第3話

「すっごくいい音」


 天ぷらのサクサクした音が心地よく響いて、店主の腕の良さに惚れ惚れしてしまう。


「このお店、お気に入りなんです」


 店内を見渡すと、ほかのお客さんの間にも笑顔が広がっている。

 奥のテーブルに座っているサラリーマンの人は一人で食事をしているのに、ボリュームあるかつ丼定食に心を躍らせているように見える。みんな、このお店の食事を楽しんでいるって様子がよく伝わってくる。


「あ……」


 焼き魚の骨を外そうとした際に、魚の外側はカリッと。

 中はふっくらと焼き上がっているのに気づいて、店主がお客様に喜んでもらうために料理を提供していることが伝わってきた。

 なんだか分からない感情に襲われて、涙腺が緩んでしまう。


(誰かの手料理も、誰かと食事することも、本当に久しぶりだから……)


 魚の骨を外し始めるとき、魚の皮がパリパリッと音を立てた。

 香ばしい香りがお店に広がっていくようで、その過程すらご飯を美味しくする要因になっていく気がする。

 そういう感覚を得ること自体が初めてで、まるで魚の身を優しく解すのまで人生で初めてのような緊張感を抱いてしまう。


(楽しいな……)


 同じ職場で働く者同士が夕飯まで同じなんて、若芽わかめさんには気の休まらない時間が続いているかもしれない。

 でも、向かい側に座る彼女が満足した表情で食べ進めていく様子を見ているだけで元気を分けてもらっているような気がしてくる。


「んー、やっぱり、ここの定食屋さんは最高に美味しいです」


 職場ではおとなしい雰囲気の若芽さんだけど、ご飯を食べているときはこんなにも豊かな表情を見せてくれるところが意外だった。


(食べるのも、作るのも好きなんだ)


 若芽さんは食レポのように、いちいち食べている物を解説しているわけではない。

 それでも、彼女が手にしているかぼちゃの天ぷら。

 食べてもいないのに、ほくほくとしたかぼちゃの甘みが伝わってくるくらい笑みを綻ばせるから嬉しくなってくる。


(なんか、若芽さんとご飯食べてると……心も体も満たされていく感じがするんだよね)


 まずは自分が口にする部分の骨だけを外し終えると、少し満足げに微笑む。

 なるべく手際よく骨を外さないと、せっかくの焼き魚が冷めてしまう。


(ご主人の厚意を無駄にしない)


 若芽さんが自然と笑みを浮かべられるくらい、このお店の腕前は確かだった。

 焼き魚の絶妙な焼き加減から、料理に込められた愛情が伝わってくる。

 ご飯を食べるひとときを心から満喫するのなんて何年ぶりだろうと、思い出そうとしても思い出せない。


「若芽さん、このお店を紹介してくれてありがとう」

「気に入ってもらえて嬉しいです」


 さっきから、社交辞令的な会話しかできていないことに申し訳なさを感じる。

 若芽さんは人工知能を搭載したロボットでもなんでもないはずなのに、いま一歩踏み込んだ会話ができないのは私に原因があるのかもしれない。


「若芽さん、あの……その、受け取ってもらえない食費のことなんだけど……」


 添えられた小鉢には、恐らく季節の野菜が彩りよく盛り付けられていた。

 その彩りだけで癒されるのを感じながら、私は勇気を出して踏み込んだ。


「気にしないでください。森永さんへのご飯作りは、私が好きでやってることなので」

「違うの、私、これからも若芽さんのご飯を食べたいなって思ってて……」


 食事の場で、食事が不味くなるような会話は禁止。

 頭ではなんとなく分かっていても、若芽さんだけが食費の負担を背負う関係をなんとかしなければいけない。

 そう思って、ない頭をフル稼働させて、若芽さんの説得を試みる。


「若芽さんのご飯を食べたいから、食費をちゃんと払いたいっていうお願い」


 口をぽかんと開ける、という言葉通りのことをやっているわけでは。

 けど、私の提案に驚きの表情を見せた若芽さんの口はほんの少し開いたまま。


「なんていうか、普段の食事の大切さに気づいたっていうのかな? ご飯を食べて、仕事のストレスとか……日々の忙しさから解放してくれて、ありがとーみたいな」


 自分でも何を言っているんだって気がしなくもないけど、自分が経験したことを若芽さんに伝えるために必死に口を動かした。


「今の食事だって、焼き魚にご飯に味噌汁に……温かさが体に染み渡っていくっていうのかな」


 私が残念な語彙力で自分の気持ちの伝え方を迷っている後ろで、店主や従業員さんの快活な声がお店に響き渡る。


「ご飯を食べて、心の疲れを取るって方法を教えてくれて、ありがとう。若芽さん」


 接客業をやっていると、どうしても夕飯なのか夜食なのかよく分からない時間帯での食事になってしまう。

 ご飯を作るのも、食べるのも面倒くさい生活が始まってしまって、私と食の間に距離ができるようになった。


「って、若芽さん?」


 私と食の距離を縮めてくれた若芽さんに感謝の気持ちを伝えたはずなのに、肝心の彼女に私の気持ちは伝わっていないらしい。若芽さんの口は、まだほんの少し開いたまま。

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