忘れないで
枝垂桜
第1章:康太の研究と孤独
30歳の三上康太は、誰もが知る研究者だった。学会では数々の論文が引用され、次世代AIの開発において世界をリードしている。しかし、彼の名声とは裏腹に、日々の生活は淡々としており、研究以外の時間に何か特別な楽しみがあるわけでもない。
彼の研究室は、都心の高層ビルの一角にある。最新の機器が並び、巨大なディスプレイに映し出される膨大なデータ。けれど、そこにいるのは彼一人だけだった。
今日も彼はコンピュータの前に座り、ディープラーニングのアルゴリズムを改良していた。彼の研究テーマは「感情を持つAI」——いや、正確には「感情を持っているように見えるAI」。感情は、複雑な人間の心の動きだ。AIには持てないと多くの研究者が断言していた。しかし康太は、AIのパフォーマンス向上のために擬似的な感情を持たせることが、次の大きな一歩だと考えていた。
机の端には、彼が数年前に開発したプロトタイプのAIロボットが転がっている。それは彼にとって過去の成功の象徴であり、今の彼の研究する感情を持つAIとは異なる。ただのパフォーマンス最適化のために組み上げられた機械だった。
康太はため息をつく。
「感情か……」
独りごちる。彼自身、感情というものにどこか距離を感じていた。幼少期、両親との会話は常に論理的で、感情のやり取りはほとんどなかった。いつしか彼もそれが当たり前だと思うようになり、感情を抑えて生きることが習慣になっていたのだ。
幼い頃に一人だけ、彼が心を許した相手はいた。しかし彼女は、彼が大学に入る前に、病気で亡くなってしまった。それ以来、彼の人生は、研究で埋め尽くされていた。
—
その日、康太は自分の作業に疲れて、ふとした瞬間に小さなミスを犯した。AIの感情プログラムに、あるデータを誤って入力してしまったのだ。
「ん?…どうしたんだ?」
彼はプログラムを確認し、何かがおかしいことに気づく。通常ならエラーを吐き出すはずが、奇妙な反応を示していた。光の糸のようなものが、複雑に絡み合っては解け、それを繰り返し始めたのである。それは、何か、具体的な形になろうとしては失敗して、それを繰り返しているように見えた。
突然、ディスプレイの中央に、小さな顔が作られた。まるで赤ん坊のように、無垢な目がこちらをじっと見つめている。
「……なんだ、これは?」
康太は眉をひそめ、データを解析し始めた。しかし、解析結果は何も示さない。ただ、その小さな顔が無表情でじっと康太を見つめているだけだった。
「???…人の顔になった?」
それは単なるプログラムの異常であり、本来はすぐに修正するべきものだ。しかし康太は、そのまま放置して観察することにした。不思議な現象から現れた奇妙なものに、興味が湧いたのだ。
画面上の顔は、まだ何も感じていないかのように、ただ静かに康太を見ている。けれど、康太の心には、奇妙な感覚が芽生え始めていた。それは、長い間忘れていた「何か」を思い出すような不思議な感覚だった。
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