そろそろ恋を始めてほしい
紺野かなた
母の日に花屋で働くもんじゃない
厄介な来客
客足がまばらな午後三時、花屋ではガラスケースに入れられ花たちの世話が行われていた。少年は花が入れられた瓶ごとガラスケースの外に置き、ガラスケースの掃除に取り掛かる。鏡には、四つん這いになって拭き掃除をしている、汗で前髪が額に引っ付いた少年が映る。
ガラスケースの掃除が終わり、今度は花の入った瓶の水を入れ替える。瓶に収まっていた花たちはその間、作業台に乗せられる。無防備に茎を晒された花たちを見ていると、花たちは、死んでいるように少年には思われた。根の部分を失い、さらし首になった花たちは水と栄養剤によって生きているように偽装されたに過ぎず、枯れ始めた花をにべもなく捨てられるように、もうこれ以上輝くことはない。それでも、これほどまで瓶の中の水が汚れているということは、まだ咲き続けようとしていて、生きようとしていることの証なのだろう。その死を目の前にして拒もうとする健気さは、少年の好きだった花の姿ではない。
一連の仕事こなして夕日が沈み始めた頃、暖簾を押し通すスーツが浮かんできた。
「ごめんください。おっ、そこの店員さん。」
男から指名されたことにより少年に緊張が走った。何せ少年にとって一人で接客しなければならない状況になるのは初めてであった。
下手な接客をしてしまったら店の評判を落としかねない。かといって、声をかけられたのに返事一つせず立ち去るのは店員としてあるまじき行為だ。だとすれば、店長を呼ぶ間に少し待ってもらうのがいいだろうか…。
少年は浮かんできたスーツのもとへ行くか行くまいか迷ったが、しばらく考えた後、店員である義務感に駆られて、スーツのもとへ向かうことにした。
「はい。何か御用でしょうか?」
するとスーツは、少年の顔を覗き見るように話し始めた。
「へぇ~。この花屋、男の子雇ったんだ。最近入ってきた子?」
少年は、店長が接客の時によく使っていた言葉遣いをマニュアルとした。
「はい。最近アルバイトを始めたんです。お花屋さんに男って、あんまりいないですよね。」
「君、今高校生?」
「いえ…、大学生です。」
スーツは傲慢に人を探るしぐさで、名札に目をやる。
「はぇ~。ササキ君って言うんだ。またどうして花屋でバイトなんかしようと思ったの?」
「花が好きでして…。」
少年は素直に白状した。しかし、どうやらスーツはそれ以上の答えを求めているような不満げな顔であった。
少年は咄嗟に、花が好きになった具体的なエピソードを必死になって考えたが、考えるほどに言葉が出なくなってしまっていた。
その姿を見かねたスーツは少年に救いの手を差し伸べた。
「そっかー。じゃあ、花束一つお願いしようかな。」
「は…い。僕なんかでいいんですか?」
スーツの勢いに押された少年は、できるはずのない無理な願いを聞き入れてしまった。ふさわしい花々を選ぶことも、結いて束ねることも、ましてや花々にスーツの求める意味を与えることも、汚れの目立たない制服を身にまとう少年にはできない。そんな少年の言葉のためらいに気づいたのか、スーツは少年に話しかける。
「いや、ササキくんが花好きだっていうからさ。あとさ、一つ言っとくけど、一人称、自分のこと僕じゃなくて私にしな。子供過ぎるよ。」
少年はなぜそんなことを指摘されなければいけないのかと思いつつも、一理あることを理由に素直に受け取った。
「わかりました…。」
しかし、少年が自分の非を認めても尚、スーツは不躾に少年の未熟さに突っかかった。
「あとそれも。“わかりました”じゃなくて、“かしこまりました”でしょ。」
「か、かしこまりました。花束はどちら様へのプレゼントですか。」
スーツは自身の少年に対する関心が一気に冷めているのを察知したようだった。そしてまず顔で傍点を付してから言葉を続ける。
「はぁ…。今日、ははのひ。それで大の大人。そんなこともわかんないか…。」
スーツは呆れかえって周囲の花たちを眺めた。そしておもむろに近くにあったピンク色の花を手に取って少年前に差し出し、尋ねた。
「じゃあ、この花の名前。知ってる?」
「ええっと…、バラですか?」
「いや全然違うよ。トルコギキョウでしょ。こんなものも知らないんだったら、花束任せられないよ。期待した僕がバカだったかな?」
もう少年にはどうにもすることができなかった。店員として店先に立っていては駄目であるように思えてしまった。
少年としても腑に落ちないところはある。店員に対して偉そうな態度をとるこのスーツに駄目出しされると素直さを失いそうになる。
二人の間にあるしばらくの沈黙を経て、少年の諦めを悟ったのかスーツが告げた。
「まぁいいや。店長呼んできて。」
「少しお待ちください。」
変な意地が出たのか、少年は忙しい走り方をして店長に謝りに行った。
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