無魂の幽霊
暇骨
第1章 冷蔵庫の幽霊
第1話 空腹
今年の夏はあまりにも暑い。
いや、9月はもう暦の上では夏ではないのだろうが。
びったりと背中に張り付いたスーツのジャケットを疎ましく思いながら、
相良の人生には空白がある。
相良には妻と息子がいたはずだ。はずだというのは妻と息子がいたと言う記録はあっても、それについての記憶がすっぽり抜け落ちている。
♢♢♢
遡ること3年前。
当時医師であった相良は■■県の崖の上にある展望台から転落したという。
当時は大騒ぎになったらしい。
女子アナウンサーが無表情で告げる。
男性医師、観光地の展望台屋上から転落。
重傷で搬送。
原因は不明。警察は事件と事故の両面で捜査を続けています―。
第一発見者とおぼしき、野球帽を被った壮年の男性が映り何か話していた。
キャスターやタレントたちが神妙な面持ちで、やれ医師の働き方がどうとか、日本の自殺率がどうとか口々に話す。
たくさんのチューブに繋がれ、病院のベッドでぼーっとニュースを見ながら、へぇ、そんな事件があったのか、自殺かな、観光地なら事故かもな、などと思っていると警官が病室に次々と押し入ってきて、蓋を開けみれば全て自分についての話だったというわけだ。
事故のあとの自分の記憶は曖昧なものだった。
自分の名前は覚えていた。(おそらく、まちがいなく「
ただ、肝心の部分が全く思い出せない。
なぜあの日、遠くはなれた■■県の展望台なんかにいたのか。
なぜ、そこから転落したのか。
そして、妻と息子のことだ。
なにも、思い出せない。
自分に妻と息子がいると分かったのは、強面の警官が家族と連絡が取れるかと聞いてきたからだ。
家族?とすっとんきょうな声をあげた私をじっと見据えて警官が言った。
「ええ、奥さんと息子さん。8年前にご結婚なさってますよね?自宅はもぬけの殻でしたけど。今は別居などされていらっしゃる?」
大きな事故や衝撃のあとは記憶がなくなることはなにもフィクションの世界のことだけではないらしい。
医師が真面目な顔で言う。
明日思い出すかもしれないし、一生思い出さないかもしれないと。
映画や小説でよく聞く台詞だ。
自分が聞くことになるなんてな。
そうですか、相良は力なく答えた。
声を出すだけで身体中が痛い。
崖の上から落ちてよく生きていられたなと、他人事のように考えることしかできなかった。
しかし、警察にとって問題だったのは、妻と息子を私が覚えていなかったことだけではなかった。
2人がどこにもいないというのだ。
強面の警官(スガワラさんというらしいが)が、住民票を身動きできない私の目の前に突きつけて言った。
「書類上はいてはりますね。奥さんと息子さん。やけど所在が分からんのですわ。ご近所付き合いもあんまりなさってなかったみたいですね。近隣住民は姿は見ても話したことは1度もないらしくてね。奥さんはともかく、息子さんも学校にはほとんどいってらっしゃなかったらしいじゃないですか。
奥さんもあなたもご両親、ご兄弟みんないてへん。ご両親はともに亡くなってますね。あなたにはお姉さんがいるみたいやけど、あなたが6歳の頃に亡くなってる。(私はここで、はい、それは覚えてます。と小さく答えた。)奥さんはひとりっ子やね。夫婦ともに友達関係も希薄。
貴方、本当に2人のこと何も覚えてないんですか?」
怪しまれている。それも確信に近い。
私がまるで妻と息子に、なにか危害を加えて、そして自分もその後を追おうとしたとでも言いたげな目だ。
体から延びるチューブは日に日に減りつつあったが、ぼーっとする頭ではなにも考えられなかった。
♢♢♢
カーン、カーン、カーン。
踏み切りの音で我に返る。
そうだ、約束は14時。熱を帯びた腕時計を見る。
13時27分。
急がねば。今は。
汗だくだったが、立ち止まってジャケットを脱ぐ暇も心の余裕もなかった。
『藤森メディカルビルディング』
3階建てのビルの入り口にはそう掲げられていた。
一年ほど前からカウンセリングに通っているのだ。
まさか自分がカウンセリングを受ける側になるなんてな、とここに来ると相良はいつもそう思った。
なにか思い出す手伝いになればと、医者時代の恩師が紹介してくれたのだ。
事故のあと普通に歩けるようになるのに一年かかり、勤めていた病院に戻れるわけもなく、今はたった1人の友人が経営するカフェで細々とキッチンの仕事をしている。友人には長年連絡していなかったが、なんとか連絡が取れたとき泣いて再会を喜んでくれた。なんでも頼れと言ってくれて、住む場所も一人暮らし向けアパートを紹介して貰った。本当に感謝しないとな。
ここ最近で気が付いたことだが、自分はどうやら料理が好きなようだ。
料理をしていると気持ちがまとまり、なんだか心が楽になる。
しかし、最近変なのだ。
そこまで話すと、目の前の藤森医師は相良のことをじっと見つめて言った。
「何が変なんです?」
藤森医師はまだ若く、切れ長の目に短く切り揃えられた短髪でまるで軍人のような冷たい印象の男だった。
しかし、丸眼鏡の奥の瞳には優しさがあり、良い精神科医なんだろうなと相良は一目見たときに感じた。
「今日でカウンセリングは6回目ですね。相良さん、前々回は料理に打ち込むのが精神安定剤になってるっておっしゃってて。調理のお仕事も始められたところでしたよね。最近は料理するのもお辛いですか?」
じっとカルテを見つめながら藤森医師が言う。
藤森医師には自分の身に起こったことを全て話してある。彼は自分が精神科医だった頃の恩師の息子でまだ出会って少ししか経っていないが、我ながらほんの少し心を許していた。
今頼れるのは彼しかいない。
変だとおもわれるかもしれませんがと、相良は重い口を開いた。藤森医師は身構える。
「最近、食欲がないのです。」
藤森医師はカルテから目を離し、切れ長の目を真ん丸にして拍子抜けした顔をした。
この人、こんな顔できるのか。
藤森医師は顔に浮かんだ動揺をかきけし、気を取り直してひとまずは事務的に言った。
「食欲減退は薬の副作用かもしれません。お料理をなさる時匂いなどで吐き気がしたりなどしますか?」
相良はうつむいて言う。
「食欲がないというのは少し違ったかもしれません。空腹を感じないのです。異常なほどです。どれだけ美味しそうなものを目にしても、匂いを嗅いでもなにも感じない。」
あー、それはですね、と話し出そうとする藤森医師を遮って続ける。
「2ヶ月。全く何も食べていません。
実を言うと食欲自体は事故のあとからずっと無かったのです。それでも、少しは食べなければと無理やり食べてきました。料理するのも好きみたいだし、仕事も苦じゃない。
ところが食べるのは、最近は全くダメなんです。
ただ単に食べる気になれない、身体が食べ物を受け付けないというのなら副作用かもしれません。
精神不安からきている可能性もありますよね。
ですが僕は、空腹を感じず、何も食べていないのにも関わらずすこぶる元気なんです。空腹という感情がすっかりなくなったみたいで。食べ物が食べ物に見えないのです。食べてはいけない、そんな気がするんです。怖いです。先生、これも薬の副作用ですか?」
藤森医師の目がまた真ん丸になった。
「2ヶ月なにも召し上がってない?そんな風には見えませんね。前回より顔色もよく見えます。何か食べてみようとはなされましたか?味覚異常はありますか?水分はお取りになられてますか?」
いつも冷静な声が少しだけ震えていた。
相良が続ける。
「3ヶ月くらい前に、夕飯を食べようとしたとき。食べてはいけない気がしたんです。子供がなにも考えずにしようとしたイタズラを大人に咄嗟に咎められたような、恥ずかしくて酷く申し訳ない気持ちになって。突然のことでした。味も普通ですが、食べていると誰がに叱責されているような、気がして。兎に角怖いのです。食事をするときに感じるような気持ちではありません。今は水とほんの少しのお酒しか口にできていません。喉だけはよく乾くんです。精神的なものなのでしょうか。」
藤森医師はじっとPCの画面を見つめながら処方薬を変更しているようだった。
「そうですね…。薬は少し変更してみましょうか。
気になるのは栄養状態ですが、点滴を念のため打ちましょう。一応、抗不安薬をお出しします。食前に飲んでみて、1度食事してみてください。それでも食事中不快感があれば無理に食べずにまたすぐ来てくれますか?お仕事は無理なさらず睡眠をなるべくとってくださいね。」
藤森医師は心から心配しているように見えた。
はい、すぐにまた食事してみます。
そのときはそう答えて帰路に着いたが、帰り道に食料を買って帰る気にもなれなかった。
なにも食べたくない。
誰もいない家にまっすぐに帰り、長い間ミネラルウォーターと酒しか入っていない冷蔵庫からビールを取り出して少し飲むと、そのままソファで眠りについてしまった。
ここのところやけに眠い。おっと、その事を先生に話すのを忘れていたな、なんて思いながら。
◆◆◆
「お父さん、お腹空いた。」
目の前には小学生くらいの男の子がいた。
顔はもやがかかっているようでよく見えない。
「■■■。何が食べたい?」
相良は優しく答える。
「ハンバーグ。」
男の子の声は気持ち弾んでいた。男の子は笑っているように見えた。
場面が変わった。
女の子がうずくまって泣いている。
花柄のワンピースから覗く腕には紫色のアザがあった。
「はるくんは、悪ないからね。」
彼女が言った。その声は少女にも老人にも女性にも男性にも聞こえるような奇っ怪なものだった。
その時、自分の足元が濡れるのを感じた。
漏らしたのか?
足元に目をやると自分も子供であることに気づく。
彼女が顔を上げた。彼女の顔は、かおは、
◆◆◆
目が覚めた。最悪の目覚めだ。
手にした缶ビールからは生ぬるい液体が漏れだし、下半身を濡らしていた。
アルコールの匂いが辺りに充満していた。
あの男の子は、息子なんだろうか。
シャワーを浴びながらぼんやり考える。
顔にもやがかかっていたのは自分が彼のことを忘れているからだろうか。
自分の大切な人なのだろうに、思い出せないなんてそんなことはあるんだろうか。
あのこは、死んでしまったのだろうか。
身支度を整えると乾いた喉を潤すために冷蔵庫を開ける。
ミネラルウォーターに手を伸ばしたそのときだった。
冷蔵庫に何かの気配を感じた。
昨日は空っぽだったはずだ。
なにも入っていなかった冷蔵庫の中にぽつんとそれはあった。
パックに入ったひき肉。
なんだ、これは。
こんなもの昨日買った覚えはない。
最近は自分で食べ物を買うことはまずないからだ。
咄嗟に手を伸ばしたそれにはスーパーではラベルが張られているであろう位置にボールペンで文字が書かれたフセンが張ってあった。
『お父さん、たべて、おもいだしてね』
これは、ひき肉の幽霊だ。
しかしそれを見て感じたのは恐怖ではなかった。
空腹だ。
これが、空腹というものだ、忘れていた。
胃の中がぎゅっと熱くなる。生唾を飲んだ。
とてつもなく食べたいという衝動にかられる。
腹がなる。冷や汗が出てきた。
なぜ。ただのひき肉だ。いや、普通のひき肉のはずがない。何の肉なんだ。おいしそうだ。
得体のしれないもののはずだ。いますぐたべたい。いったいなぜここに。誰が。
なのに。
無機物の幽霊なら、食べても平気だろうか?
気づけば私はフライパンを手にしていた。
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