第2話 幻影
「ぬおっ!」
不快極まりないアラーム音に反応し、思わず叫ぶ。
その瞬間、脳裏に昨夜の出来事が蘇った。
――ババア! ババアはどこだ!
慌てて辺りを見渡す。
「……」
引っ越したばかりの、まだ馴染の薄い部屋。
ラックの上のノートパソコン、まだ整理してない段ボールの山。
昨日と同じだ。何も変わってない。
安堵のため息を吐き、僕は首筋を流れる汗を
昨日僕にまたがっていた、白装束のババア。
胸に当てられた手は冷たくて、まるで冷凍室から出した魚のようだった。
そして口から放たれた、生臭く熱い息。
振り下ろされた鎌。
「そうだ鎌!」
僕は慌てて洗面台に走り、シャツを脱ぎ捨て鏡を見た。
何か、何かされたんじゃない?
傷とか、呪いの刻印とか。
何度も何度も鏡を見つめ、異常がないか確認する。
そして何もないと分かると蛇口をひねり、そのまま顔を洗った。
「はっ……ははっ……」
タオルで顔を拭きながら、僕はいつの間にか笑っていた。
ただの夢、だったんだ。
怖いって何だろう。
テレビでよく、「恐怖の心霊動画」の特集をやっている。
子供の頃は本当に怖かった。
観た日はトイレにも行けなくなった。
それがなぜなのか、ずっと考えていた。
どうして見たこともないものに、そんなに怯えるのかと。
ある時、妹が言った。
例えば地面に、血痕があるとする。
でも、血そのものは別に怖くない。自分の中にも流れてるものだから。
怖いのは、どうしてそこに血の跡があるのか、それが分からないことだ。
誰の血なのかが分からないことなんだと。
なるほどね。名言だ。
だから人は、幽霊を怖がるんだ。
なぜなら未知のものだから。
目的も、彼らがどういう存在なのかも知らないから。
もし、幽霊を科学的に解明出来たとしたら。
きっと人は、幽霊を怖がらなくなるんだろう。そんな風に思った。
年齢を重ねていく内に、心霊写真や心霊動画が作りものだと理解した。
幽霊なんている訳がない。
死者が迷うのなら、この世界は幽霊で溢れかえっている筈だ。
今までどれだけの人間が死んでると思ってるんだ。
それよりも今、僕にとって怖いものは他にある。
成長すると共に、自分の中で大きくなったもの。
人だ。
ナイフを手に、無差別に人を殺す殺人鬼。
金品を巻き上げようとする強盗。
それらはかつて、自分をいじめてきた級友たちの存在を思い出させた。
自分にとって怖いもの。
それは幽霊なんかじゃなく、狂気に笑みを浮かべる「人」そのものなんだ。
そう思った時から、僕は別の意味で暗がりを恐れるようになった。
そしてもう一つ。
今の僕が恐れるもの。
それは会社をクビになること。住む場所を失うことだ。
いじめの経験は想像以上に僕を苦しめ、おかげで高校は中退、25歳になった今に至るまで、僕は部屋に引きこもる生活を続けていた。
しかし先日、見るに見かねた父さんに叩き出された。
100万の現金を渡されて。
それからが大変だった。
僕は100万を手に、まず住居の確保に奔走した。
幸い親戚の叔父さんの紹介で、敷金礼金なし、家賃3万のワンルームマンションに入ることが出来た。
こんなおいしい話ある?
そんな疑問が脳裏をよぎったが、迷ってる余裕もなかった。
住居が決まり、次は仕事を探すことになった。
しかしこれも有難いことに、幸運が幸運を呼んだのか、近くの工場で働けることになった。
工場に勤務してるのは、父さんより高齢の人ばかり。
面接で、「これまでの経歴なんて関係ない。若いってだけ十分だ。若さは何よりの財産なんだから、頑張ってみなさい」そう社長に励まされ、少し照れくさくなった。
嬉しかった。
住む場所も、働く場所も手に入れた。
父さんからもらったお金も、まだ残ってる。
ここから僕は、新しい人生を始めるんだ。
この場所を守るんだ、そう思った。
エレベーターから降り、早足でエントランスを歩く僕に、管理人さんが声をかけてきた。
「おはようございます」
「あ、管理人さん、おはようございます」
「少しは落ち着きましたか」
マンションに越して10日。この初老の管理人さんには色々と世話になっている。
電気などの手続きや近所のコンビニ、病院や飯屋も親切に教えてくれた。この人のおかげで、知り合いがいなくて不安だった僕が、どれだけ安心しただろうか。
「はい、少しは落ち着いたと思います」
「何かあったら、いつでもおっしゃってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
「みなさんには挨拶、出来ましたか?」
「あ、そうだ……言われた通り、下の部屋と同じ階の方にご挨拶してるんですけど、まだお隣さんにだけ出来てないんです。いつ行っても留守で」
「ああ、お隣ね……あそこは留守が多いですからね。顔を見ることがあったらお伝えしておきますよ」
「ありがとうございます。じゃ、いってきます」
「はい、気をつけて」
僕は管理人さんに頭を下げ、自転車置き場に向かった。
自転車で会社までは15分。朝の肌寒い風をきって走るのは気持ちよかった。新しい生活を始めた、そう思えるこの時間が僕は好きだった。
新生活に胸躍らせる僕の中から、昨日夢に見た老婆はいつの間にか消えていた。
今日はいるだろうか。
夕方。粗品を持った僕は、隣の部屋のインターホンを押した。
「今日も留守か……」
寝るまでに二度試みたが、どうやら今日も帰ってこないようだ。部屋に戻った僕はジャージに着替え、布団に横になった。
「……」
寝転がった僕は、ふと昨日の夢を思い出した。
鎌を持った老婆に殺されかけた夢。
バタバタしててすっかり忘れてた。
そう思うと、急に嫌な感覚に襲われてきた。口の中が妙に乾いた。
僕は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、それを一気に流し込んだ。そして再び布団に寝転がり、目を閉じた。
「……アホらしい……まあ、また出てきたら説教してやるけどね。許可もなしに夢に出るなって」
言いながら、強がってる自分を露骨に感じた。それを打ち消す為に電気を消し、布団を頭からかぶった。
「……」
嫌な感覚に目が覚めた。胸が苦しい。
この感覚、覚えがある……そう思いながら、僕はゆっくりと目を開けた。
あ……
視線の先に、あのババアがいた。
生臭い匂い。臭くて鼻が曲がりそうだ。
ババアが僕を見つめている。
右手には昨日と同じく、鎌が握られていた。
身動きひとつ取れない。
声も出なかった。
なんで。
これは夢、だよね?
そう思い、ババアの存在を打ち消そうとする。こんなくだらない夢、なんで二日も見ないといけないんだ。
消えろ! 今すぐ消えろ!
気持ちを強く持て!
僕は25歳なんだぞ!
こんな子供が見るような夢、気合いで打ち消してやる!
何度も自分に言い聞かせ、夢を終わらそうとする。
しかしそう考えれば考える程、ババアが幻影ではなく、リアルなんだと感じた。
生臭く熱い息、したたり落ちる
――これは夢じゃない!
涙が溢れる。
僕の中に、恐怖の二文字が深く強く刻まれていく。
混乱し、錯乱し。
恐怖し
老婆は歯の抜けた口を異様に歪ませ、笑った。
手にした鎌を、大きく大きく振りかざす。
助けてえええええええっ!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます