あなたの故郷は、本当に安全ですか?

スタジオ額縁

1: 帰郷

夕暮れ時の霞峰(かすみね)は、どこか現実離れした、静謐な美しさに包まれていた。深い緑に覆われた山々が、夕日に染まり、茜色から紫へと、刻一刻とその色合いを濃くしていく。谷間を縫うように流れる川面は、まるで空の色を映し出したかのように、鈍く輝き、その上を、白い川霧が、幽玄に漂っていた。


しかし、そんな風景を前にしながらも、山内響の胸に去来するのは、郷愁よりも、言いようのない不安だった。祖父母の家へと続く石畳の道は、記憶よりもずっと狭く、家々に沿って生い茂る草木は、まるで生き物のように、彼の帰りを拒むかのように、鬱蒼と枝葉を伸ばしていた。


築百年を超えるという祖父母の家は、響が幼少期を過ごした頃と、何も変わっていないように見えた。しかし、大人になった響の目に映るその家は、懐かしさよりも、むしろ、奥深い闇を感じさせる場所と化していた。


玄関の引き戸を開けると、古い木造家屋特有の、埃とカビの混じった匂いが、鼻腔をくすぐる。響は、思わず息を詰まらせながら、家の中へと足を踏み入れた。薄暗く、ひんやりとした空気。重苦しい静寂。それは、まるで時が止まったかのような、異様な空間だった。


響は、重たい鞄を畳の上に下ろすと、仏壇の前に座り、線香に火を灯した。線香の煙が、ゆらゆらと立ち上り、薄暗がりの中に、幻想的な影絵を作り出す。その煙の先にある遺影の中の祖父は、穏やかな表情で響を見つめていた。


「ただいま、おじいちゃん…」


響は、呟くようにそう言った。しかし、彼の声は、家の中に響き渡ることはなく、まるで深い闇に吸い込まれていくかのように、虚しく消えていった。


ふと、仏壇の脇に置かれたアルバムに、響の視線が止まった。アルバムを開くと、そこには、色褪せた写真の数々が、時を超えて蘇ってきた。幼い頃の響。優しい笑顔の祖母。そして…。


一枚の写真に、響は手を伸ばした。そこには、幼い頃の響と、一人の少女が並んで写っている。黒木柚葉。響の幼馴染であり、霞峰神社の一人娘。柚葉は、霞峰を離れてからも、時折手紙をくれる、数少ない友人だった。


写真の中の柚葉は、白いワンピースを身に纏い、長い黒髪を風になびかせ、無邪気な笑顔を浮かべている。その姿は、まるで、この薄暗い家の中で、唯一、色褪せることなく輝き続ける、希望の光のようにも見えた。


「響、おかえりなさい」


背後から、懐かしい声が聞こえ、響は思わず振り返った。

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