ひまわり

きっぴ-

  



 岡崎と崎と薫。二人は同じ会社の社員で、札幌のとある中堅IT関連会社の社員だ。

 岡崎はそのとある会社の決して2枚目とは言えないが、いわゆる新進気鋭の独身プログラマーというやつで、開発部に属していた。

 薫はそのとある会社に最近入社したばかりの数少ない女子社員の一人、ちょっと綺麗な女の子で、総務部に属していた。

 

 もちろん独身である。

 それは昼休み、会社の食堂での出来事である。

 まだ人の数少ない広い食堂。

 静かな食堂の古く丸い時計は12時を少し過ぎていた。


 その時、岡崎が食堂で一人、食事をしている薫に近づいたのだった。

 岡崎は総務にちょっと綺麗な女の子が最近入社したのは知っていた。

 そして誰から聞いたのか、彼自身にすらすでに記憶には無かったのだが、そのちょっと綺麗な女の子がいつも昼休み食堂で一人、寂し気にうどんを食べていることも彼はその時には知っていた。      


 そのちょっと綺麗な女の子である薫にその日、岡崎がさりげなく近づいただけだった。たださりげなく。

 その日、その時の彼に特別な下心はなかったはずだった。


「こんにちは」


 岡崎が手にしていたお盆の上の掛けうどんに眼を落としながら、そう言って笑顔で薫の向かいに腰を掛けると、彼女は最初そんな彼の笑顔に若干警戒心を見せ、ただ黙ったまま、素早く彼のネームプレートを見ただけだった。

 

 するとその名前は「開発課・岡崎」。それが社内で評判の新進気鋭のプログラマーだと、彼女はすぐに気が付いた。社内の少ない女の子達からよく聞く名前だった。(それほどいい噂でもなかったが・・・)。


「いつもうどんかい?」


 両手でお盆をもって俯むきながら、そう言った彼の頭の中はその時全く他の事、午前中に組んだプログラムに関する事で一杯だった。

 彼は落としていた眼をあげ、まっすぐと薫を見つめた。

 

 彼は社内の女子社員には、ひと通り声をかけていた。

 総務部といえば優子だった。

 何気なく声を掛けたら本気になられて振り切るのにひと苦労したことがあった。


 しかしそういった彼が、その後の言葉を失ってしまったのだ。

 岡崎はあげた自身の眼に映った薫が、思った以上に美しく見えたため、あろうことか尻込みしてしまったのだ。


 二人は少々気まずい空気に包まれた。


 その時の薫は清楚な紺のスーツに真っ白なワイシャツを着ていただけである。

 岡崎にはその清潔な美しさは、自分には手を付けられないような処女の気もした。

 そんな彼女に声をかけた自分が犯罪者の様にさえ思われた。

 しかし、真直ぐに彼を見つめていた薫のその黒くて大きな瞳は、間違いなく妖しげな女の色を宿し、長く肩に流した黒髪とその豊かな胸は、思わず桃色の輝く様な彼女の裸体を思わせ、彼の視線を一目で彼女に釘付けにしてしまっていた。


 そんな岡崎を見つめていた薫は、彼の眼が何を言っているのかすぐに気が付いた。 

 彼の視線の色がすべてを物語っていた。

 彼女はそんな男の視線には慣れていたはずだったが、なぜか彼のその時の優しい視線、言葉は、最近一人で淋しく過ごしていた彼女の心にまで優しく響き、彼女の胸中に少しの期待と少しの喜びと、それに少しの不安を呼び起こしていた。


「おいしいですよ・・・」


 しかし、彼女は自分の気持ちを押し隠すように、そっけなく言い、敢えて無関心を装ってしまった。(それが彼女の本心ではなかったことは明らかだった。)


「いつも、素敵なスーツを着ているね」


 この会社は女子社員の服装は自由だった。

 岡崎は出来立てのうどんに手を付けられずに、薫を見つめたまま苦しまぎれにようやく尋ねた。

 しかし彼女は固く口を閉ざし、流れ出て行きそうな自分の感情を堰き止めようと、何となく微笑んだだけだったが、そんな彼女の微笑みは、彼の心に妖しくさえもある紺色の薔薇の花に映り、一目でその紺色の薔薇に、彼の心は奪われてしまっていた。

 

 そろそろ会社の食堂は休憩時刻のピークにかかり、ざわついてきていた。

 集まった人の会話がまるでセミの鳴き声の様に入り乱れてくるようだった。

 同じ部署の女子社員の顔も少し見えてきた。

 この会社では数少ない女子社員が男性社員と二人きりで食事をしていたら、どんな 噂が立つか知れたものではなかった。

 

 相手が「新進気鋭のプログラマー」となると尚更である。

 早速、優子が横目を流していった。

 薫は何も言わずにもう一度なんとなく微笑むと、自分の中に湧き上がる切ない思いを振り切る様に立ち上がり、食べかけのうどんの載ったお盆を持って、何も言わずに振り返り、行ってしまった・・・。

 岡崎はそんな薫を、大きく開いた紺色の薔薇が散っていくような思いで見つめ、その彼女の後ろ姿の肩にかかる、輝く長い黒髪を見つめていた。

 

 

 その日、何時もと変わらない1日を終え、流れ出ていくような人波の中に混じりこんで会社から帰ろうとする時、薫はなんとなく何時もより憂鬱だった。

 何時もより・・・、というより何時もと違った憂鬱さだったのだ。

 そんな日の彼女は、いつもバスに乗る道を一人で歩いて帰るのだった。

 西の空に鳴きながら飛んでく黒い一匹のカラスを見つめながら・・・。

 その道は部屋までバスだと5分で着くのだが、歩くと30分以上はかかる道だ。


 もう、すでに日は暮れかけて、オレンジの夕日が彼女にはすこしまぶしかった。

 街の中のまだ灯かない街灯の影が、誰も歩かない黒い道に、斜めに寂しく伸びていた。その帰り道、バス通りの途中、薫はなんとなくその店に入っていった。

 真っ直ぐと帰りたくない日、少し憂鬱なそんな日、何時も寄りたくなるその店。


 バス通りに面している、一軒のそのボロボロの雑貨店。


 彼女が幼い頃からそこにあった、一軒のボロボロの雑貨店だった。

 雑貨店だと思っていた。

 彼女の幼い頃からボロボロだったので、彼女はその頃から少し気になっていた。


 最近になって何故か時々、ちょっと憂鬱なそんな日に足が向くようになったのだ。

 真っ直ぐと帰りたくない帰り道、ちょっと憂鬱なそんな帰り道に何となく薫は寄りたくなるのだった。そのボロボロの雑貨店・・・。

 じつは喫茶店だった。

 そしてその日、いつもの様に、その店の深い木目の古く重いドアを、彼女は音をたてないように静かに開けた。


 すると美しいママがカウンターの向こうから突然振り向き、澄んだ奥深い緑の瞳で薫を見つめた。


「いらっしゃいませ・・・」


 ママはまるで、客など予想していなかったかのような戸惑いようだった。

 薫は彼女を見つめると、そのママの美しさに戸惑ってしまった。

 そして『ボロボロ喫茶の澄んだ瞳の美人ママ・・・。』そんなことを思いながら、店に入っていった。


「あら、あなただったの・・・」


 そんな彼女に、少し拍子抜けしたようにママは言った。

 店の中には3つの円形テーブルがおしゃれに配置され、カウンターには3つの椅子が並んでいた。

 その一つのテーブルに何も言わずに着席しようとした薫は、その時、夕食をしていない事を、ふと思った。

 そして取り敢えずママに言った。


「コーヒーとセットで何かある?」


 席に着きながら薫は聞いた。

 彼女は、本当はコーヒーが苦手だった。

 彼女にとってコーヒーは、幼い頃飲んだオブラートに包まない風邪薬の様だった。

 要するにただ苦かった。

 しかしコーヒーを注文しないとママが怒るのだった。


「ごめんなさい食事は、今日はもう終わっちゃったの、飲み物しかないわ」


 その日、ママがそう言った。それを聞いて恐る恐る薫は言った。(コーヒーはもう注文したのだ・・・。)


「じゃあ、オレンジジュースでいいわ・・・」

「・・・・・」


 彼女はその美しい顔を少ししかめて薫を見つめた。そして言った。


「仕方がないわね・・・」


 ママは取り敢えず今日のところは許すことにした。

 薫は内心ホッとして席に着いたままあたりを見渡した。

 そこにはいろいろな下手くそな手作りアクセサリーのようなものが窓際に山のように並び、それ以上に下手くそな絵が3枚ほど店の壁に飾られていた。

 しかしそこにゴッホの絵が掛かっていたとしても、ピカソの絵が掛かっていたとしても、彼女は下手くそな絵だと思っただろう。


 しばらくすると、ママがオレンジジュースを持ってくると薫の座ったテーブルの前にそっと置いて、薫の表情を見つめながらママが優しく言った。


「何かあったの」


 そう言われても薫の目は、横に立っているママの顔を見ようとしなかった。


「何もないわよ」


 彼女はそう言って、テーブルの上のオレンジジュースを手に取ると、ママから目をそらせたままオレンジジュースにささっている白のストローを口にくわえた。

 ママは少し薄く口紅を塗った彼女の柔らかい唇の左を少し持ち上げて、ちょっと微笑んだようだった。


「その顔は仕事じゃなさそうね・・・」


 彼女は薫をいたわる様な優しい声でそう言うと、その透き通る様な美しい瞳で薫を見つめ、自分から目をそらせようとする薫の横に立ち、その瞳を追いかけた。そんな美しい天使の様なママの瞳は、薫の心の中に入り込んで来るようだった。


「自分の気持ちに素直にならなきゃだめよ」ママがそっと言った。

「・・・・・・」しかし薫は黙ったままだった。


 しばらくし、薫がオレンジジュースを半分残したまま店を出ると、秋の暮れかけた街中はすでに冷え込み、空は暗く、紫色に染まっていた。

少し歩き、バス通りから離れると、住宅街にはいつのまにか寂しげに街灯も灯いていた。薫は思わず街灯を見上げた。

そしてうつむくと、薄暗い夜道に映る自身の影を踏みつけながら薫は一人で歩き続けた。


 部屋に着くと、振り向いて声をかけようとした母に、何も言わずに、彼女は二階の自分の部屋に上がった。

 そして前の会社のボーナスで買った、通勤用に使っている白のグッチの鞄を床におもいっきり投げつけ、着替えもせずにベッドの上の天井を見つめて大の字におおきく横になった。


 喫茶店のママの言葉が脳裏に浮かんできた。


 少しの間、天井を見つめていたが、しばらくすると目を瞑った。

そして何も考えずに、しばらく目を瞑ったままベッドの上に手足を広げて転がっていた。そして彼女は決心した。

 

 次の朝、ベッドから起きあがった彼女は、思い切って赤いティーシャツに、学生の頃着ていた白いパーカーを箪笥から引っ張り出し、それを少しだらしなくはおり、入社してから初めてジーンズを履き、会社に出かけた。

 秋にしてはちょっと寒かった。

 そして会社に着くと、トイレに入ってしばらく鏡を見つめた彼女は、黒くて長い髪の毛をわざわざ後ろに思い切り縛り上げてニッコリ微笑んでみた。


 10時の休憩時間に彼が休憩室でコーヒーを飲むことを薫は知っていた。

 その時の薫の下心は見えていた。

 

 休憩時間、こっそりと彼女が休憩室をのぞくとやっぱり彼はコーヒーを飲んでいた。彼は一人だった。

 彼女は静かに休憩室に入った。


「こんにちは」


 薫が思いっきりの笑顔で彼に声をかけた。

 その時の岡崎の驚いた様子が薫は嬉しかった。

 一瞬、岡崎は彼女が誰か分からなかった。


 薫はその時、長い髪を後ろで結んでいた。ポニーテルだった。

 昨日と髪型が変わっている。その髪の毛の結い目を少し上に向け、表情は幼く、というより、その表情は、若々しく輝いて観えた。


 今度は彼女のその若さが、岡崎には印象的に映った。


「こんにちは、誰かと思った」

 

 彼がようやく答えた。


「ええ、休憩時間に時々来てたんですけど、初めてお見掛けしますね」


 彼女は嘘をついた。彼女は休憩室へ来たのは初めてだった。(彼女は時々嘘をついたが、彼女の場合、彼女自身それを嘘だと認識していないので性質が悪かった。)


「俺もよく来るんだ。ここのコーヒーは値段の割においしい、君もどうだい」


 岡崎はいつものように、その安くておいしいコーヒーを握りながら彼女に言った。


「そうですか。私は最近入社したばかりだから知らなかった」


 そして彼女はなぜなのか彼の言うままに、その安くておいしいコーヒーを買ってしまった。

 そして岡崎を見つめながら、おそるおそる一口飲んだ、というよりなめてみた。

 その時、彼女はその安くておいしいコーヒーが、口の中に入った瞬間に、化学変化を起こして、彼女のその小さな口の中で爆発しそうな気分になってしまった。


 そうなのだ、薫はコーヒーが苦手だったのだ。

 だから喫茶店に入るとなるべくオレンジジュースか紅茶を注文するようにしている。しかしそんな薫を見つめ、岡崎はニッコリと優しく微笑んでいた。

 そして薫は、残りのコーヒーが入ったカップを手にしたまま、ちょっぴりぎこちない心で彼を見つめながらも、たわいもない世間話をしながら、短い休憩時間をつぶして別れた。(彼女が残りのコーヒーをどうしたかは知らない。)


 しかし岡崎はそんな薫が開きかけた清潔な白い薔薇の花の様に見え、その日、その美しい薔薇の花の匂いを嗅いだような気分で自席へ戻っていった。

薫の作戦は成功したようだった。


 彼女は微笑しながら自席へ戻った。

そして翌日だった。岡崎は昼休みに食堂を一回り見渡してみると、やはり一人でうどんを食べていた薫を見つけて声をかけたのだった。


「調子はどうだい?」、

「ええ、岡崎さん」


 そして彼女は彼に大きな薔薇の様な笑顔を見せた。

 薫は今日も昼休の食堂で、岡崎の声が自分に掛かるとふんでいた。

 そして食事が終わった二人はやはり休憩室にいた。そして何となく気にかける様な周りの目を少し気にしながらも、二人だけの短い逢引きを楽しんだ。

 そして、その日以来それが二人の昼休みの毎日のデートコースとなったのだった。   


 ほとんど毎日の様に昼休みと10時の休憩時間に休憩室で、二人は社内デートを楽しむようになっていった。たまにそこへ総務部の加藤が、声を掛けることもあった。

 加藤は薫の部所のリーダーだ。


「薫ちゃん、例の書類のPDF編集は間に合うかい」


 加藤がそう言いながら二人に近付くと、


「あ、加藤さん、もう少し待ってください」


 薫は笑顔を見せた。が、この彼女の笑顔を見ると、男はほとんど彼女を許せるだろう。  


「加藤、このまえの飲み会、おかげで助かった」


 岡崎と加藤は同期の友人でもあった。 時々それに開発の岡崎の友人、吉田が加わることもあり、話が更に盛り上がり、薫もニコニコ笑顔を見せ会話を楽しんでいた。

 しかし本当は、薫は岡崎と二人でいたかった。


 ある日の休憩時間だった。岡崎と薫が休憩室で何時もの様に他愛のない世間話で話し込んでいた。岡崎はコーヒーを飲んでいたが、薫は飲んでいなかった。

 すると休憩時間の終了間際に人の居なくなった頃を見計らい、岡崎が遠慮勝ちに声を潜めて彼女に聞いてきたのだ。周りには誰もいなかった。

彼は薫の耳に顔を寄せて囁くように言った。


「薫、君、お酒はどうなんだ。そう、ワインなんか飲むの?」


 何時の頃からか彼は彼女をファーストネームで呼ぶようになっていた。

 彼女も声を潜めて答えた。周りには誰もいなかった。

 二人はまるで悪事をたくらむ犯罪者のようだった。


「あたしは結構いける口よ。ワインも大好き」彼女は岡崎の思いに気が付いていた。「素敵なバーがあるんだ。今度一緒に飲みに行ってみないか?」

「いいわね」薫は意味ありげに、少し妖し気な笑みを浮かべた。


 そして約束の日、少し迷いながらも彼の言ったその店をススキノの一角に見つけた彼女は、先に一人でその店にはいり、カウンターで一人、ワインを飲み始めていた。   

 約束の時間よりまだ少し早かったかもしれない。

 店は比較的すいていた。


 軽く素敵なジャズが流れていた。

 ワインを飲みながら彼女が待っていると、待ち合わせの6時に少し遅れて来た岡崎は、やや着古した黒のジャケットに、灰色のT―シャツ、黒のチノパンをはいていた。 


 薫は胸の大きく開いた濃い目の赤のワンピース、男をその気にさせるスタイルだった。

 岡崎はそんな彼女の横に何も言わずに静かに腰を掛けると、ワインを頼み、ポケットから軽くタバコを取り出し、何も言わずに火を点けた。

 すると彼女は何も言わずにグラスに軽く口を付け、二人はそっと黙り込んだ・・・。


 そんな居心地の良い沈黙の中で静かに時が流れ、一瞬の秋が過ぎ、いつの間にか冬は来ていた。

 北風も強まり始め、気温も急激に下がり始めていた。

が、岡崎と薫にとっては熱い一日が続いていた。


 窓から差し込む夕陽が、彼女の乱れた長い黒髪に輝いている。彼は薫の薄いピンクの柔らかな唇に、彼の唇を優しく当て、彼女の折れそうな背中にそっと腕を回すと、薫も硬い彼の背中に彼女のその細いしなやかな腕を回し、絡まり、一つになって柔らかなベットに埋もれ込んだ。

 岡崎は薫を見つめて言った。


「愛している・・・」


 その言葉は今までに2、3人の男が彼女を抱くたびに吐き出した言葉だった。

 しかし、今回のその彼の言葉は、彼女の体の中に激しい不思議な戦慄を呼び起こし、そして彼女は今までに感じたことのない、不思議な快楽の中に溺れていった。


 そろそろ二人は付き合い始めて1年以上は経っていた。

 そんな夏のある日、薫は少し憂鬱になっていた。

 最近、岡崎の様子が少しおかしいのだった。

 なんとなく自分から離れていこうとするのだった。

 自分と距離を取るようになったのだった。

 休み時間にも加藤や吉田と自分が話しているいつもの輪から離れて、新入社員の若い女の子に近づいていき、デートの回数も確実に少なくなってきた。

 連絡しても何となく迷惑そうな声を出し、メールの返答が来ないときさえある。


 そして二人きりでいる時は、彼がなんとなく何かを言おうとタイミングを見計らってる様子が、彼女には見えるのだった。

 薫の小さな心は不安に包まれ始めていた。

そんなある日の早朝、いつものお気に入りの白いグッチの鞄を持って、薫が一人で出かけていた。

 

 岡崎を呼び出そうかとも思ったが、彼は今日は確か休日出勤だったはずである。

諦めて帰ることにした。

 

 部屋に戻ると母が一人で何時ものTVを見ていたが、彼女はそんな母に挨拶もせずに、その姿を悲し気にちらりと見つめたまま自分の部屋へと上がっていった。

 そしてしばらくすると静かに、少し遠慮がちに携帯が鳴ったのだった。

 彼女が何も考えずに携帯を手に取り、目を落とすと岡崎からのメールだった。


「なぜこの時間にメールなのだろう、いつもなら電話がくる時間だ」


 そう思い薫の心の中の小さな不安は大きく膨らんでいった。

 内容を見てみると、


「大事な話がある。明日、会ってくれ」


 そして待ち合わせの店と時間が入力されていた。


『大事な話し』


 瞬時に薫の不安は頂点に達した。


 その約束の日だった、朝早く目を覚ました彼女は、元気がなかった。朝食も食べずに、まず、シャワーを浴びることにした。岡崎を想いながら、暑い夏の朝に浴びる冷たいシャワーは、いつもなら彼女の体に至極の喜びを感じさせたはずだった。

 

 しかしその日は違った。冷たいシャワーで不安な心は揺れた。バスルームから出ると洗面所で丹念に体をふき、裸のまま洗面所から出ると、クローゼットから、なぜか普段あまり着ない胸の広く開いた紫色のワンピースを取り出した。

 

 ピアスを耳にし、指にいつものリングをしてみた。しかし彼女はリングをやっぱり外した。そのリングは気に入らなかった。

 とにかく、真っ赤なブラに真っ赤なパンティーはき、クローゼットから取り出した普段あまり着ない紫のワンピースを着て出かけた。


 バス停に向かいバスを待っていると、バスはすぐに来た。そのバスに素早く乗り込もうとバスに片足をかけた時、突然後ろから声がした。


「このバスは真栄に止まりますか?」


 彼女が驚いて振り向くと80歳くらいの母親の様な老人だった。

彼女は答えた。


「知りません」


 彼女は嘘をついた。

 薫はそのバスが真栄に止まるのを知っていた。が、その時の彼女はその老人に関わりたくないと思ったのだ。

 そして彼女は自分一人でさっさとそのバスに乗りこんだ。

 老人は困ったようにバス停に立ち尽くしていた。


 待ち合わせの場所に行く前に、別の喫茶店に入り、時間になるのをじっと、何もせずにひたすら待ち続けた。長い、長い時間だった。

 不安を抱えて待つ時間はとても長い時間だった。


 そしてついにその時間がきたとき、彼女は待ち合わせの場所へと、ゆっくりと向かっていった。彼女は思っていた、この日がどんな日になるか、何が起こるか、彼が何を言うか。 彼女は彼を信じるしかなかった。

 彼女の瞳に一筋の涙がこぼれた。

 待ち合わせの場所にはめずらしく彼が先に来ていた。彼の上着のポケットが少し膨らんでいた。薫はそんな彼の横に立つと、彼女は静かに俯いた。


 少しの間、薄く沈黙が続いた。彼の心臓の鼓動が聞こえてきそうだった。

 新進気鋭のプログラマーと呼ばれている彼が、緊張している様だった。

その彼の緊張感が伝わって来たように、なぜか彼女の中の大きな不安感が大きな緊張感に変わり、不安で揺れていた薫の小さな心は、ドキドキと緊張感で震えはじめてきた。その震えは周期の短い物理的振動のように、彼女の小さな心を攻めたててきた。そして下を向いて待っていた。


 その時を待っていた。すると突然、彼が顔を上げ言った。


「薫、少し歩こう」


 彼女は返事をして小さくうなずいた。

 夜風に吹かれ小道を歩きながら、時々横目で彼を見つめた。

 彼は下を向いたり上を向いたりするだけで、何も言おうとしなかった。

 彼女は少々イラつき思っていた。


「こんなにいくじのない男とは思はなかった・・・」。


 すでに日は暮れて二人を包み込むような夜空が広がっていた。

 コオロギが泣いている。

 その時、札幌の碧い夕空に乱れるような光の華が咲き、街が薄く映し出された。

 その一瞬に小さな歓声が上がり、走り去るよう緑に染まった夏が過ぎ、そしてゆっくりと紅色に暮れた秋が訪れてくるようだった。


 彼は紫に染められた夜空を見つめていた。

 そんな彼を横目で見ながら、彼女も空を見上げ想った、「何を考えているのだろう・・・。」

 彼女の心は空っぽだった。

 二人の周りに赤とんぼが飛んでいた。

 その時だった、彼が突然言った。


「薫・・・」


 彼女は驚いて、思わず言った


「なに・・・」

「・・・・・・」


 一瞬の間があった。薫にはとても長い一瞬に感じた。


「結婚してくれ」


 彼女の心にはその時、何もなかった。何もかも忘れていた。


「えっ・・・」


 彼がもう一度言った。

 そして少し膨らんだ胸のポケットから小さい箱をそっと取り出した。


「俺と結婚してくれ」


 彼女のその眼に驚きと感激で涙があふれてきた。

 彼がポケットから取り出した小さな箱を、彼女のその小さな手に、その小さい箱をそっと握らせた。彼女が小さく言った。


「う、うん・・・」

 

 河辺に静かに紫色に染まった空に、広がるような音とともに花火が上がり、二人を金色に照らし出すようだった。

 花火の音で返事が聞こえたかどうか、彼女は心配した。

 薫のほほを涙が一筋流れた。


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ひまわり きっぴ- @YosieKazuki

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