言葉

「ありがとう、レオ」


 ツィチは一瞬、目を見開いた。ただ、直ぐに微笑みを浮かべて僕の手を握り返してきた。僕はツィチの手を握ったまま、三人に向かって深々と頭を下げた。


「みんな、少しでいいんだ、時間をくれないか?」


 彼女は一瞬戸惑ったが、僕に倣うように頭を下げた。逃避行を企んでいるわけではない。それは、ツィチの覚悟を冒涜することになる。ただ、語り合う時間が欲しかった。仲間同士ではなく、愛を告げ合った男女として。


「…………明日の朝、太陽が完全に昇るまでだ」


 ノルトが彼の王国の紋章である蛇が彫られた銀製の海中時計を取り出し、静かに答えた。太陽が昇ったらではなく、完全に昇るまでなのは彼の計らいなのだろう。頭を上げて、真剣な眼差しの彼と視線を交わす。暫くして、ノルトはその端正な顔を僅かに崩して微笑んだ。


「オル……」


 ノルトからの許しを得た後、今度は腕を組んで難しい顔をしているオルに声をかけた。だが、彼は口をきつく結んだまま何も答えず、それどころか、そっぽを向いてしまった。三人の間に、沈黙が流れる。


「勝手にしろ」


 顔を背けながら、オルがたった一言呟いた。その一言を口にするのに、オルの中でどれ程の葛藤があったのか僕には計り知れない。僕達は姿勢を正し、もう一度、オルに深々と頭を下げた。


「待ってッ」


 ペルの声が崖に木霊する。視線を向ければ、ペルが俯きながら立っていた。ツィチの顔を見ると、彼女は頷いた。ペルの思いに応えるのはツィチ一人、一人で受け止めなければならない。僕が手を離すと、ツィチはゆっくりと歩き、ペルの前に立つ。


「私たちを騙してたの?」


 重く、絞り出したようなペルの声が崖の上から落ちる。まるで、彼女の心を現しているようだった。当然だ。神官であるペルにとって、魔族は仇なす存在。触れるどころか、言葉を交わすことすら禁忌なのだ。ただ、ペルはツィチと言葉を交わす。それはきっと、神に仕える者としてではなく、親友としての問いかけなのだろう。


「ごめんなさい」


 ツィチは謝罪を口にする。しかし、ペルが求めていた答えではなかった。頭を激しく左右に振って、ペルが欲している答えを問い質す。


「謝罪の言葉が聞きたいんじゃない。私たちを騙して、陥れようとしていたの? 答えて?」


 ペルの心の底から絞り出した言葉。ペルの言葉を聞いて、僕の心も痛む。ペルの言う通りでだからだ。僕は赦した。赦したが、それでも黙っていた事実が無くなった訳ではないのだ。情けないが、頭の片隅に裏切られたという思いが今も胎動していた。


「魔王の私が……今まで隠してた私が今更言っても信用できないと思うけど、違う。みんなのことを、私は大切に……今も……思って……」


 ツィチの言葉が、次第に途切れ途切れになっていく。さらに、彼女の手が小刻みに震え出す。一瞬、ツィチの元へ駆け出そうと思ったが、拳を握り締めて堪える。


「私は魔族が赦せない」


 ペルの言葉を聞き、ツィチの体が大きく震えた。ただそれでも、彼女はペルから視線を外さない。


「魔族のせいで多くの悲劇が生まれた……」


 この旅路の中で救えなかった命、流した涙は数えきれない。優先されるのは、魔王の討伐。見捨てなければならない時もあった。その際は必ず、ペルは涙を流しながら天に祈りを捧げていた。


「……けれど、あなたの行いで救われた命を知っている、あなたの笑顔で救われた心を知っている、あなたが、あなたの知らないところで人々の生きる糧になっていることを私は知っている。私は、そんなツィチのことを今でも大切に思っている。かけがえのない友人を想うこの気持ちは、神に対する裏切りなのでしょうか……?」


 ペルの目から涙が零れる。ツィチのことを真っ直ぐに見つめながら、声を出さず、涙を拭う事もせず、ただただ涙を流すペル。


「ごめん、ごめんね、ペル……」


 これまで涙を流していなかったツィチの顔に、一筋の涙が伝う。それが呼び水になり、堰を切ったように涙が溢れる。二人は歩み寄らず、その場で涙を流し続けた。


「私にも、少し時間をいただけませんか?」


 空色が、橙、青、青紫の美しいグラデーションを生み出し始めた頃、泣き止んだペルが僕とツィチに懇願してきた。ペルにとっては、これが最後の願いになる。僕たちは悩むこともなく、その願いを聞き入れた。


「時間は取らせません」


 そう言って、僕たち二人を離れた場所へ移動させ、呼びに来るまで待つようにと言われた。そして三十分後、ペルが僕らを呼びに来た。何も聞かず、尋ねずに彼女の後ろについて行く。そして、崖に辿り着くと、僕は思わず目を見開いて言葉を失った。

 

 地面に突き刺した枝に掛けられた教会の紋章の旗、テーブルを改造した祭壇、切り倒された丸太をそのまま並べた椅子、色とりどりの花と淡く光る魔石で作られたウエディング・アイル。きっと第三者が見たら、粗末な出来だと言うだろう。だが、僕の心は暖かな感情で満たされていた。ツィチもそうだ。彼女の体温が上がっているのが手から伝わってくる。紋章の旗と祭壇にはノルトの拘りが、丸太の椅子にはオルの大雑把さが、ウエディング・アイルにはペルの細やかさが表れている。目の前の何物にも代え難い空間に見入っていると、ペルが申し訳なさを滲ませた笑みを浮かべながら声をかけてきた。


「ごめんなさい、これしか準備できなくて……。ただ、せっかく二人が愛を告げ合ったのですから、祝福させてください」


 こうして、僕らの挙式が行われることになった。


「レオ、これを」


 ツィチがテントの中で着替えている中、ノルトが僕に綺麗に畳まれた純白の布を差し出して来る。一目見て、それが何なのか分かった。かつて、“私の戦う理由”だとノルトが口にした物。彼が聖騎士としてではなく、王族として振る舞う際に羽織る国の紋章が刻まれたマントだった。


「……ありがとう」


 風になびく筈のマントが、重い。このマントはノルトの誇りそのものだ。その重みに恥じぬように心を引き締め、純白のマントを羽織る。


 準備が出来たのか、ペルが駆け足で戻ってきた。そして息を整え、神聖な空気を纏った彼女が祭壇の前に立つ。厳かな静寂に包まれる中、ツィチが姿を見せる。


 彼女の姿に見惚れてしまう。袖が切り落とされた、ペルの清白の祭服を着たツィチ。頭にはペルが摘んで作った花冠を被り、手にも色鮮やかな野花のブーケを握りしめている。祝福のファンファーレはない。ただ、木々の揺らぎ、鳥のさえずり、崖下から聞こえる水音が自然の調べを奏でていた。君は、一歩一歩踏み締めるようにウエディング・アイルを歩く。ベールボーイをノルトが、父親役をオルが担う。優雅な笑みを浮かべるノルトとは対照的に、異常なほど緊張した面持ちのオル。その様子を察しているのか、ツィチは愛おしそうに、そして幸せそうな顔をしている。そんな君と目が合う。


「ツィチ、綺麗だ……本当に綺麗だよ」


 嘘偽りのない言葉を贈る。君に愛を告げた後なのに、僕はまた君に恋に落ちたようだった。体が熱く、全身が脈打つ。死を間際に生を実感したことは何度となくあった。しかし、生を謳歌して生を実感するのは初めてだった。君がいるからだ。五感を研ぎ澄ましているのに、一つ一つがふやけたような心地良い感覚に包まれる。


「ありがとう、レオも素敵」


 頬を赤らめ、潤んだ瞳を揺らしながら微笑む。陽だまりのような暖かい笑顔。挫けそうになった時、君はいつも優しく微笑みかけてくれた。だから、僕はここまで来れたんだ。


「新郎レオ。あなたはここにいるツィチを妻として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」

「誓います」

「新婦ツィチ。あなたはここにいるレオを夫として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」

「誓います」


 口を閉ざしたままゆっくりと頷いたペルが、言葉を紡ぐ。


「指輪の交換を」


 ペルが差し出してきた指輪。この指輪は、旅路へ赴く前に王都の露店でツィチからねだられて僕が購入した指輪だった。高価な物ではない。昔、僕は見栄を張りたくて「もっと高いのでいいよ」と言ったことがある。しかし、君は毎回「これがいいの」と言って、あまり高価な物はねだらなかった。ただ、そのどれもを宝物のように大事にしてくれて、贈った僕の方が嬉しくなっていた。

 指輪を取り、ツィチの薬指にゆっくりとはめた。彼女は、はめられた指輪を愛おしそうに見つめる。君も僕の薬指に指輪をはめた。


「誓いのキスを」


 僕は君を見る。君は僕を見る。空は暮れ、太陽と夜が一時だけ交わることを赦される夢の刻トワイライト。僕はそっと唇を重ねた。ペル、ノルト、オルから祝福の拍手が贈られる。


 ――僕らは夫婦になった。






 僕とツィチが、三人と向かい合う。お別れだ。ツィチはまず、ノルトの前に立つ。彼女と向き合うノルトは、いつものように優雅な笑みを浮かべながら口を開く。


「ツィチ。君と共に戦えたこと、そして、友に成れたことを私は誇りに思う。この大戦を終えて祖国に帰還したならば、君を英雄として未来永劫語り継ぐことを私の名に……いや、私の魂において誓おう」

「ありがとう、ノルト」


 握手を交わしたツィチは、次にオルの前に立つ。だが、オルはそっぽを向いて彼女の事を見ようとしない。そんな彼に、ツィチは何も言わずに抱き着いた。


「抱き着いてねぇで、とっとと行け……」

「うん」

「……早く行けよ」

「うん」

「お前は魔族だ……」

「うん」

「……だけどよ、お前はいい女だ」

「うれしい、オルの御墨付きだね」


 ツィチの言葉を聞いて、オルは空を見上げて鼻を鳴らす。ツィチは、本当に嬉しそうに笑う。そして、静かにオルから離れると、最後にペルの前に立った。


「ツィチ!」


 ただ、ツィチが口を開くよりも前に、ペルが彼女に抱き着いた。その行動に、ツィチは驚いた表情をさせながらもしっかりとペルの事を受け止めた。ただ、躊躇いがあるのか、抱きしめることが出来きずに手が途中で止まってしまう。


「あなたは私の大切な友人です。これまでも、これから先もずっと」

「ペル、私……ごめんな――」

「もう、いいんです。それより、寂しいです」


 ペルが小さく頭を振って、穏やかな笑みを浮かべる。その顔を見たツィチは一瞬泣きそうな顔になるが、目と口をぎゅっと閉じた。そして満面の笑みを浮かべると、ペルのことを強く抱きしめた。


「ありがとう、ペル。大好き」

「私もです」


 暫くの間抱きしめ合ったツィチは、ゆっくりとペルから離れ、僕の横に並び立つ。彼女の顔は、どこか清々しさが感じられたい。そっと君の手を握ると、三人と向かい合う。「ツィチ」の名前を呟く。すると、僕らの体が光り出す。転移魔術の発動兆候だ。三人は、じっと僕らの事を見つめている。僕らも見つめ返す。やがて、体の重さが無くなったと思った瞬間、完全に光りに覆われ、三人の姿が見えなくなった。

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