第32話






捨ててしまえ。



思考を、想いを、私という人格さえも

ーー何もかもを。



そうして私は、意思を持たない人形になるの。



彼のためだけに存在する〝もの〟に。



そうすれば、きっと楽になれる。



この苦しみからも、解放される。



未来永劫、彼の〝もの〟になれる。



捨てられたっていい、拒絶されたっていい。






私が彼のものであること。



その事実は今や私の存在意義だ。



私の見つけた、私に残された、たった一つの救いだ。



部屋へと近づいてくる足音。



その音だけで、誰か分かってしまう。



ぎゅっと手を握り締めた。





ーー大丈夫、大丈夫。




激しく鳴り打つ鼓動が煩い。



変な汗がダラダラと流れる。






ーー大丈夫、大丈夫。



何度も何度も自分に言い聞かせた。





今日こそは大丈夫。



今日こそは〝普通〟にできる。



以前のように、〝普通〟に。



何も無かったように〝普通〟に。







消えろ。



消えてしまえば。



それを邪魔する邪念なんて消えろ。



消すんだ、消してしまうんだ。






落ち着け。


落ち着け。





今日こそは、彼の顔を見よう。



彼の目を見よう。






その目がどんなに冷たくても、無に染まっていても、何も感じないように慣れるんだ。





そのために耐えて耐えて耐えて、慣れてしまえーー。










必死に自分を騙そうとした。



必死に自分に暗示をかけようとした。







彼の側にいるために、



彼のものになるために、



自分を捨てようとした。








それなのにーー。




彼に触れられた瞬間、



彼から漂ういつもとは違う〝甘い〟匂いに気付いた瞬間に、








大きな音を立てて〝何かが〟壊れる音がした。










再現不可能なほどに、バラバラに崩れた落ちた〝それ〟







ガラスが割れるように粉々になった〝それ〟




〝それ〟はきっと、私の想いだ。



気付くまいと押し殺した、私の〝想い〟









ーー私の、彼への〝想い〟




ほつれかかった糸が、





辛うじて繋ぎとめていた糸が、






引き千切れるように、





プツンと音がすると同時に、





私の意識はそこで途切れた。



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