史上最低の小説

岡本圭地

第1話 … 高知へGO!


 展望レストランには、耳触りの良い穏やかなジャズが流れていた。


 心地良いリズムとメロディに、耳を傾ける久美子。


 ふと彼女は、細い指先でワイングラスを持ち上げた。



 店内の様々な光を反射する赤ワインは、まるでルビーのよう。


 魅惑の輝きに、久美子は頬杖をつき、しばし見惚れた。


 そして、もてあそぶ様に数回グラスを揺らすと、彼女はそっと目を閉じた。



 やがてグラスの縁が、美麗な唇に触れた瞬間。


 赤い宝石は、久美子の中へと溶けていく。



 その様子を見て、直人はナイフとフォークを静かに置いた。


 そう、直人の不安は杞憂に終わ





 ——ビリビリビリッ!





「なっ、何するんだよ!」


「何するんだよじゃねぇよ! 何だ、このクソつまらない小説は!」


「まだ冒頭の数行しか、読んでないじゃないか!」


「もう十分だよ! 文章がくどい! さっさとワイン飲めよ、久美子!」




 ……なんて奴だ。


 信じられない。


 なんでこんな嫌な奴が、僕の友達なんだろう。




 僕の名前は、岡島圭太。


 小説家の卵だ。


 そして今、僕の大事な小説ノートをビリビリに引き裂いた男が、川田和也だ。



 彼とは幼稚園の頃から、ずっと一緒だ。


 その関係性は、頼れる兄と、それを慕う弟のようだった。


 いつも小柄で臆病な僕が、自信に満ちた和也の後ろに隠れていた。




 だが、それは小学校までの話。


 僕達はもう高校三年生だ。


 今は、対等に話をする間柄になっている。


 とはいえ、和也の僕に対する上から目線は、ずっと続いてるのだが……。




「そもそも、飯食ってるシーンから始まるとか、つまらない小説の典型じゃねえかよ」


 和也の批評は続く。


 小説なんて、ほとんど読んだ事がないくせに。


 あぁ、せっかくの昼休みも、和也のせいで気分が悪い。



 だいたい僕の机の上に、腰を下ろしている態度が気に入らない。


 何様だ。


 僕は苛立ちから、和也に反論する。




「……何でだよ。食事のシーンから始まる小説なんて、よくあるじゃないか。男女の距離感、関係性、周りの雰囲気を、少しずつ文章から読み取っていくのが、小説らしくて……」


「そんな事言ってるから、個性のない、面白みのない綺麗にまとまっただけの文章になるんだよ。だいたい、訳の分からない比喩表現は何だよ。赤ワインが宝石? 何だよそれ、歌の歌詞じゃないんだからよ!」



「いや、そういうのはあった方がいいんだよ。小説を読む人は、そういうのに美学を感じるんだよ」


「何だよ美学って。あとよ、美麗とか杞憂とか、そんな言葉、日常会話で使わないだろ。お前、自分を頭良く見せたいのか?」



「別に、そんなつもりじゃ……」


「あのなぁ、作者が東大卒だろうが、ポンコツ中学中退だろうが、読者はどうでもいいんだよ。エンタメ小説なら、サクサク読めて面白おかしいものを書けよ!」




 ……ダメだ。


 和也には、何を言っても無駄だ。


 ああ言えばこう言う、イチ言えば十になって返ってくる。


 僕が諦めて沈黙を決め込むと、和也は溜め息をついて、黒板の上の時計を眺めた。



 四月の風が優しくカーテンを揺らすと、和也はポケットから駄菓子のスルメを取り出し、クチャクチャと食べ始めた。


 イカ臭い。




 教室には、窓際に座る僕達の他に、後方に三人の女子が集まっていた。


 三銃士だ。


 三銃士というのは、和也が勝手に言い始めた名前だ。


 それぞれに、あだ名もある。



 一人は、太陽の光を浴びた事が無いほど白い肌をした、出っ歯の死神。


 もう一人は、太陽の光だけを浴びて生きてきたような、色黒の原始人。


 そしてボスは、椅子が壊れそうなほど太った、天然パーマの横綱。



 そんな三銃士を一瞥した和也は、より一層深い溜め息をついた。


 イカ臭い。




「つまんねえな……」


「これが日常だよ。そうそう面白い事なんて、ないよ」


 僕がそう言うと、和也は脱力して、だらしなく仰け反った。



「あぁ、マジつまんねえ。校内を素っ裸で走り回ろうかな。けっこう刺激的じゃね?」


「……刺激的ではあるね。でもそれは、僕がいない時にやってくれよ。騒がしくなりそうだから」


 和也が死人のような顔で、また深い溜め息をついた。


 イカ臭い。




 すると数秒後、そうだ! と和也が叫んだ。


 何か思い付いたようだ。


 さっきまで死んでいた顔に、生気が宿っている。



「おい、圭太! 何処か遠くへ行こうぜ! ヒッチハイクで!」


「えっ?」


「小説に活かせるじゃん! どうせ、しょうもない話しか思いつかないんだったら、旅先で起こる色んな出来事を、ノンフィクションで書いてみようぜ!」




 ……なるほど、その発想は無かった。


 確かに、面白いかも知れない。


 しかし、高校生の僕達が、ヒッチハイクなんかして大丈夫だろうか?



「怖くないかな? 知らない人の車に乗ったりして」


「大丈夫だって。運転手がヤバそうな奴だったら、やっぱりやめるって、断れば良いしよ」


「うーん……」


 まあ女性ならともかく、僕達は男二人だ。


 とくに和也は体も大きく、喧嘩もめっぽう強い。


 いざとなったら頼れる男だ。




「……分かった」


「よしっ! 決まりだな! 来月のゴールデンウイークに決行な!」


「でも、どこで降ろされるか分からないし、いざとなったら、東京まで帰ってこれるくらいのお金は持っていくからね」


「オッケ、オッケ」



 こうして僕達は来月、ヒッチハイクで、あての無い旅に出る事になった。


 こんな旅行は初めてだ。


 僕は不安と期待を胸に、カーテンの隙間からのぞく青空を見つめた。






 ◇ ◇ ◇






 ——五月、その日が訪れた。


 僕達は、朝早くからバスを乗り継ぎ、高速道路の入り口付近までやって来た。


 ここなら、長距離移動をする車が多いからだ。




 親には、和也と四泊の旅行をすると言ってある。


 それに伴い、ホテルに泊まる際の同意書も書いてもらった。


 和也も同じだ。



 ただ、ヒッチハイクで、あての無い旅をする事は言っていない。


 もちろん、それは親が心配するからだ。


 とりあえず大阪あたりに行く、と曖昧に伝えた。



 そして、ヒッチハイクだが、それは意外とすぐに成功した。


 和也が親指を立てていると、白いミニバンが停まってくれたのだ。



 車には運転する男性が、一人だけ。


 四十歳くらいだろうか。


 僕達は礼を告げると、後部座席に乗り込んだ。



 男性は、青木と名乗った。


「君ら学生さん?」


「はい、大学生です」


 青木さんの問いに、和也がサラリと嘘をつく。


 まあ高校生と言うよりは良いかもしれないと、僕は黙っていた。



 ヒッチハイクで、あての無い旅をしていると伝えると、青木さんは嬉しそうな顔で何度も頷いた。


「いいねえ、行き先も決めずにヒッチハイクで旅とかさ。青春って感じで。そういうのは、若いうちしか出来ないからさ。はっはっは」


 青木さんは、ヒッチハイカーを乗せてくれるだけあって、陽気で外向的な性格のようだ。




 しばらくして、青木さんがルームミラー越しに、こちらを見てくる。


「あ、だけど俺、かなり遠い場所まで行くんだけどさ。大丈夫かい? 途中で降ろそうか?」


「どこまで行くんですか?」と和也。


「高知県だよ」


「……高知県!」



 驚いた和也が、大きな声を出した。


 そして、僕の耳元に顔を近づけ、小声で話しかけてくる。


(おい圭太、高知ってどこだっけ? 九州か?)


(何言ってるんだよ、四国だよ。坂本龍馬で有名な県だよ)



(おおっ、坂本龍馬か。よく知らないけど坂本龍馬って、凄い奴なんだろ? 行ってみようぜ)


 適当な奴だなぁと思いつつも、どうせ乗りかかった舟だ。




 高知か。


 面白いかもしれない。




 僕は和也に「いいよ」と頷いた。


 何か小説に活かせれば良いのだけれど。


「じゃあ高知まで、お願いしまーす!」



 和也が快活な声で言うと、ルームミラーに映る青木さんの眉が、吊り上がった。


「えっ、高知まで? かなり遠いよ。着くのは夜になるけど」


「いや、お願いします。前から高知には、行ってみたかったんです!」



 また和也が適当な事を言ってる。


 高知の場所も、知らなかったくせに。



「まあ、旅は道連れって言うからな。はっはっは。長い旅になるな。よろしくな」


 それから僕達は、たっぷり十時間、車に揺られる事になる。


 ちなみに青木さんは、今乗っている車を地元・高知の友達に、譲渡するらしい。


 そのため、車で向かっているとの事だった。





 道中、青木さんは高知の事を、沢山教えてくれた。


 とにかく、高知は食べ物が美味しいところで、鰹のタタキは絶品だと。


 夏には、本場よさこい祭りがあり、全国から沢山の踊り子が集まるらしい。


 また高知県民は酒好きで、大らかな人が多く、喋る土佐弁は癖があって面白いなど、本当に色んな話をしてくれた。



 途中でガソリンを給油すると、僕達は買い込んだ弁当を食べた。


 そして夜八時過ぎ、遂に高知駅へと到着する。


 僕達は何度も礼を言って、青木さんの車を見送った。




「いやあ、青木さんって本当に良い人だったな、圭太」


「そうだね。気さくだったし」


「おおっ、見ろよ! 路面電車だぜ!」



 和也の指差す方に顔を向けると、一両編成の路面電車が見えた。


 車のすぐ隣を走っている。


 僕は思わず、わあっと、感嘆の声を漏らした。


 東京では、まず見ない光景だった。



 その後、僕達はネット予約していたホテルで、一泊するのだった。






 ——朝、ホテルで朝食を済ませた僕達は、高知の観光地を巡る事にした。



 だが僕は、和也と二人きりで旅をした事に、後悔を覚えた。


 和也の、小学生のような、悪ふざけのせいだ。



 はりまや橋という小さな赤い橋では、川へ落とされそうになったし、高知城では狭い部屋に閉じ込められた。


 バスで向かった桂浜という海岸では、犬のフンを見つけては、僕に投げつけてくるのだ。



 特に酷かったのは、高知名物の鰹のタタキを食べようと、二人で入ったレストランでの出来事だ。


 少し目を離した隙に、鰹の切り身が、半分も減っているのだ。


 当然、犯人は目の前にいる、このクソ野郎だ。



 やはり問い詰めても、知らないの一点張り。


 僕は絶望の溜め息をついた。


 最悪だよ、こいつ。


 旅をして、ノンフィクション小説を書くのは名案だったが、こんな事なら一人旅で良かった。



 レストランを出ると、僕は気を取り直して、スマートフォンでホテルの予約をする。


 今日は出費を控えるため、宿泊費の安い、古いホテルを選んだ。






 ◇ ◇ ◇






 夜、九時を過ぎた頃だった。


 小腹が空いた僕達は、コンビニへと出かける事にした。



 ホテルの裏は、薄暗く湿っぽい路地。


 そこに、個人で経営しているような、小さなコンビニがあった。


 静かな店内に入ると、お店のおばさんが一人、レジにいた。


 こちらを、チラリと見る。



 一瞬、和也の姿を見失ったが、彼は駄菓子コーナーにいた。


 まさか、またスルメのお菓子を買うのだろうか。


 イカ臭いから、もう買わないでほしい。




「しかし、あれだな……」


 スルメのお菓子を手にした和也が、背後にいた僕に話しかけてくる。


「なに?」


「ノンフィクションの小説を書くのが、今回の旅の目的だったけど、これだと普通に観光しただけだな」


「うん。やっぱり、変わった事が起こらないとね。ノンフィクションは難しいね」



「そうだな。なにか事件でも起こらないと、面白くもなんともないな」


「事件?」



「そうだよ。例えば、今ここに包丁を持った、コンビニ強盗が現れるとか。それを俺達が、激闘の末、とっ捕まえるとかさ」


「でもそんな事、あるわけ……」




 ——金を出せっ!




 男の野太い声が響いた。


 僕達がレジの方に目を向けると、ニット帽にマスクとサングラスをした男がいた。


 手には、出刃包丁が握られている。



 僕は、驚きと呆れで、ポカンと口を開いた。


 呆れというのは、今まさに、コンビニ強盗の話をしていたからだ。




 こんな事が、あるのだろうか?


 まるで、漫画か小説だ。


 強盗が、五メートルほど離れた僕達の方に、顔を向ける。



「お前ら、そこにおれや! 大人しくしちょけよ!」


 強盗の激しい土佐弁に、僕達は動けなくなった。



 しかし和也は、なぜか嬉しそうにしていた。


 小声で、僕に話しかけてくる。



(おい圭太。面白くなってきたな……)


(いや、面白くないよ)



(とっ捕まえようぜ)


(だめだよ、やめた方がいいよ。コンビニ強盗って、かなり追いつめられた人がするんだよ。何されるか、分かったもんじゃないよ)



(大丈夫だって。俺に任せろよ……)



「おんしゃーら、何をボソボソ、話しゆうがなや! 後ろ向いちょけや! 余計な事せられんぞ!」


 強盗の怒鳴り声に、僕は怖気付いた。




 強盗は再び、レジのおばさんに顔を向ける。


 だが、おばさんはお金を出す素振りも見せず、強気な目で、強盗に向かって大きな声を出した。


「あんた、やめや! 警察、呼ぶぞね! はよう、いに!」


 なんと、おばさんは、強固な態度を示したのだ。



 憤慨した強盗は、おばさんのパーマ頭を荒々しく掴む。


 そして、包丁をおばさんの首に突きつけ「うるさいわや、はようせえや!」と怒鳴った。



 強気なおばさんも、首元に包丁を突きつけられたら、堪らない。


 悔しさと、憎しみの入り混じった表情で、仕方なくレジを開けた。



 男は素早く手を突っ込こむ。


 クシャッと札を握りしめると、ポケットに押し込んだ。


 長居は無用とばかりに、男は素早く出入り口に向かった。


 すると、大きな影が強盗に飛びかかった。



 和也だ!



 ドスンッ!


 強盗の背中に飛びつき、押し倒す。


 強盗の持っていた包丁が、カランと転がった。




「この野郎!」と和也は、強盗のサングラスやマスクを剥ぎ取った。


 強盗は白髪の多い、六十歳くらいの男だった。



「兄ちゃん、やるやんか!」


 おばさんは和也を褒めると、外へ飛び出し、大声で叫んだ。



「誰か来とうせ! はよう警察呼んでぇ!」


 僕が外を見ていると「おばちゃん、どういたで?」と、近所のおじさん達が、集まってきた。



 僕は再び、和也と強盗に目を向けた。


 和也は倒れた強盗の上に、馬乗りになっていた。


 やはり、和也は強い。





 しかし、ここで強盗の思わぬ反撃。


 シューと音がしたかと思えば、和也が「目が! 目がぁぁぁ!」と、顔を押さえて苦しみ出した。


 強盗は立ち上がり、膝をついた無抵抗の和也を蹴り倒す。



 僕は一瞬、強盗がスプレーの様な物を持っている事に気付いた。


 そうか!


 痴漢撃退スプレーみたいな物を、和也の顔に噴射したんだ。


 さすがの和也でも、これは堪らないだろう。



 さらに強盗は、包丁を拾い上げると、倒れている和也の首に刃先を向ける。


 そして僕を、ギロリと睨んだ。



 その瞬間、僕は全身の毛が逆立つほど、恐怖を覚えた。


 足の裏が地面に張り付いたように、一歩も動けなくなってしまったのだ。




 強盗は、荒い息づかいと共に、僕を脅してくる。


「おいチビ! 逃げたよったら、こいつ刺すきにゃあ!」


 やばい、どうしよう……。






つづく……




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