君との透明な時間
花岡 柊
第1話 イントロ
ぼんやりしてしまうなんて、私らしくない。仕事中は気を張り、常に緊張感を持って取り組んできた。自分のミスはもちろんのこと、部下のミスにも気を配り注意していたはずだった。なのに、二十六歳を迎える今日という日に限って部下のケアレスミスを見逃すなんて、本当にどうかしている。
肩よりも伸びてきた一つ結びにした髪の毛が、気持ちを代弁するように走るリズムに合わせて振動と焦りに揺れていた。終業時間に当たる夕方ともなれば、化粧崩れは著しい。こんな状況では、鼻の周りなどはテカテカと光ってみっともないだろう。けれど、それをハンカチで押さえる余裕はない。
大通りは、とても混んでいた。漸く捕まえたタクシーの後部座席に乗り込んで、焦りに汗が滲んでくる。バッグの中には、新たに急いで入力し直し仕上げた見積書が息を潜めて収まっていた。
得意先からクレームの連絡がきたのは、定時を過ぎた時だった。後輩の真美ちゃんが書く数字については、何度か注意をしてきた。誰が見ても見間違うことのない、しっかりとした数字を書くこと。社会人としては、当然のことだ。しかし、言ったその日は気を付けてくれるのだけれど、翌日になるとものの見事に元に戻るという特技を持つ真美ちゃんに、日々同じ注意をすることに疲れていたのもあった。それにしたって、メモ書きで渡された「7」と「9」の数字を見間違えるなんて。確認を取らなかったのは、明らかに私のミスだ。
真美ちゃんの書く数字は、7の短い棒が長い棒にくっ付いていて、しかも角がなく丸いものだから、つい9と見間違えてしまうのだ。数字はとても大事だ。ほんの僅かにずれているだけで、大事になり兼ねない。初めて彼女の書く数字を見た時に、みんながみんな眉間にしわを寄せた。真美ちゃん自身は暢気な性格をしているせいで、みんなの尖った視線をものともせず。「すみませーん」や「あれぇ。ちゃんと書いたつもりなんですけどぉ」などと、可愛らしく対応している。しかし、暢気なところが災いしてか、度々ダメ出しをされているにもかかわらず、入社してから二年が経った今も直りきらずにいた。それで仕事が続けられているのは、専務の娘という特権を持っているからということが大きいけれど、そのせいで周囲から嫌われているかと言えばそんなことはなく。愛らしく、明るく、憎めない性格をしているおかげか、寧ろ社内では友達も多い。なんて羨ましい。
そんな彼女から渡された数字の7をまんまと9に見間違えて、私は見積もりを出してしまったのだ。
夕方六時過ぎ。先方の担当者から当初の金額と違うと連絡が来て、慌てて確認した私の血の気が一瞬で引いたのは言うまでもない。いくらお得意様だとは言え、信用というものは大事だ。一つのミスで、築き上げてきたものがあっという間に崩れ去るなんてよくあることなのだから。
そういうわけで、私は今かなり焦った状況でタクシーの後部座席で目の前の渋滞を睨みつけている。因みに、7なのか9なのか見分けのつかない数字を書いた張本人は、営業先からそのまま直帰で連絡がつかない。多分、仕事終わりの大好きなショッピングにでも夢中で、私からの着信に気づいていないのだろう。彼女の中で日々のショッピングは定型業務なのだ。パパから貰ったクレジットカードなるものが、彼女のショッピング欲を満たしてくれているらしい。二度目だが言わせて欲しい。なんて羨ましい。
「進みませんね」
焦りを滲ませて運転手に話しかけると、僅かに困ったような視線がバックミラー越しに見えた。運転手は、少し考えた後に迂回しましょうか? と提案してきた。迂回路があるなら、初めからそうして欲しかったという思いは口にできず、早口でお願いしますと促した。距離的には遠くなるが、渋滞で動かない時間を考慮しても、そっちの方が速いというのだから二つ返事だ。お得意様を待たせるわけにはいかない、何でもいいからとにかく急いでほしい。
しかし、タクシー運転手の言葉に従ったのが運の尽き。迂回をして、再び大きな通りに出た先の、更に先にある合流地点で、私の乗るタクシーは初心者ドライバーの運転する車に追突されてしまった。相手のドライバーはアクセルとブレーキを間違えたかのように、本線を走るこのタクシーに勢いよく突っ込んできたのだ。
「あっ……」という運転手の焦った声に反応して、バックミラー越しの視線を辿った。若葉マークが速度も緩めず突っ込んでくる瞬間を、静止画でも見るようにスローモーションで眺めることなど、この先二度とないだろう。というか、二度と見たくはない
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君との透明な時間 花岡 柊 @hiiragi9
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