第12回


 気付いたとき、憂喜は夕暮れ色に染まった田んぼの間に挟まれたあぜ道をとぼとぼと歩いていた。


 西の空に落ちかかった赤い夕日。道の横にある小さな用水路を流れる水のせせらぎと、田んぼの向こうに連なる山々から聞こえてくるツクツクボウシの声が、もの寂しい雰囲気をそこはかとなく醸し出す。

 足元からは昼のうちに蓄えられた熱気がゆらゆらと立ちのぼって蒸し暑い。時折り山から冷たい夕方の風が下りて、よく伸びた稲の青葉を揺らして届くので、その一時の涼にほっと息を吐く。風には青臭い草の独特のにおいがほんの少し混じっていて、それは憂喜もよく知ったにおいだった。


 ドクダミの葉だ。子どものころ、この刺激的な薬っぽいにおいが憂喜は苦手だった。だが皮膚の弱い母は、これを煎じたお茶をよく飲んでいた。「子どものころからずっとこれなのよ」と笑い、夏になると山の神社からの帰り道、両手いっぱい抱えて戻ってきては庭の井戸水で洗って小さく束ね、軒下の物干しにつるして干していた。そうすると開け放した障子窓からこのにおいが入ってきて、家中のそこかしこからにおうのだ。


 夏の日の夕方、庭でたらいの前にしゃがんでいる母。そしてこのにおいが、憂喜が夏と聞いて連想するイメージの1つでもあった。


 もう随分昔のことだ。その後、離婚した父に連れられて大きな町へ移った。突然父と自分だけになったことに驚き、何もかもが変わってしまったことに驚いて、寂しかった。新しい場所で母を捜して、捜して……呼んでも返る声がないことに声を上げて泣いた。父に抱きしめられ、それでもどうにかその地に慣れようとしたのだが、直後にまた次の町へ引っ越した。押し入れの壁に「寂しい、ひとりぼっち」と書いたのは、この家だったか。その次だったかもしれない。


 新しい町、新しい家、新しい隣人、新しい学校。日々は目まぐるしく過ぎて、幼い憂喜はそのうち母や集落のことを思いださなくなった。


 だが、そう、覚えている。

 思いだしてきた、というのが正しいか。

 ちょうどあの集落もこんな感じだった。山に囲まれ、田んぼと畑が連なり、人が使うのは主にあぜ道で、一番大きな道といえば、集落を横切る1本道。それも車が1台通れるかどうかの非舗装路で、信号機なんて物はなかった。

「そうそう。こんな感じで、電灯がまばらに立っているのがせいぜい――」

 目を前方に移し、道を見通して、言葉が止まった。


 あまりに似すぎていないか?


「……え? いや、でもっ」

 浮かんだ考えを否定しようとしたが、そうして否定できる部分を探せば探すほど、同じ物に見えてくる。

 見覚えある家屋の連なり、納屋、脇道。木から伸びる枝の1本。全てを見比べようとするたび、かつて自分が住んでいた集落の記憶がよみがえり、同じだと思ってしまう。

 しかしそんなはずはない。憂喜が住んでいたのは山間のとても小さな集落で、一番近くの村まで2時間はかかる。やたらめったら走ったからと、たどり着けるような場所ではないのだ。


 なぜ自分がここにいるのか、まるで見当もつかない。

 理解できない。いくら考えても、説明がつかない、こんなこと。

 絶対に起こりようのない事象に憂喜はまたもや混乱した。夢、幻覚ならまだ理解できるが、土や草のにおい、虫の音、川の流れる音、ちぎり取った葉の感触まで、現実としか思えない。

「なんだ? もしかして俺は、狂っちまったのか?」

 恐怖にかられ、大声で叫びたくなる。取り乱しかけた心をどうにか落ち着かせようと、憂喜は目をつぶって、呼吸に意識を集中した。1回……2回……3回……。

 5分くらいそうしていただろうか。

 閉じていた目を開いたら何もかも元通り、ということはなかった。

 変わらず憂喜は田舎の集落のあぜ道に立っていて、夕暮れに染まった田んぼからにおう青草のにおいに取り巻かれていた。


 だが、何かがおかしいと感じた。

 ここは記憶にある集落の風景そのものだが、だからこそ、おかしい。


 10年前と全く同じ、なんてことがあるのか?


 家屋も納屋も、黒ずんだ壁に入ったひび割れも、全てがあのころのまま、なんて。

 まるで時が止まっていたようじゃないか。


 落ち着きを取り戻しかけていた胸がまたぞろざわつき始めた。

 あぜ道を出て、一番近くの民家へと向かう。古めかしい、色付きの曇りガラスがはまった玄関ドアをたたいた。

 もちろんここのどの家にもチャイムなんて物はない。

「おばちゃん! 高田のおばちゃん! 俺だ、憂喜だよ!」

 返事はなく、廊下を歩いてくる気配もない。

 耳をすましても何の生活音もしておらず、全くの無音だ。

「きっと、おじさんと畑に出てるんだな」

 それから憂喜は、隣の家にも同じことをした。その隣の家にも、向かいの家にも。けれども誰一人として憂喜の声に応じて出てる者はおらず、そもそも人の気配がなかった。

 かつては自分の背丈ほどもあった垣根は、今はもう胸の高さしかない。垣根越しにのぞいた庭には、犬小屋はあっても犬はいなかった。


 おかしい。いや、おかしくないことなんて、1つもなかったけれど。

 その最たるものが、時間だ。

 ここにいると気付いてから、ずっと夕暮れだ。混乱して走って、歩き回って、何軒も家を回って。いくら夏は日が落ちるのが遅いといっても、もうとっくに夜になっていておかしくないだけの時間がたっているはずだ。なのに、ずっと同じ、夕暮れのままなのだ。

 壁に落ちた木の影も、道に伸びた自分の影も、ずっとそのままで……。


「時間が、進んでない?」


 空を仰ぐと、赤い夕日はいまだ山の稜線に落ちかかったままだった。いくら眺めていても雲は微動だにせず、太陽はその形を変えない。周囲に浮かんだ大小の雲を赤みがかった黄金色に染めたままで沈む気配を見せないその景色は、まるで絵画のようだった。

 ぞわりと一瞬で背筋が粟立つような感覚。


「俺の知ってる世界じゃない……」


 愕然とつぶやいた。

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