第6回

 早蕨神社前との名前が付いたバス停でバスを下り、さてどちらへ進めばいいかと辺りを見渡すと、すぐに早蕨神社と書かれた小さな白看板が目についた。看板には名前の下に矢印が描かれていて、矢印の先には山に分け入る石段があり、石段は小高い山の上へと続いているようだった。


 長い年月、どれだけの人がここを往復したのだろうか。黒ずみ、中央がすり減った石段を何十段と上がった先にある、これまた年代を感じさせる深みのある朱色の鳥居をくぐって境内へと入る。もう5時が近いせいか、境内は無人だった。山のどこかで鳴くヒヨドリの涼しやかな声がかすかに聞こえる。


 木々に囲まれた静謐な空間。ここに身を置くことで、憂喜は昼休みからずっと胸を縛っていた緊張の糸がほどけていくような、初めて肺の底から息を吸えるような安堵を感じて、大きく深呼吸をした。


「すみません」


 柱に絵馬を吊るし、六角形のおみくじ箱を2つ3つ台の上に置いた社務所で、店番のように座っていた巫女服姿の壮年の女性へと声をかける。

 厄払いの祈祷をしてもらいに来たと言う憂喜に、彼女は「本日のご祈祷は終了しています」と答えた。

 聞くと、当日祈祷の予約は午前9時から午後3時までらしい。そこをなんとかお願いできませんか、と食い下がる憂喜に、彼女は申し訳なさそうに「神主はもうご帰宅されました」と告げた。


「そうですか……」

 期待して来た分、失望が大きい。

「また明日来ていただければ——」

「明日も無理です。学校があるから」

「ご予約だけでしたらお受けできます。ご祈祷は週末もしていますから、土曜か日曜でご予約すればいいと思いますよ」


 その言葉に、土曜なんて4日も先じゃないかと言い返したくなったが、この女性にそれを言ってどうなるものでもない。

 そうですね、と応じて、彼女が開いた予約帳のページに名前を書いた。


「あら。厄年じゃありませんね」

 今気付いたという様子で女性が言う。

「厄年?」

 女性は「はい」と答えて、前厄、本厄、後厄とあるのだと丁寧に教えてくれた。

「男性なら60〜62、40〜42、23〜25です。17〜19は女性ですね」

 憂喜が勘違いして来たのではと考えているようだ。


 何と答えたものか。まさか霊につきまとわれているので祓ってもらいたいんです、とは言えない。本心だが、こちらの正気を疑われてしまう。

 憂喜は考えたもののこれというごまかしが思い浮かばず、「……そういうのじゃないんです」とだけ言った。


「厄年じゃないと、ご祈祷してもらえないんですか?」

「いえいえ。そんなことはないですよ」

「じゃあお願いします」



 それから憂喜は、当日の流れと初穂料についての説明を受けた。

 5,000円と聞いて、ほっとする。小遣いでなんとかなる金額だ。

(問題は、やっぱり日数だよなあ)

 4日か。

 あの少女を初めて視てから10日以上たつ。その間、何もなかったことを思えば4日くらい、大したことないようにも思えたが、少女の目的が自分であることに気付いた今、どうにも嫌な予感めいた感覚が払拭できない。

 普段なら1週間なんてあっという間に過ぎて、もう週末だとか考えるのに、今は到底そんな気持ちになれそうになかった。

 4日は長い。

 ため息が口をつく。



 厄払いを必要とする理由は分からないまでも、憂喜の反応から、そんな気落ちを感じ取ったか。

 女性は「お邪魔しました」と軽く会釈して立ち去りかけた憂喜を呼び止め、『早蕨神社御守護』と書かれた薄い小さな木の板、守札を差し出してきた。


「身に付けてください。ここの神様の御神霊おみたまうつっています。きっと、お守りくださいます」

「……ありがとうございます。

 えっと、おいくらですか?」

「ご祈祷の初穂料に含まれています。本当はご祈祷を受けた後にお渡しする物ですが、今お渡ししても問題はないでしょう」

 まだ支払いはしておらず、予約をしただけ。憂喜が当日来ない可能性だってある以上、問題のある行為なんじゃないかと思ったが。


 だからきっと、これはこの女性の思いやりなのだろう。

 憂喜はありがたく受け取って、それをズボンのポケットに入れた。


◆◆◆


 落胆から無意識に背を丸め、靴先を見ながら一段一段石段を下りる。


 思っていたようにいかなかったのは残念だけど、まあ、しかたない。いつまでもくよくよしたってどうにもならないし。斉藤たちに合流するか、と意識を切り替える。


「あいつら、どこいるんだ?」

 スマホを取り出し、斉藤の短縮を押そうとしたときだ。

 ちょうど山を抜けて、日没間近の黄色みが強まった道路へ一歩踏み出した瞬間、ぞわりと総毛立つ感覚がした。


 すぐ近くにあの少女がいるのが分かる。視えなくても気配を感じ取れる。人であるなら息づかいまでが聞こえそうな、すぐ近くから。

 ポケットの中の守札が痛いほど熱くなって弾けたように感じた一瞬。


 キイイイィィィン……と鼓膜が破れそうな耳鳴りが起きた。


 激痛に両耳を押さえ、思わず身を折った憂喜の真横に、突然のぞき込むような少女の顔が現れる。

 初めて見た少女の面は、3つの黒い穴が空いていた。

 土気色した肌の中、両目の位置に2つ、口元に1つ。


 まだ夜でないのに一切の光を吸い込んで漏らさない漆黒の闇色の眼窩の奥で、虫のような細長い何かが多足の付いた身をねじって這いずっている。口の闇は縦に長く、もごもご、ぐにぐにと動いて、話しかけているようにも視える。


「……やめろよ。

 分かんねえよ! いくら言ったって、聞こえないんだよ、俺は!」


 次の瞬間、少女はかんしゃくを起こしたように怒りの悲鳴を発した。


 憂喜は圧としてそれを感じ、たたきつけられた力にとっさに目をつぶる。開いた一瞬後には少女の姿は跡形もなく消え失せ、夕焼けに染まった道路に憂喜だけがぽつんと取り残されていた。


「なんだよこれ……」

 震える両手に視線を落とす。


 耳の痛みは消えていた。そんなもの、元からなかったようにきれいさっぱりと。もうどんな痛みだったかも分からないくらいに。

 だけど少女の怒り、いらだちを浴びせられたときの胸をわしづかみにされたような凍える寒さはまだ身の内にとどまっていた。


 涙があふれて止まらない。

 あれは絶望だった。

 恐怖と、悲しみと、激痛と。

 そして怒り。憎しみ。あざけり。


 さざめく嗤い。

 たたきつけられる害意。


 憂喜に聞く力がなくて幸いだった。もし聞こえていたならば、彼はその場から一歩も動けなくなってしまっていただろうから。

 今でさえ、震えが止まらないでいるのに。

「大丈夫だ……何でもない……どこも何ともなってない……俺は無事だ……」

 しがみつくようにわが身を抱きしめ、繰り返しつぶやく。そして、いつ落としたか覚えていない、道路脇の溝に落ちていたスマホを、震える手でどうにか拾い上げた。


 独りでいたくなかった。臓腑を冷たくしびれさせる不安感が激しく胃を収縮させ、吐きそうになってえづく。喉元にせり上がってきた温かな塊をぐっと押し戻し、涙目で短縮を押した。


『どうした?』


 耳に押し当てたスマホから聞こえる斉藤の声に意識を集中すると、現実感というぬくもりが少し戻ってきた気がした。

「……おまえら、今、どこ? 用事、終わったし、俺も、合流しようかな、って——」

 不安を締め出すように、憂喜はことさらに声を明るくして言った。

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