邪神を退治したら、退職金代わりに悪の組織の女幹部が支給されたので、妻にした。

柚子故障

邪神を退治したら、退職金代わりに悪の組織の女幹部が支給されたので、妻にした。

俺たちが住む令和日本が、異世界から侵略してきた邪神の脅威にさらされてから、もう一年が経つ。世界は世紀末さながらの混乱に陥ったが、今や邪神は倒され、ヤツが築き上げた悪の組織もほとんど壊滅し、平和が戻りつつあった。その邪神を倒した張本人である俺は、マンションの一室でタバコをくゆらせていた。


「あ゛ー……やることねぇな……もう死ぬかな……」


最近の俺は抜け殻のようで、この世界で生きることに飽き飽きしていた。死ぬことすら真剣に考えていた。とりあえず小便でもしてから考えようかとソファから立ち上がった瞬間、玄関の呼び鈴が鳴り、ガチャリと鍵が回る音がした。不意を突かれた俺は、慌てて玄関へと向かう。


「……なんだ、お前か。勝手に合鍵を使ってんじゃないよ。他人の家へのプライバシーって知らんのか?」

「あー、ごめんなさい。でも私も忙しくて? ほら、勇者さまなあなたが邪神をぶっ潰しても、残務はいろいろあるんですよ?」


そこにいたのは、俺の秘書的な存在として動いていた夏川だった。きっちりとしたスーツ姿は、相変わらず抜群のボディラインを強調している。


「生意気なこと言ってんじゃないぞ。男の部屋に女が一人で来る意味が分かってんのか?」

「何を今さら言ってるんですか? 秘書として配属になった私に、一度も手を出してくれなかったくせに」

「なっ……あれは、お前に色気が足りなかっただけであって……」

「はいはい、言い訳は聞きたくありません。グラドル出身の私に色気が足りなかったら、この世界は未婚少子化で崩壊ですよ?」


夏川は憎まれ口をたたきながら、数枚の書類を取り出して、俺に渡してくる。


「いつまで経っても取りに来なかったから、大きな荷物もできたので渡しに来たんです。これが組織の解散通知で、こっちが最終給与と退職金の明細書。あとは、離職証明とかいろいろ……あ、国民年金と国民健康保険の加入手続きは自分でしてくださいね? あと、一応国家公務員扱いだったから、雇用保険はないので、ハローワークは行かなくても大丈夫です」


「おま……こんな大事な書類、玄関先で渡すか、普通? 社会人失格だろ」

「そんなセリフは、一度でも私を玄関先から向こうに上げた人が言うことですよ?」


俺は言い返すことをやめて、書類をパラパラとめくる。0が異様に並んだ、現実感のない数字が目に飛び込んできた。


「報酬ってこれ……、カンマの上に1が乗ってるんだが、本当にこの金額なのか?」

「まあ、一応世界を救った報奨金ですからね。あ、ちなみに非課税だそうです。今からでも遅くないから、私を連れ込んで抱いて、責任取って永久就職させてくれませんか?」


邪神を退治して世界を救った報酬か……プライベートジェットを買ったら一瞬で吹き飛ぶだろうけど、ちょっと贅沢に暮らしても、一生遊んで暮らせる数字だ。俺は受け取った書類を下足入れの上に置くと、夏川に向き直る。


「じゃあ、これでお前と会うのも最後ってことか」

「はい。私も退職します。何度も積極的にアプローチをかけたつもりだったのに、一度も抱いてもらえなかったのは、心残りですけどね」

「……それはすまなかったな」


「寂しかったけど、嬉しかったし、いい思い出になりました。何たって、世界を救った勇者さまの一番近くで過ごさせてもらいましたから。私は明日から、芸能界に戻ります。競争に負けて引退しかけていた高学歴グラドルだったけど、勇者さまの元秘書という肩書がついたおかげでオファー殺到中なんですよ?」


夏川は茶髪のポニーテールを揺らしながら、『高学歴』を強調しつつ嬉しそうに告げる。これからはテレビをつけるたびに、この笑顔を見ることになるのだろう。


メンタル的には血反吐を吐きそうなくらい辛い日々だったけれど、このざっくばらんに見せかけて細やかな気配りのおかげで、戦い抜いてこれたのは確かだ。


「これまでありがとうな。応援してるよ」

「ええ、がんばります。……ところで最後に、退職金代わりとして、大きなプレゼントがあるんです」


夏川が合図を送ると、大きな台車が運び込まれてきた。冷蔵庫を梱包しているような箱が、その上に乗せられている。玄関のたたきに下ろされると、すごい存在感を放っていた。


「今開けますか? 私としては、私たちがいなくなってからの方が良いと思いますけど。生かすも殺すも、何をしても良いそうです。これまで溜まりに溜まった気持ちを、ぶちまけちゃってくださいね。じゃあ、私たちはこれで……デートのお誘いでしたら、いつでもご連絡をお待ちしていますから。あ、カッターナイフは厳禁ですからね?」


言いたいことを言うと、夏川たちは去ってしまった。あっさりしたものだ……俺は箱の上部に指をかけて、真っ二つに引き裂いた。この中に生体反応があることは知っていた。そして、中身が何であるかも、うすうす予感していた。


「……久し振りだな、勇者カトウ」

「あぁ、久し振りだな……アイナ」


黒髪のロングヘアーが揺れ、真っ赤な瞳が臆することなく俺を見つめた。そこに入っていたのは、邪神の右腕として世界と……俺と殺し合いを続けてきた悪の女幹部、アイナだった。


********


アイナは漆黒の幹部服のまま、赤いロープで後ろ手に縛られていた。


「……あぁ、これか。あの夏川という女の仕業だ。『私みたいなスタイル抜群の女がいくら誘惑しても押し倒してくれなかった人ですから、最初から全力で誘惑しましょうね』などと言ってな……」


アイナは恥ずかしがる素振りを見せずに、堂々と胸を張る。


「死んでいなかったのか、お前」

「あぁ、お前が邪神さまを倒して以降も抵抗を続けていたが、先日捕縛された。最初からお前に引き渡される予定だったみたいだが、お前が呼び出しに応じないのでな……こうやって届けられたというわけだ」


俺は、とりあえずアイナを家の中へ上げていた。アイナは迷うことなくすたすたと寝室に行くと、ベッドに腰掛ける。


「邪神さま亡き今、この世に未練はない。さっさと殺せ……と言いたいところだが、私は女で、お前は男だ。敗者の惨めな末路は覚悟している……これまで殺し合ってきた貴様への敬意を表して、何をされても抵抗しないことを約束しよう」


アイナは凄艶な美貌に不敵な笑みを浮かべて、脚を開く。黒いストッキングとそこから見える白い肌のコントラストは、不謹慎ながら美しかった。俺は、これまで押さえつけてきた感情がマグマのように湧き上がるのを感じていた。


「どうした……あの夏川という女にも引けを取らない胸の大きさだし、自分でも美人だとは自覚している。男の欲望を容赦なく煽るだろう? 殺し合ってきた女を、最期に満足するまで抱くと良いさ」


自分の死を覚悟しているアイナは、俺の反応を愉しむように挑発してくる。自身も興奮しているのか、ほんのりと耳が赤くなっている。


「勇者カトウ、私はお前に抱かれた後に処刑されるなら本望だ。縛られて何もできない私を、好きなようにすればいい。一晩だけ、お前の女になって従順に尽くしてやる」


アイナは、俺が劣情を催すことを期待してか、挑発する言葉を並べ立てる。その口調は淡々としていて、まるで事務的な報告のようだったが、その瞳に情欲の炎が灯っていることに俺は気づいていた。


「……そうか」

「なんだ……私では不満か? ならさっさと殺せ……んんっ」


俺はアイナをそっと抱き寄る。その唇に触れると、言葉では表せない感情が込み上げてきた。アイナは抵抗せずに俺の舌を受け入れた。そのまま前歯の裏をなぞって、舌を絡めた。アイナの口の中は柔らかく、温かく、甘い味がした。これまで何度も殺し合った相手だが、ここからはただの男と女だ。


「んんっ……んっ、んむっ……はぁっ、んんっ……」


俺はアイナの閉じられた目を見ながら、唾液を与えていく。途中、息継ぎのために口を離すと、アイナはその真っ赤な瞳を開いて俺と目を合わせた。女として俺に屈服する覚悟を秘めて、自分から舌をねじ入れてくる。


「……随分と積極的だな」

「一晩だけお前の女になると宣言した……嫌いだったか?」

「いや、悪くない。もっと甘えた声も出せ。負けた男に媚びるんだ」

「あぁ……私はお前たちに敗れ、捕虜となった女だ。もはや帰るべきところはない。好きにすると良い」


俺がキスを重ねると、アイナは懸命に応えてくる。長い長いキスの後で、俺はアイナの目をのぞき込む。


「そうだ、もっと媚びろ。邪神の右腕ではなく、1人の女に戻れ」

「お前……あの夏川という女はさっき、ずっとお前に抱いてもらえなかったと言っていたのに、なぜ私は抱いてくれるんだ?」

「それをお前に答える義理はない」

「そうか……私は捕虜だったな。好きにしろ……」

「媚びろと言ったはずだ」

「……抱いてください、勇者さま。あなたの敵だった女に、一夜の思い出を、慈悲をお与えください。私の罪は弁えています。ちゃんと処刑されて死にますから……その前に、女としての役目を果たさせてください」


アイナは冷静ながら媚びた声で、俺のことを勇者さまと呼んだ。照明に煌々と照らされて、アイナの美貌がさらに引き立っている。その顔と言葉を認識して、脳髄がずしんとしびれる。


ずっと見てきた顔だ。戦場では幾度となく顔を合わせてきた。この世界では存在しないはずの魔力を邪神に与えられ、邪神を追い詰めると、常にこの女が盾となって立ちふさがってきた。


その女が、潤んだ目で媚びている。愛していた女を再び俺の物にしたいという欲望が、心を支配する。


そして、俺はアイナを抱いた。美しい黒髪を乱れさせたまま、荒い息をつきながらベッドに横たわっている。俺はこの女をどうしようかと、ずっと迷っていた。一思いに俺の手で葬ってやるべきか、それとも……だが、もう決まっていた。火を点けようと思っていた煙草を、そのままゴミ箱に放り込む。


「決めたよ、アイナ。一晩だけではなく、これからも俺に仕えろ」

「なっ、正気か? 私は生かされることが許されない身だ」

「お前は退職金の一部として、俺に支給された。お前をどうするかは、俺の自由だ」

「だが、私は……」


ここで言葉を尽くすのはやめておこう。俺はアイナの頭に手を置いて、魔力を送り込む。抵抗することなく意識を刈られたアイナは、かくんと眠りに落ちた。


「お休み、愛奈」


拘束されたまま、解くのを忘れてしまっていた縄を引きちぎる。俺はアイナを見つめた。かつて戦場で対峙していた彼女が、今ここにいる。息をする音が、まるで別人のように穏やかだった。アイナの身体を一度抱きしめた後、薄い毛布を敷きなおしたベッドの中央に寝かせる。


俺はシャワーを浴びてから、もう一度眠っているアイナの様子を確認し、リビングに戻って煙草に火をつけた。


吸い込んだ紫煙はあっという間に肺の中で無害な物質に変換されていく。俺はゆっくりと煙草を吸いながら、いつも通りの眠らない夜を過ごした。


*********


翌日、朝日とともにアイナが起床してきた。毛布を身にまといながら、もじもじとしている。


「おはよう……その、私の服はどうしたんだ……いや、今から死ぬ身に服など必要ないことは分かっているのだが……」

「お前の幹部服か? あれはもう捨てたよ。マンションのごみストッカーにならあると思うが、拾いに行くのか?」


「……いや、気にしないでくれ」

「そうか。じゃあ、シャワーを浴びてこい。スッキリするぞ。シャンプーやボディソープなどは好きに使え。高そうな方がお前の分だ」

「最期に身を清めさせてくれるのか? 感謝する」


アイナは色々と勘違いをしているようだが、あえてその思い違いを放置する。15分ほどして、脱衣所から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。脱衣所に入ると、バスタオルを巻いた状態のアイナが、困った様子でかごの中身を見ていた。


「バスタオル以外にもここに服があるのだが、これを着ろということか?」

「あぁ。ついでにそのエプロンも着けてこいよ」


俺は短く指示を出すと、再びリビングに戻って早朝のニュース番組を見た。邪神が倒された後の社会について特集が組まれていた。倒した張本人ではあるが、非常に他人事に聞こえる。


走狗のように煮られるほどではないが、倒した途端に用済みとなって解雇された身だ。まあ、10億円を超える報酬と美女一人をもらったのだから、世間一般からしたら割に合わないわけではなかったが……


「待たせたな。これが、お前の用意してくれた死装束か……随分と普通の服装だな」


しばらくすると、アイナが現れた。黒いシャツにジーンズ、そして白いエプロンを身に着けている。まだ濡れた長い黒髪が、しっとりとした色気を醸し出している。


「すぐ殺るか? 一晩だけお前の妻になるとは言ったが、望むならもう一度抱かれる覚悟はできている」

「そうだな。じゃあまずは朝飯を準備してもらおうか」

「分かった……待て、朝ごはんの準備だと?」


相槌を打とうとしたアイナが、思ってもいなかった指示を受けて、赤い瞳を見開きながら固まった。もじもじとエプロンの裾をいじくりながら、言いにくそうに続けた。


「私の仕事はお前の復讐のために殺されることで……その……お前の食事を用意するなどと、まるで妻のようなことは……」

「なんだ? 料理ができないのか?」

「いや、そういうわけではないが……作れと言われれば作れる」


そろそろ誤解を解いておこうか。俺は呆れたような溜息をつきながら、アイナに話しかける。


「アイナ、お前が今考えたとおり、俺はお前を妻のように扱う。別に殺すつもりはない。ここで一緒に暮らして、食事を共にし、夜も一緒に過ごしてもらう」

「……正気か? 私はお前と殺し合ってきた女で、邪神の片腕として世界に害をなしてきた女だぞ……? 仮にお前が私を妻のように扱うことを望んだとしても、赦されるはずが……」

「お前は世間的には掃討戦で死亡したことになっている。邪神の電波干渉によって認識阻害が起きていたから、顔を知っている者もごく僅かだしな」


実際には、不幸な事故で亡くなった者を除けば、戦闘員のほとんどが保護されている。俺はそのことには触れずに、アイナを納得させるために話を続けた。


「俺は勇者としての役目を終え、ただの男となった。世話をする女も必要だ。敗者は勝者に服従するものだろう?」

「敗者として、お前の妻となって屈辱的な日々を過ごし続けろと……?」

「そうだ。俺の論理でも、お前の論理でも、逆らう権利はないと思うが?」


アイナはしばらく考え込んだ後、深く息をついて、赤い瞳でじっと俺を見つめてきた。そこに宿る信念の炎には邪神の右腕としての悪辣さはなく、人としての温かみが感じられた。邪神の魔力の影響が順調に抜けてきているようだ。


「分かった。お前と共に暮らそう。もちろん、夜中にお前を暗殺しようなどという無粋な真似はしない。しっかりとお前の妻として振る舞うことを約束しよう」

「それでいい。じゃあ朝食の準備をしてくれ。昨日は身体を動かし過ぎて、腹が減っている」

「実は私もだ……しかし、用意がいいものだ。こんな服まで準備しているとは……」


*********


こうして、俺とアイナの共同生活が始まった。アイナは宣言通りに妻のように振舞った。家事をこなし、共に時間を過ごし、夜は寝室で俺に抱かれた。妻らしい言葉遣いを求め、甘い言葉をささやくように躾けていき、アイナは徐々に女らしさを取り戻していった。


起床時も就寝時も、いつでも「愛している」と言わせたし、『お前』ではなく『あなた』と呼ぶように改めさせた。いつしか、アイナは俺への愛を自分の感情として持つようになってくれた。


「あなたは、私が寝付いてからも寝ないのですね」

「あぁ、この身体は特殊な作りでな、寝ることができないんだ。それに24時間戦い続けないと、世界の崩壊は防げなかったしな……気にせずにお前は寝ろ。俺は夜の過ごし方に慣れているから、お前の寝顔を時折見に来たりもするよ」


アイナにも魔力はある。しかし、それは邪神に与えられたものであって、時が経つにつれて薄まっていた。すでに、身体能力は一般人と大差ないし、もう魔法を打つこともできないだろう。


俺は飽きることなくアイナの愛を貪った。アイナは妻として生きていくとの宣言通り、俺を懸命に愛しながら日々を過ごしている。そして、俺はアイナと怠惰な日々を過ごすだけではなく、少しは世間のために役立とうと思い始めていた。


********


「行ってらっしゃい、あなた。今日からお仕事なのですね? 頑張ってください」

「あぁ、再就職しないと暇を持て余すからな。生活費は報酬で事足りているから、半日だけの気楽な仕事だ」


俺は新たに構築された復興本部に据えられた通信装置で、かつて俺と邪神が存在していた異世界と交信し、向こうの仲間からのアドバイスを受けながら、復活の可能性の芽を摘んでいる。


夏川は俺の復帰を大いに喜び、自身もタレントとしての芸能活動を副業として認められ、復興本部に戻ってきた。歓迎会の二次会の後、俺に抱かれることを懇願してきたが、俺は固辞した。


「分かっているだろう? 俺と一緒になっても、決して幸せにはなれない」

「やっぱり、あの人が良いんですね。遊び相手で良いんです、私が幸せになれなくても良いんです、あなたを少しでも幸せにして送ってあげたい……ダメですか?」

「俺は、お前と身体を重ねるよりも、明るい笑顔でテレビに出ているお前を見る方が幸せになれるよ」

「……ずるいですね、そんな風に言われたら何も言えなくなっちゃいます」


俺はしばらく安定した日々を過ごして、そして魔力の霧消と共に、生命は徐々にむしばまれていった。


********


アイナが俺のもとに来てから、数ヶ月が過ぎていた。この日、俺は専用の通信室の椅子に腰かけていた。


「これが、最後の通信になると思う。今まで世話になったな、アイリーン。他のみんなにもよろしく言っておいてくれ」


通信の相手は、かつて俺が転移させられた異世界でともに邪神と戦ってきた女性だ。他にも仲間はいるが、皇族であるアイリーンが代表して俺との通信を担ってきた。


「もう、魔力がないのですか? カトウ様……」

「あぁ、元々この世界に魔力はないからな。使えば使うだけ目減りしていく。だが、邪神の欠片も消滅しきった。お前が貴重な探査スキルを譲渡してくれたおかげだよ」


「いえ、邪神の消滅が最優先ですので……ですがカトウ様、魔力が失われたら、魔力体として無理やり再転移されたあなたのお身体は……」

「気にするな。元々、そういう運命だっただけだ」


「あの時倒した邪神の一部が、カトウ様の魔力線をたどって逃げ延びていたとすぐ気付いていれば……奥様のことも、申し訳ございませんでした」

「……それは言うな。お前たちとの旅は悪くなかった。じゃあな、アイリーン」


「はい、愛しております、カトウ様。できれば、あなたに抱いていただき、夫になってほしかったです」


俺は通信装置に送り込んでいた魔力を解除して、アイリーンとの会話を打ち切る。そして夏川に通信が終了した連絡をした後、最期の夜を迎えるために立ち上がった。


********


俺がアイリーンとの別れの通信を終えて帰宅すると、アイナは重苦しい表情で俺を出迎えた。


「そういう表情はしてほしくないんだけどな」

「夏川さんからご連絡をいただきました。あなたの命がもう長くはないだろうこと……」

「聞いたのか。おしゃべりな奴だ。正直に言えば、明日の朝を迎えることはないだろう」


俺はアイナの身体を抱き寄せて、キスをする。最初のころとは違い、アイナは愛をこめて俺にキスを返す。どれくらいの時間がたっただろうか。俺たちは玄関先で、ただひたすらに、付き合い始めた高校生のときのようにキスでお互いの愛を確認し続けた。


「……もう一つ、尋ねたくても怖くて聞けないことがありました」


唇を離したアイナは、俺と視線を合わせることを避けるように、抱き着きながら耳元でささやいてくる。


「お願いです、あなた。正直に答えてください」

「分かった。答えることを約束してやろう。俺の貯金の残高が知りたいのか? 遺産は全部お前に行くからな、知っておいて損はない」


「……やっぱりそうだったんですね」

「……あぁ、そうだ」


俺に抱き着いたまま、アイナが泣き始める。こぼれた涙が首筋を伝い、アイナが通勤用にと買ってくれたワイシャツの襟を濡らす。


「ごめんなさい、ごめんなさい、あなた……やっぱり私は、いえ、私の身体は、あなたの妻だった人なのですね?」


「そうだ」


「私にちょうど良い服があった時から……いえ、最初のあの時、迷わずに私の身体が寝室に向かったときから、違和感を覚えていました……でも、怖くて聞けなかったんです。あなたの妻だった人が邪神に洗脳され、植え付けられた人格が私なんですね」


「その通りだ。お前は……俺の妻だった女だ」


俺は愛奈の身体を強く抱きしめる。アイナは泣きながら、俺にしがみつく。俺はもう一度、アイナの手を取った。その指先が微かに震えているのが伝わる。アイナもまた、俺と同じように、この瞬間にありったけの感情を込めていた。


「ごめんなさい、私、必死で私の心の中にいないか、元のあなたの奥様を探したんです。でも、見つけられませんでした……」

「気にするな。邪神の洗脳スキルが不可逆であることは俺も分かっている。最初から、諦めていたことだ」


魔力線をたどった邪神がこの世界に到着した場所は、このマンションだった。そしてそこに寝ていた愛奈を俺の関係者だと認識した邪神は、洗脳して魔力を与え、自分の右腕とすることで、俺への陰湿な復讐を遂げた……これが俺の認識している事実だ。


幸いだったのは、俺が異世界に転移してから愛奈の精神が破壊されるまでの時間が、すべて同じ深夜のうちに進行したことだろう。愛奈はいつも通りに俺の傍で寝て、知らないうちに逝ったはずだ。その後は邪神が魔力を繋げてしまったことにより、同じように時間が進んでいるようだが。


アイナは俺にしがみつくことを止めて、手を放す。そして俺から離れて数歩下がってから、俺の瞳を見つめてきた。


「私は、どうすれば良いですか?」

「……そうだな。無理に愛奈である必要はない。アイナとして、俺が消えるときまで俺を愛してくれ」

「分かりました……それと、私にも一つ謝らないといけないことがあります。私は、先月から避妊をやめています」


「そうか。妊娠したら産んでくれるのか?」

「あなたが許可してくださるのなら……」


「もちろんだ。お前が俺の子供を、愛情をもって育ててくれるのなら、産んでくれ」

「もちろんです。愛しています、あなた。敵として殺し合っていたあの時から、あなたになら殺されても良いと思っていました……きっと、そう言うことだったのですね」


俺たちはベッドに移動して、もう一度キスで愛を確かめ合う。アイナの美しい黒髪を手ですきながら、俺は愛奈とファーストキスをした、高校生の頃の自分の部屋の生温い空気を思い出していた。


アイナは懸命に舌を絡めて、俺の唾液を受け止め続ける。キスをしながら俺の手を身体に導いて、たかぶった体温を伝えてくる。俺は髪の毛の感触を楽しみながら、その美しい頬にも指を滑らせていく。


「んぅっ……んちゅっ……、愛しています、幹彦さん……」

「やっと名前で呼んでくれたな、アイナ」


「……その、あなたの愛していた愛奈さんは、どう呼んでいたのですか?」

「昔は、『みっくん』だったな。結婚してからはお前と同じように『幹彦さん』だった」


「そうですか……愛奈さんの代わりになれるとは思っていません。ですが、私なりに精一杯、最期のお相手を務めさせていただきます」

「あぁ、ありがとう」


俺はアイナの頬を撫で続けながら、赤い瞳を見つめる。人生のほとんどを一緒に過ごしたこの美しい顔を見るのも、今夜が最期だ。


俺はアイナの身体を優しくベッドに横たえる。アイナはくすくすと笑って反応する。


「覚えていますか? 最初にあなたに抱かれた時は、後ろ手に縛られたままベッドに投げ飛ばされたんですよ。今日はまるでお姫様みたいな扱いで、嬉しいです」

「あまり言うな。あの時は俺にとっても10年振りくらいで、いろいろと我慢できなかったんだ」

「……異世界で、誰とも関係を持たなかったんですか? 幹彦さんって、意外なくらい一途ですよね」

「意外は余計だ。これでも、恋人は愛奈とお前しか経験がないんだよ」


俺は照れ隠しをするように、アイナの身体に覆いかぶさる。そして、至近距離から見つめあう。


「ずっとこのままお前を見ながら果てたい。良いか?」

「はい……私も、あなたから目を離しません。愛奈さんの分も含めて愛しています、幹彦さん。これが、私にとっても最後の行為です」


俺はアイナの黒髪を撫でる。愛奈は顔の美しさや胸の大きさよりも、髪の毛の美しさを褒められると機嫌が良くなる性格だったことを思い出す。手入れにどれだけ気を遣っているか、延々と説明されたものだ。


「愛しています、幹彦さん」

「最初にお前を抱いた時には『殺せ』とばかり口にしていたが……立場が逆になったな」

「もうそんなことは言いません……あなたが命がけで救った愛奈さんの身体です。100歳を超えるまで、しっかり長生きします」


リビングの時刻の鐘が、何回鳴っただろうか? 俺はとうとう、身体を起こすことが難しくなった。倒れこんだまま、アイナの身体を背後から抱きしめる。


「幹彦さん、どうされましたか?」

「ああ、このままで良い。このままでいさせてくれ」

「……もう、長くないのですか?」

「あぁ、もう5分と保てないだろう。だから、このままお前の体温を感じながら逝きたい」


顔を見ながら、安らかに逝ける自信はなかった。俺が背後から抱きしめた意図を察してくれたアイナは、俺の手に自分の手をそっと重ね、握りしめてくる。


「……お疲れさまでした、幹彦さん」

「あぁ、俺なりに頑張ったよ」

「世界を2つも救ったんです。きっと何百年先でも、教科書に載ってますよ」

「しまったな。落書き映えのする写真を指定しておくんだった」

「うふふ、私がちゃんと選んでおきますね」

「あぁ、それと、一応実家もあるんだ。隣が愛奈の実家だから、顔を出しづらくてな……」

「分かりました。どちらのご両親にも、私が責任をもってお話しします」

「すまん。最後の最後に、重たい頼みごとをしてしまった」

「良いんですよ。ところで、子供の名前のリクエストがあったら教えてください」

「そうだな、考えていなかった……愛してる……」

「私もですよ、愛しています………………やだ、いなくならないで、幹彦さん……!」


最後に、アイナの悲痛な声が消え去りかかっていた意識に届いたが、ともかく俺は満足して逝けた。

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