【31:襲来】

 昼すこし前のことだった。

 太陽は高く上り、穏やかな秋の日差しが投げかけられている。

 風はあまりない。空には薄く刷いたような雲がかかり、ところどころに羊のようなもこもことした雲も浮かんでいる。

 地上にいるレフノールたちの緊張とは裏腹に、のどかとしかいいようのない秋の日の光景だった。


「中尉さん」


 レフノールの頭上から声が降ってくる。

 櫓に登っていたヴェロニカだった。

 登ってきてよ、と手で招いている。


 レフノールは近くにいたリディアに頷き、櫓の梯子に手を掛ける。

 革鎧の下に着込んだチェインメイルが、じゃらりと小さな音を立てた。

 ヴェロニカは用もなくレフノールを――依頼人を、呼びつけたりはしない。

 予定された補給部隊の来着や、そうでなくとも朗報であれば内容をその場で伝えている。

 つまり、何かよろしくないことが起きたのだ、とレフノールは察していた。


 ぎしぎしと梯子を軋ませながら、慎重に上る。

 周囲は、そして特に足下は、できるだけ見ないように、と目の前の梯子段に意識を集中させていた。

 幸いにというよりも当然と言うべきではあるのだが、ほどなくレフノールは櫓の上にたどり着いた。

 続いたリディアは、レフノールの半分に満たない時間で登りきる。鮮やかな身のこなしだった。


「何があった?」


 上まで来てしまえば、周囲をはばかる必要はない。


「あの、北側の林のあのあたりさあ」


 ヴェロニカが林の一画を指さす。

 言われた方を見てみても、レフノールには何が起きているのかわからない。

 リディアに視線を送ったものの、リディアも黙って首を振った。


「さっきから妙に鳥がうるさいんだよね。

 鳴き声もそうだし、羽音がさ。ばたばたしてる感じがする」


 レフノールとリディアは、もう一度顔を見合わせた。


「あれ、獣とかそういうのじゃ多分なくて――」


「妖魔か」


「確実とは言わないけどね。

 妖魔だとしたら、あと四半刻ないよ。小半刻かそこら」


「規模は?」


「妖魔なら最低100、たぶんもっと」


 どうする、という表情で、ヴェロニカがレフノールに視線を向けた。


「曹長!

 デュナン曹長おるか?」


 レフノールは迷うことなく声を張った。


「はっ!」


 普段の軽口とは違う空気を察したのか、ベイラムが大声で応じ、櫓を見上げて敬礼する。


「戦闘配置!

 輜重と工兵は総員ここへ集めろ、冒険者も呼べ!」


「はっ!

 輜重、工兵、集まれ!

 戦闘配置! 急げ!!」


 ばたばたと慌ただしく動きだした兵たちを見下ろして、レフノールはヴェロニカに視線を向ける。


「君はここで監視。

 何かあれば伝えてくれ、すぐに」


「了解」


 降りるぞ、とリディアに声をかけたレフノールは、櫓の手すりに手を掛けてヴェロニカを振り返った。


「君、うちで使ってるクロスボウは扱えそうか?」


「いけると思うよ、このあいだ訓練したやつだよね?」


「あとで射手をひとりと装填手を2人、ここに上げる」


「了解」


 ヴェロニカの返答に頷き、上ったときよりも幾分急いで、レフノールは梯子段を降りはじめた。


「なんていうか……中尉さんって、将校さんなんだねえ」


 場違いと言えばあまりに場違いな言葉に、リディアが小さく笑う気配がした。



※ ※ ※ ※ ※



「集まったな?」


 櫓の下、北側の防柵前に集まった兵たちを眺めまわして、レフノールは言った。


「妖魔と思われる集団が、本隊の進軍路とは別の方向からここに接近している。

 規模は不明だが、到来は小半刻内外と見られる。我々はここで防戦しなければならない」


 本来は前線に立つことを想定されていない後方要員の兵たちに、見えない動揺が走る。


「だが、」


 語気をほんの少しだけ強めて、レフノールが続ける。


「工兵諸君の奮闘により、我々には防御するに頼みとしうる陣地がある。

 また輜重では促成ではあるが、弩兵としての訓練を行ってきた。

 築城と訓練で流した汗は裏切らない――諸君、そうだな?」


 レフノール自身、己の風貌やその印象はよく承知している。

 大音声で兵を鼓舞して、それがうまくいくような性格でもない。


 ――だから俺は。


 背中に冷汗を流しながらであっても、平然とした顔を崩さずに事実だけを並べて、兵たちをその気にさせなければならない。


 行けるかもしれない、という空気が兵たちの間に流れたのを見計らって、レフノールは笑顔を作る。


「よろしい、では諸君、これから戦争だ」


 大きく息を吸い込み、腹の底から声を出した。


「防御のための配置を達する!

 輜重の第1・第2分隊は北側正面! 射手と装填はクロスボウと矢を準備しろ!」


「工兵第1・第2分隊も北側へ! 工兵第3分隊は後方警戒!」


「療兵各員は必要な装具を整えて拠点中央へ! 諸君の仕事は戦闘の後だ!。

 今はひとまず狼煙を上げろ! 本隊に、こちらへの襲撃を伝える!」


 次々と下される命令に、下士官たちが敬礼し、兵たちを従えて持ち場へと散る。


 レフノール自身は、うんざりとした気分でそれを眺めていた。

 自分が反対して止めきれなかった余計な戦争で、自分の指揮下にいる部下を危険に晒そうとしている。

 可能な限りの準備をしたとはいえ、そもそもこんな場所で望まない戦闘に巻き込まれようとしていること自体が、レフノールにとっては失敗だった。


 ――それに。


「少尉、曹長。あと君らも」


 近くへ、と手だけでリディアとベイラム、それに冒険者たちを招く。

 寄ってきた面々に、声を落として話しかける。

 兵たちに聞かせたい、あるいは聞かせるべき話とは思っていなかった。


「悪いが、ここを撤退することはできない。防戦一択だ。

 本隊が討伐に成功するかどうかは解らんが、いずれにしても損害や疲労が皆無とはいくまい。

 戻ってきたときにここが妖魔どもに占領されていたら――わかるだろ?」


 拠点を失い、渡河点を押さえられ、疲労や傷を癒す場所もない。

 そのような状況に至ったならば、本隊の方が全滅しかねない。


「まあ、追加報酬は弾んでもらうよ」


 アーデライドがあっさりとした口調で言った。

 仲間からも反対の声は出ない。


「ありがとう。

 それで済むなら、可能な限りは積み増す」


 小さく笑ってレフノールが応じた。

 レフノールが考えるところでは、冒険者にも将校にも、いちばん強く要求される資質というのは共通している。


 いざというときに逃げないこと。それだけだ。


 この連中はやはり当たりだったな、とレフノールは思う。


「ああそれからな、防戦一択とは言ったが、本当にどうしようもなくなったら少尉、君と曹長で残りを取りまとめて逃げろ。

 アーデライド、君らも自分だけならどうとでもなるだろう?

 手間をかけて悪いが、そうなったら撤退を援護してやってくれ」


「隊長は――?」


 強張った表情で尋ねるリディアに、レフノールはにやりと笑ってみせた。

 事実は事実で伝えなければいけないが、それを自分が恐れていることを知られたくなかった。


「言わせるなよ、恥ずかしい。

 俺はここの指揮官、責任者だろ。どうしようもなくなったら責任を取るのが仕事だ」


「そ――」


「悪いが命令だ、これは。

 どうしても嫌なら、少尉」


「――はい」


 軍規の話でも出てくるのか、と構えたリディアに、レフノールはもう一度笑いかける。


「そうならないように努力してくれ。

 だいたい、俺だってべつに死にたいわけじゃない。足掻くだけは足掻いてみるさ」


 自己評価では、先ほどのそれよりはいい笑顔ができたはずだった。

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