第34話 修羅場


展望台のテラスで、朱音に迫られていた響。後からやって来た椿芽の問いかけに、彼は気まずそうに口をつぐんでいた。


(なんで……こんなことになったんだ……)


響は心の中でため息をつきながら、事の経緯を思い返そうとする。


(確か……)


先ほどまで、響は椿芽たちと一緒に動物エリアで餌やりをしたり、動物に触れたりしてそれなりに楽しんでいた。そんな中、たまたま目に入ったうさぎコーナーに足を向けた時のことだ。


1匹のうさぎが小さく跳ねているのを見つけ、響はその名前が書かれた札をじっと見つめた。


「みーくん……」


何の変哲もない、ありふれた名前。しかし、その名前が記憶のどこかを刺激し、響の頭にぼんやりとした懐かしさを呼び起こした。


(そういえば……俺のこと、そんな風に呼んでた奴がいた気がするな……)


その“誰か”についての詳細は曖昧だった。そいつが男だったのか女だったのかさえ思い出せない。ただ、黒髪だったことだけは妙に鮮明だった。


「どうかしたか……?」


突然、隣から声をかけられた。振り向くと、悟が少し首をかしげながら立っていた。


「……ん? ああ、こいつを見ていた」

響は札を指さしながら、少し気まずそうに答えた。


「うさぎだな」


「……ああ」

その素っ気ない返事に、響は少し肩をすくめる。そしてふと、思い出に引っ張られるように続けた。


「でさ、こいつの名前なんだけど」


「うん」


「みーくんって名前らしい」


「そうだな」


悟の返事はさらに素っ気なかった。当たり前だ。響が「みーくん」と言おうが「みーちゃん」と言おうが、ただの名前だ。


(いや、普通に考えて当然の反応だよな……)

そう自分に言い聞かせながら、響は言葉を継いだ。


「いや、昔、俺のことをみーくんって呼んでた奴がいたなって思い出してさ」


悟が一瞬、考えるように目を細める。そして、小さく苦笑した。


「神野の“か”でも響の“ひ”でもなく、“み”を選ぶとは。そいつ、なかなかのセンスだな」


「だよな……俺も、そこ選ぶか?って思ってたわ」


響は苦笑しながら相槌を打ったが、その時のことをぼんやりと思い出そうとしても、記憶は霞んでいた。ただ、“みーくん”と呼ぶその声は不思議なほど耳に残っている気がした。


 そんな話を悟としていると――



ガタン!!


「うわ!! どしたの、朱音ちゃん!」


「な、なんでもない! コケただけだ……」


「なかなかダイナミックにコケたな……」


椿芽たちがこちらに向かってくる途中、若狭が盛大に転んだらしい。


 (おいおい、大丈夫かよ……)

 響は若干心配しつつコケて倒れていた若狭に手を差し出す……


「 き、気にしゅるな……!」


「噛んでるぞ……」


「う、うるさい!」


若狭は恥ずかしそうに響の手を取って立ち上がり、ジャージについた土を払い落とす。


「まだアルパカとか羊とかもいるみたいだし、見て回ろうぜ」

 悟は場の空気を変えようと別の話題を振ってきた。



 その後、響たちはアルパカや羊などを見て回り、それぞれ思い思いに動物と触れ合っていた。


「悟はずっと犬のところにいるな……」

少し離れたところで、悟が犬のエリアから全く動こうとしない様子を見て、響は呆れ半分に呟く。よほどの犬好きなのか、ずっと犬たちを撫でたり話しかけたりしている。


その時、朱音が近づいてきて、響に声をかけた。


「神野、少しいいか?」


「どうかしたか……?」

朱音の真剣な表情に、響は思わず顔を向ける。


「いや、少し聞きたいことがあってだな……」


「お前が俺に……?」


「私がお前に聞きたいことがあったら何か問題でもあるのか?」

朱音の鋭い視線に、響はたじろぎながらすぐに言葉を返す。


「いや、ないです」


「ここだと……なんだ、ちょっと場所を移らないか?」


「ん、まあ別にいいぞ」

響は疑問を抱きながらも朱音に従い、彼女の後ろをついていく。動物エリアを抜けてさらに歩き続けるり


(まだ移動するのか……)

響は心の中でぼやきつつも、朱音が口を開く。


「お前とはなんだ、入学して以降いろいろあったからな……」


「なんだよ急に……」

響は戸惑いながら返事をする。朱音は少し思い返すように視線を落とし、続けた。


「委員決めの時のことも……委員会で助けてもらった時のことも……」


「そんなこともあったな……」


「トイレでの出来事も……」


「その出来事は思い返さなくてもよくね!?」

思いもよらない方向から飛んできた話題に、響は思わず声を荒げる。朱音は一瞬苦い顔をしながらも、何事もなかったかのように話を続けた。


「まあ……いろいろあって、その都度お前には助けてもらった……」


「困った時はお互い様だし……」


「昔……と言っても随分前の話になるけど、今と同じように私を助けてくれる男の子がいてな……」

朱音は懐かしむような表情で語り始めた。


「その子のあだ名がみーくんだったんだ……」


「……」

響はその言葉に黙り込む。


「その頃、かーくんって呼ばれてた男の子と、ひーちゃんって呼ばれてた女の子がいて、その男の子のみのところをあだ名にしてみーくんって呼ばれるようになったんだ……」


「へえ……」

朱音の話を聞きながら、響は自分が昔呼ばれていた「あだ名」との奇妙な一致に頭をひねる。


「なあ、神野……」


「な、なんだ」


「お前に見てもらいたいものがある……」

朱音はその場で立ち止まり、ポケットから小さなものを取り出して響に手渡す。


「キーホルダー?」

響が受け取って手元を見ると、それはクローバー型のキーホルダーだった。写真が収められており、小さな子供のツーショットが映っている。一人は幼い頃の朱音に間違いない。そしてもう一人の男の子は――


(昔の俺に似てる……)

いや、似ているというよりも、間違いなく自分だ。


「やはりか……」

朱音は響の反応を見て、確信したように呟いた。


「何が……?」


「お前が……みーくんだったんだな」

朱音は響の目をじっと見つめる。その瞳はうっすらと潤んでいるように見えた。


「いや……え……」

響は動揺し、言葉を詰まらせる。


「そうなんじゃないかと入学した時から思ってたんだ。でも、どうしても確信が持てなくて……それに、あのトイレでのこともあって余計聞きづらくなって……」


「待って、俺おぼえ……」


「会いたかった……」

響が言い終わる前に、朱音は一歩踏み出して彼を抱きしめた。


(え、え……?)

突然のことに響は頭の中が混乱し、何が起きているのか理解できない。

ポケットの中でスマホが振動する。


「……」

朱音は響のポケットからスマホを取り出すと、何の躊躇もなく自分のポケットにしまいこんだ。


「ちょっ……」


「今、この時を邪魔されたくない……」

朱音はそう言うと響の手を引っ張り、そのまま歩き始める。


「どこ行くんだよ!」


「いいから……!」

響が何を言おうと、朱音は振り返りもせず強引に彼を引っ張り続けた。


彼女は黙々と歩き続け、時折クラスメートらしき生徒たちがすれ違うが、朱音は一切気に留める様子もなく進む。その姿に響は戸惑いつつも従うしかなかった。しばらく歩くと、目の前にある建物が見えてくる。


「展望台……?」


「ああ……ここの上に行こう」

朱音は淡々とそう言うと、展望台の入口へ向かい、中へ入っていった。


彼女は階段をゆっくりと一段ずつ噛み締めるように登る。その後ろ姿を見つめながら、響は仕方なくその後を追った。


展望台の最上階に到着すると、開放的なテラスに眩い光が差し込んできた。響は思わず目を細める。徐々にその光に慣れ、視界を広げると、園全体が見渡せる素晴らしい景色が目の前に広がった。


「いい場所だろ……」


「若狭、ここに来たことあるのか……?」


「まあ、昔親とな……」

朱音は一瞬思い出すように下を向くが、すぐに顔を上げて響に目線を戻す。そして一歩踏み出し、彼に近づいた。


「そんなことよりも、私のことはその呼び方ではなく“あーちゃん”と呼べ」


「いや、さすがにいきなりは……」


「何故だ……?」


「周りも驚くだろうし、いきなりあだ名呼びは難しいだろ……せめて朱音で許してくれないか……?」


「……まあ、いいだろう」

少し不満げな表情を見せた朱音だったが、渋々納得した様子だった。それを見て響は、心の中でほっと胸をなでおろした。


「呼び方などどうでもいい……私はみーくんのことを思う気持ちは変わらない……」


「……!」

朱音の真っ直ぐな視線に、響は思わず息を呑む。


次の瞬間、朱音は響の肩に手を置き、背伸びするように顔を近づけてきた。


「……!?」

その動きに驚いた響は、とっさに手を伸ばして朱音の行動を遮った。


「さすがにいきなりは……」

響は困惑した様子でそう告げる。


しかし、次の瞬間――


「何してるの……二人とも……」


「つ、椿芽!?」


「椿芽!?」

入口から聞こえた声に、朱音と響は慌てて振り返る。そこには息を切らしながら立っている椿芽と、その後ろから顔を出している悟の姿があった。


椿芽はニコリと微笑んでいたが、その笑顔の裏にある冷たい空気が二人を貫くようだった。響は朱音との距離を咄嗟に開けたが、朱音は一瞬悲しそうな顔を浮かべた。


(この状況は……まずい……)

響の額には冷や汗が流れ始めていた。

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