広くて狭いQの上で

白川ちさと

第一章 学園転入編

第1話 突然の訪問者




 この日も、僕は学校からの帰り道を全速力で駆けていた。散髪に行きそびれて長くなってしまった前髪が汗で額に張り付く。それでも、構わずに目的地を目指した。頭の中では、夕方から寝るまでの計画を思い描いている。




 家に着くまで十分ほど。帰ったらすぐに自転車に乗って、末っ子を保育園に迎えに行かなければならない。




 帰りがけら、スーパーに寄って食材を購入。洗濯物を取り込んでいる内に、小学生の弟妹たちが帰ってくるはずだから、末っ子の面倒は任せてその間に夕食の準備をして――




 自分の時間が取れるかは分からない。




 その上、計画通りに行ったら上手くいった方だ。




「透兄ちゃん、おやつある?」




 幼い弟と妹、三人。暴れるだけ暴れて、命じたはずの洗濯物をたたもうとはしない。




 ただ、怒ったらさらに暴れることは目に見えていた。台所に行って、上の棚から箱を取り出す。




「ほら、クッキー。それ食ったら、洗濯物を……こら! カスを洗濯物の上にこぼすな!」




 早く中学生の妹が帰ってきて面倒をみて欲しい。それまでは、家事をしようにも片手間でこなさなければならなかった。




 これが僕の日常だ。七人家族、五人兄妹の長男。




 父さんも母さんも働いているため、高校生の僕はおのずと弟妹たちの面倒をみることになる。狭い貸家暮らしで、プライベートな空間も全くなかった。




 大変といえば大変だけど、大家族の第一子に生まれたものの定めだ。高校卒業まではこの生活が続くと、観念している。




 玄関がバタンと勢いよく閉まる音がした。妹が帰って来たみたいだ。




 さっそく、チビたちの面倒を見てもらおう。




 そう思ったが、いきなり中学生の妹が僕の腕をつかんできた。




「おっ! お兄ちゃん、大変!」




 どうやら、そそっかしい妹は学校でなにやら問題を抱えて帰ってきたようだ。これにもまたかと思いつつ、肩を下してゆっくりと諭す。




「なんだよ。こっちも、忙しいんだぞ。自分のことは自分で……」




「違う、違う! 本当に大変なの! 知らない人がお兄ちゃんを訪ねてきたんだから!」




「僕を?」




 誰だろうか。妹が知らないというからには、僕の担任の先生かもしれない。




「いま、玄関の前で待ってる! 本当に大変だから!」




 同級生が訪ねてきたぐらいでは、こう騒ぐ必要はないだろう。




「はい。どちら様ですか」




 炊事で濡れていた手をタオルで拭いて、僕は玄関を開ける。




 開けた途端に、硬直してしまった。




「……どちら様?」




 僕の担任の先生ではなかった。




 かっちりとした漆黒のスーツを着ている見知らぬ男性。黒い髪を後ろになでつけ、鋭い目にグッと口元を閉じ、近寄りがたいほどの強面だった。




 さらに眉間にしわを寄せている。不機嫌なオーラまで背負っていれば、自然と身体も後ろに引いてしまう。背後では、中学生の妹が身構えていた。




若狭透わかさとおる。君の名前だな」




「は、はいっ」




 だみ声の低い声まで聞こえて、背筋がシャキッと伸びる。




 もしかしたら、ヤのつく稼業の人なのかもしれない。父さんと母さんが借金でも作り、僕を保証人にしたのだろうか。




 そんな妄想が頭をかすめる。父さんと母さんを信じていないわけではない。




 ただ本当に僕の家は、毎日が火の車だ。子供が五人もいるわけだから、いくら出費を削っても出ていくものは自然と出ていく。




 父さんと母さんも、特別高給取りというわけでもない。何かの弾みで借金をしていても、なにも不思議ではなかった。




「う、うちに金目のものはないですよ」




 何とか出てきた言葉は、威嚇というには程遠いほど震えていた。




 一瞬間を開けて男性は、はぁと息をつく。ため息一つで、こうも人を震え上がらせる人もなかなかいないだろう。




「なにを言っているんだ。こんなボロい家に住んでいる人間から何を取ろうという」




「あ、え。あ、すみません。か、勘違いを……」




 どうやら見た目だけで決めつけてしまったようだ。簡単に人を疑ったことに、顔が熱くなっていく。




「逆だ。俺は、いや、俺じゃない」




「は、はぁ」




 何を言いたいのか分からなくて、生返事が出て来る。




「俺からではないが、君に伝言を言付かっている」




「伝言?」




 一体、誰からだろう。この男性は知らないが、知っている人物からだろうか。




「これだ」




 胸ポケットから一通の手紙を取り出して、僕に押し付けて来た。




 仕方なく受け取り、恐る恐る中を開く。






『はじめまして、若狭透くん。




 私は私立従慈学園の理事長、坂東和泉ばんどういずみです。




 突然ですが、病に犯された私の命はあとわずかのようです。




 ただ、私には子供も親類も居ません。




 ここ数年、どなたかに学園を譲らなければと考えていました。




 そんなとき若狭透くんを見つけました。あなたに私の学園の全てを遺贈します。




 あなたのものになるからには、なにをするにも自由です。




 経営を続けてもいいですし、売却しても構いません。




 ただ、何かを決める前に、残りの高校生活を学園で過ごしてみてください。




 よろしくお願いいたします』



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