海色の声援【試し読み版】
逢坂海荷
第1章 第1話
「待たせて悪いな。そろそろ行こうか」
リュックを背負った宮前智明が本の裏から榎田優斗の顔を覗く。物語のクライマックスで声を掛けられた榎田は歯痒い気持ちだったが、スマホを見るとゆっくりしている時間はなかった。
「うん。分かった」
寮の玄関でローファーに履き替え、駐輪場に向けて一歩外に出ると二人に夏の日差しが刺さる。
東浦大清水野球部の寮は、野球部員約六十名が寝泊まりしている。約十畳の部屋に、一年生は一部屋四名、二・三年生は一部屋二名で生活している。二・三年生が優遇されているのは上下関係が非常に厳しかった時代の遺産だと言う。現在においては、二年生は他の大学より半年早い東浦大の大学入試のため、三年生は他大の受験のためという勉強に集中させることが建前となっている。
寮を出てから五分が経ち、榎田と宮前の背中には汗がたんまりと溜まっていた。最近では珍しくなりつつある青々とした野球部の坊主頭がジリジリと焼かれている。
「暑すぎる」と言った榎田は長袖の袖を肘まで捲る。
「夏服はどうしたんだ?」
「今日の朝、物干し場に行ったら無かった」
「盗られたか」
野球部はよく物を紛失する。その原因の殆どが部員による窃盗だ。昨日失くしたアンダーシャツが次の日には違う奴が着ていたなんてことは日常茶飯事である。流石に野球道具を盗む選手はいないが、外で干した洗濯物については自分の手元に返ってくる保証はない。
「最悪だよ。新しいの買わないと」
逆に考えれば寮内には自分の服があるということだ。干している洗濯物からシャツを探せば見つかる可能性は高い。
しかし、他人の目がある中で他の人の洗濯物を物色するほど度胸が据わっていない榎田は、基本的に新調するようにしている。デカいくせに気が小さいと舐められているから盗まれているのだろう。それは榎田本人も自覚していた。
「でも、今日が終業式で良かったよ。九月までに新しいの買えばいいんだし」
「はあー、明日から夏休みとか憂鬱過ぎる」
「ずっと一日練習とかめんどいよね。学校があればいいのに」
横断歩道の信号が青になるのを待ちながら榎田が呟くと、宮前がニヤつきながら榎田の脇腹を指で突いた。
「ぴぇっ!」
「あはは!んだよその声」
「やめろよ。びっくりしたじゃないか」
「いやさ、なんかシけた顔だなって思ってさ」
「そう?」
「穂乃果に会えないから、だろ?」
宮前が言っているのは二年生のマドンナで同じクラスの篠田穂乃果のことだ。野球部の一年生に聞いても、三年生に聞いても、彼女とその容姿の良さはよく知られている。彼女のトレードマークである高めに結いたポニーテールが揺れると誰もが虜になってしまう。
そんな篠田穂乃果に、榎田も一年生の頃から惹かれてしまっている。
「お、おい。やめろよ」
榎田は周りを見渡し、クラスメートがいないことを確認する。
「だって事実だろ?」
「……否定はしない」
「なら花火大会とか誘ってみろよ。ほら、八月の港祭りは毎年俺らもオフになるんだから」
「えー、でも。無理だよ」
「お前ならいけるって」
「そもそも彼氏いるかもしれないし、それに僕が誘っても穂乃果が来るわけないじゃん」
「穂乃果が何だって?」と言って一人の女子高生が榎田の隣から声を掛けた。
それに驚いた榎田はペダルから足が外れ、宮前の方にバランスを崩した。百七十センチの宮前が百八十五センチの榎田を何とか受け止める。
「優斗、そこまでびっくりすることないでしょ」と望月愛莉が嘲笑う。
「まさか愛莉が来るなんて思わなかった」
「何言ってんのよ。確か先週もこうして会ったじゃん」
横断歩道が青になったので、三人は榎田、愛莉、宮前の順で縦一列になって自転車を漕ぎ出した。
望月愛莉は穂乃果の親友とも呼べる存在である。同じバスケ部ということもあって、一年生の頃からいつも穂乃果と一緒にいる。決して穂乃果の人気にあやかろうとしている訳ではなく、小さくて元気のある愛莉は男女から人気がある。一年生の頃に宮前と文化祭実行委員としてペアを組んでいたこともあって、特に宮前とは付き合っていないのが不自然なほど仲が良い。
「それで優斗さー、穂乃果の何について話していたの?」
「え、えっと……」
「榎田とは今年の文化祭実行委員、穂乃果になるじゃないかって話してたんだ」と宮前が言った。
「なあーんだそんな話か。てっきり、優斗が穂乃果をデートに誘ったのかと思ったよ」
榎田の背中に溜まった汗に冷や汗が混じる。
「ち、違うよ。ほ、ほら、そろそろ夏休み終わったら文化祭の準備あるしさ」
「ふーん。え、私は?」
「また今年もやりたいのかよ。そしたら俺ももう一回やらないといけねーじゃん」
「え、嫌なの?」と愛莉が宮前の方を振り返って睨みを効かせる。
「だって面倒だろ? って言っても、どうせ今年も去年と一緒で行こうって話になるんだ。学級委員を決めるときだってそうだったじゃないか」
通常は一年ごとにクラス替えが行われるが、東浦大清水では入学の時に決められたクラスが三年間続く。そのせいか、クラスで決められる委員も昨年度と同じ人になりやすい。
宮前と愛莉が実行委員をした昨年度は演劇をやって校内で賞まで獲得をした。その実績を考えると、宮前と愛莉以外に選択肢はクラスの中で無いはずだ。
「穂乃果は意外とそういうクラスの中心になる委員とかやりたがらないしね」
「じゃあ、愛莉は今年も立候補するの?」
「するよ」
「げっ。マジかよ」
「いいんだよ智明。あんたはやらなくても」
「気は進まないが、絶対やらされるだろ」
「ふうーん。そんなに私と実行委員やりたいのか。そしたら仕方ないなぁ」
「そんなこと言ってないだろ」
「じゃあ優斗とやろっかな。どう優斗?」
「僕に出来るわけがないじゃん。宮前がやってよ」
「ほら、他のみんなも絶対こう言うだろ」
「素直に私と一緒に実行委員やりたいって言えばいいのに」
「……それはこっちのセリフだよ」と宮前がボソリと呟く。
「何か言った?」
「何も言ってませんよ。お嬢様」
三人が学校の駐輪場に着くと、ホームルームまで残り五分と時間が迫っていた。
「やば。ほら、優斗と智明も急いで!」
愛莉がここまで急ぐのは、エレベーター待ちの行列に並ぶためだ。中高合わせて八階も校舎があるこの学校で真夏日に階段を使うのは誰しも骨が折れる。もちろん野球部の一年生はエレベーターを使ってはならない。
駆け足気味に昇降口を抜けると、幸運にもまだ数人がエレベーターホールに溜まっているだけで、いつものように行列は出来ていなかった。
「ラッキー! あ、洋子じゃーん!」
愛莉が群衆の中に見つけたクラスメートに声を掛ける。
話す愛莉の後ろで二基のエレベーターを待っていると、人だかりが出来てきた。皆額の汗を袖で拭っている。こんな暑いのにエレベーターの中でぎゅうぎゅうに詰められるのかと榎田が憂慮していたときだった。
「榎田くん、おはよ!」
穂乃果が後ろから声を掛けると、榎田の鼓動がひとつ跳ねた。水色のヘアゴムで結いた髪と大きな瞳に目が奪われる。
「お、おはよう。穂乃果、さん」
穂乃果と宮前が同じタイミングで「ぷっ」と噴き出す。
「何よ穂乃果さんって。いつもそう呼んでないじゃん」
先ほどの宮前との話もあり、榎田は穂乃果のことを意識しまっていた。いつもより穂乃果の動作の全てが眩しく見えてしまい、まともに言葉が出てこない。
「あ、ごめん。なんかいつもと違うなって」と言ってみたが、変なこと言ったと榎田は後悔した。
「え、どこが?」
「……眉毛かな?」と当てずっぽうに言ってみた。
「え……」
穂乃果は驚いた表情で間を置いてから、「正解!ちょっと描き方を変えてみたんだ」と小さく拍手した。
「よく分かったね」
「いや何となくだよ」
すると、エレベーターが一階に到着した。榎田たちも含めた生徒がエレベーターに乗り込む。
「もうちょっと後ろに詰められる?」
榎田の前に立つ穂乃果が見上げて振り返る。榎田が壁に背中をつけると、穂乃果は「ありがと」と言って榎田の正面に背中を付けるようにして近づく。四角形の閉鎖的な空間の中、どこに目を向けた方がいいのか分からない榎田は、前に立つ穂乃果の後ろ髪を眺める。水色のヘアゴムが起点となって垂れているポニーテールから穂乃果の香りがした。
榎田と穂乃果は、一年半の間で同じ班になったことも、同じ委員会に入ったこともないため、話す機会は少なかった。榎田と愛莉、宮前が話しているとき、たまに穂乃果が会話に混じってくることはあった。接点が少ないにも関わらず穂乃果のことを好いてしまったのは、可愛さとかっこよさが共存したその容姿と共通の趣味があったからだ。
去年の文化祭の準備にて、穂乃果と二人きりになる機会があった。その際に、穂乃果が映画好きなこと、お気に入りの映画が同じだったことから話が盛り上がったことがある。それを機に穂乃果とも話す機会は増えた。しかし、知り合い以上に関係が深まることもなく二年生の夏休みが始まろうとしている。
ただ、今日だけは違う。榎田は今日だけはデートに誘ってみようと意気込んでいた。終業式と帰りのホームルームが終わり、いざ行かんと立ち上がったとき、不意に穂乃果と目が合った。その瞬間、榎田の鼓動は激しく波打ち、足は石のように固まってしまった。穂乃果はニコッと榎田を微笑んでから、愛莉と一緒に教室を出た。榎田が穂乃果の後ろ姿に見惚れていると、「おい。何ぼうっとしてんだ。練習行くぞ」と宮前に声を掛けられた。エレベーターを待つ穂乃果を横目に、榎田は宮前の後を追うようにして階段を駆け下った。
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