第35話 椿芽 エピローグ
「みんな心配してたんだよ……?」
「それなのにこれはなんなのかな……?」
椿芽が笑顔を浮かべながらそう言った瞬間、俺は心の中で思わず「終わった……」とつぶやいた。いや、響が終わった、か。
展望台のテラスには不穏な空気が漂っている。朱音が響の近くに立っていて、さっきまで何があったのかは知らないけど――いや、知らなくてもこの状況だけでヤバいのは一目瞭然だ。
「つ……椿芽、いなくなった理由を言わせてくれ……!」
響が慌てた様子で弁解を試みるが、その声は完全に上擦っている。
「ふーん、いいよ」
椿芽はニッコリと笑ったまま、あっさりとした声で返す。だが、その笑顔はむしろ凍りつくような冷たさを帯びていた。
「一言も言わずいなくなった件と、電話に出なかった件と……」
彼女の視線が響を刺すように向けられる。その表情には笑顔の仮面が貼り付いているけど、俺から見ても分かる。あれはマズいヤツだ。
「それから、今この状況の件を……」
俺は響の顔を見た。真っ青だ。汗が額を伝い、視線は右往左往している。椿芽の問いに答えようとしているけど、どうにも言葉が出てこないみたいだ。
「わ、私が……みーくんを連れ出したんだ」
若狭さんが口を開いた瞬間、その場の空気が一変した。
「朱音ちゃんが……?」
椿芽は目を丸くし、予想外だったらしい若狭さんの言葉に驚いている。
「それに、みーくん……?」
その「みーくん」という聞き慣れない呼び名に、椿芽の顔が少し困惑を浮かべる。
「ああ……私の大切な幼なじみのみーくんが神野響だったんだ……」
若狭さんが静かにそう告げると、椿芽の眉がピクリと動いた。その瞬間、なんとも言えない緊張感が場を支配する。
「お、幼なじみ……」
椿芽の笑顔は崩れていない。いや、むしろニッコリと笑ったまま、けれどその目には何かが宿っていた。
「ひーくんと朱音ちゃんが……幼なじみ……」
「そうだ。幼稚園の時からのな」
「幼稚園……!?」
椿芽の声が震えた。その響きに、俺は彼女がこの事実をどう受け止めているのか、だいたい察した。
(響と幼なじみっていうのは、椿芽にとってかなり重要なアイデンティティだもんな……)
それが自分以外の、しかも自分よりも先に出会っていた相手がいたと知ったら――そりゃ、きついよな。
「久しぶりに会った時、もしかしてと思ったが、どうしても確証が得られなかった。でも――」
若狭さんは響を見つめながら、静かに微笑む。
「やはり神野響はあのみーくんだった……私にとって初恋の人だったから運命の再会だと思えた」
「グハァッ!!」
その瞬間、椿芽が音を立てて倒れ込む。
(椿芽、大丈夫か!?)
いや、大丈夫なわけがない。「幼なじみ」「初恋」「運命の再会」という三段コンボは、椿芽にとってクリティカルヒットだったに違いない。
「私にとって思い出のこの場所で、大切な初恋の人に勇気を出そうと思って今、告白をしていたんだ……」
「告……白…………」
椿芽の目が虚ろになり、完全にノックアウトされてしまった。
「いやいや! 告白する前にキスしようとしたじゃねーか!」
響が慌ててツッコむが、若狭さんはムッとした表情で言い返す。
「む、同意義だろう」
「同じじゃねーよ!!」
響が声を荒らげるが、若狭さんは全く意に介していない様子だ。
「それで、2人は……キスしたのか?」
俺は恐る恐る確認するように響と若狭さんに問いかけた。
「しようとしたが……阻まれた……」
若狭さんが少ししゅんとしながら答える。
「当たり前だろ! いきなりしようとしてきたら阻むに決まってるだろ!」
響がすかさずツッコミを入れる。
その会話を聞いていた椿芽はピクリピクリと肩を震わせる。
「なら、今からしよう……」
「しねーよ!!!」
若狭さんの天然すぎる発言に響が即ツッコむ。
2人のやり取りを聞いて、未遂で済んだことを確認し、俺は心底ホッとした。
(よかった……命の危険がまた襲ってくるのはごめんだよ……)
でも、俺がホッとする間もなく、さっきまで倒れ込んでいた椿芽が突然立ち上がり、スタスタと響に近づいていく。
「ど、どうした椿芽……!」
響が後ずさるが、椿芽の行動は止まらない。
「……!」
次の瞬間、椿芽は響の顔をグイッと引き寄せ、その唇にキスをした。
(いやあああああああ!!!!!)
俺の頭の中は絶叫だった。
「これで私が1本リードだね……朱音ちゃん」
椿芽は余裕の表情を浮かべながら若狭さんに言い放つ。
(やばい……絶対また死ぬやつだ……)
椿芽にキスされた響は固まり、若狭さんは「ぐぬぬ」と悔しそうに唇を噛む。そして、俺は何もできずに震えるだけ。
(痛いのは嫌だよ……)
「朱音ちゃん……ひーくんは渡さないよ」
椿芽が宣戦布告するように言い放つ。
(どう足掻いてもバッドエンドじゃん……これ……)
「まさか……椿芽、お前もみーくんが……」
若狭さんが驚いたような表情を浮かべる。
(ん……? )
「そうだよ……好きだよ!」
椿芽は力強く言い切った。
(え……あれ、何も起きない?)
俺は恐る恐る辺りを見渡すが、特に椿芽に何も変化は見受けられない……
(前回はあんなことになったのに……今回はどうして?)
「ちょっと待って、2人とも、これは――」
響が口を挟もうとするが、椿芽と若狭さんが同時にそれを遮る。
「ひーくんは黙ってて!!」
「みーくんは黙ってて!!」
「はい!!!!」
響は即座に声を上げて黙り込む。それを見て、俺も自然と肩をすくめた。
俺が頭を抱え込んでいる間にも、2人のヒートアップは止まらない。
「朱音ちゃんにはひーくん渡さないよ……」
「私も椿芽にみーくんは渡さない……」
「「例え大切な友達でも!!」」
「好きにしてくれ……」
俺が心の中で叫ぶ一方で、椿芽と若狭さんはバチバチと火花を散らし続ける。そして、そんな状況に響も諦めたようにため息をついていた。
その後、何か話し合いがあったのだろう。先ほどまでの緊迫感は嘘のようになくなり、椿芽と若狭さんは仲良くしているように見えた。
あの激しい戦いは何だったんだ――そんな思いを胸に抱えつつ、俺たちは疲れ果てたまま帰りの時間を迎える。集合場所に集まり、全員で帰りのバスに乗り込んだ。
バスが出発する直前、俺は少し抜け出して近くの自販機で飲み物を買うことにした。喉が渇いていたし、何よりちょっとだけ1人になりたかった。
「ねえ……」
不意に後ろから声をかけられる。
「ん……?」
振り返るとそこにはアリスが立っていた。
「ど、どうしたんだ?」
突然の接触に驚きつつ、苦手意識が顔に出ないように頑張って話しかける。
「いやーさっきね、クラスの子から聞いたんだ。響がいなくなって、探し回ってる人がいたって話をさ」
「そ、そうなのか……」
嫌な予感がする。
「それでね、展望台のデッキで、女の子と一緒にいたって噂も聞いたんだよね。悟、同じ班だったよね? 何か知ってる?」
「い、いや、俺は探し回ってた方だから……詳細はわからない……」
どうにか言葉を絞り出すが、アリスはじっとこちらを見つめてくる。
「嘘……ついてない……?」
その声には微かに冷たさが混じっていた。
「つ、ついてない! 断じてそんなことは!」
焦って否定する。冷や汗が背中を伝う。
「ふーん……まあいいか。帰ってから響に聞けばいいし」
「そ、それがいいと思う!」
とにかく、この場を切り抜けたい一心だった。
「あ、そうだそうだ」
アリスは何か思い出し俺に聞いてくる。
「ねえ……悟? 君は神様とか天使とか悪魔って信じる?」
「……!?」
突然の質問に思わず言葉を失う。
「い、いるかもしれないし、いないかもしれない……」
平静を装いながらも、声が震えるのが自分でも分かった。
「アリスはどうなんだ……?」
「んー、そうだなぁ……いると思うよ」
ニッコリと笑うアリス。だが、その笑顔にはどこか底知れないものを感じる。
「だって――私、悪魔だし♪」
「……え?」
アリスの一言に頭が真っ白になり、言葉を失った俺は、ただ彼女の後ろ姿を見送るしかなかった。
ゆっくりと自分の班が待つバスへ戻っていく彼女。俺は呆然とその場に立ち尽くし、何も考えられなかった。
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