか。私がそれを問うことは、今の今までできておりません。

 私が問うよりも前に、口が碌に役目を果たせなくなってしまうからです。私の思考をすべて読んでいるかのように、余計なことは口にさせまいとするかのように、あなたは激しく私を混乱の渦に沈めてしまう。


 愛がないと知っていながら、ただ与えられる愉悦に溺れさせられるだけ。その虚しさは、きっとあなたには永遠に分かってもらえないのでしょう。

 だというのに、私にはその虚しささえも喜ばしく感じられてしまうのです。抱えた矛盾の大きさには自分でも辟易しますが、こればかりはどうにもならない。


 愚かな感情に溺れていることは分かっています。だとしても、あなたに私を責めることはできない……違いますか。

 愛してもいない女を愛しているかのように扱い、延々と縛り続けるだけのあなたに、そんな権利など一片もありはしない。


 あの日以来、今日まで、彼が私の名を呼ぶことは一度もありませんでした。今の名も、本来の名も。

 ときおり、その端正な顔が苦しげに歪むことがあるとは気づいています。乱暴に感じるほど激しく求められる夜にも、私を掻き抱く腕が震えているのではと、そう思い至る夜だってあるのです。


 それでも、臆病な私は、どうしたってこの人に尋ねられないまま。


 どうして妹に婚約を申し込んだのですか。

 どうして望んだ妻を手に入れてなお、その名を呼ぼうとしないのですか。

 どうしてあの日、妹のものではない名を――私の名を呼んだのですか。


 少し考えただけで辿り着いてしまう都合の良い答えを、今日も私は躍起になって頭から締め出します。

 そのような考えが頭を満たすときに限って、あなたは私を追い詰める。ですが、それでいいのです。だって、安易な考えに身を委ねたところでなんになるというのですか。


 あなたが私のものになるとでも、いうのですか。


 答えは要りません。どのみち、私の心は息絶えた後なのです。

 だいたい、あなたが妹に婚約を申し込んだ時点で、私があなたに抱いていた淡い恋心など粉々に砕け散ってしまっていたのですから。


 得体の知れない期待に溺れて、なんとか息を吹き返して……それで? そんなことを繰り返してどうなるというのです。

 致命傷がこの身と心に刻み込まれる苦痛を何度も繰り返すくらいなら、今このときのまま、流されるがままあなたに溺れているほうが遥かに幸せというもの。結局のところ、私の望みは今日もそれのみなのです。


 ただ、もし我儘わがままが許されるなら、いつかあなたの唇に触れてみたい。

 きつく噛み締めた唇が血を滲ませるさまをこれ以上見たくないと、その唇が傷を作るよりも前に私のそれで塞げたらと、つい願ってしまうのです。


 たとえあなた自身が、そのようなことなど少しも望んでいないのだとしても。

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