荊棘の悲哀

鹽夜亮

第1話 「あそこはあまりにも悲しい」

「これはね、俺が今気になってる話なんだ」

 カフェオレにガムシロップを流し込みながら、Aは語り始めた。からんころんと淡いミルクとコーヒーのグラデーションに、糖分が流れ込む。店内のBGMは消えたように思えた。もちろん、それは私の一瞬の錯覚でしかなかった。

「Bもさ。K市にある薔薇に囲まれた家知ってるだろ?…たしかBは昔あそこの近く出身だったし。ほら、あの噂あるじゃん」

 確かに私は『薔薇に囲まれた家』を知っていた。それは幼少期から記憶に残っているし、Aの言う通り私が幼少期を過ごした街のほんのすぐ近くだった。最近はあまりその近辺を通ることはないが、当時は母や父の車の中からよくその異形を目にしたものだ。

「知ってる。元々裕福な家でおしゃれな家族が住んでたけど、お子さんが目の前の道路で轢かれて亡くなって、それから退去したんだかで廃墟になってるんだよな。特に心霊の噂とかは聞かないけど、誰も近づかないよね」

 事実、私たちより上の世代では『薔薇に囲まれた家』は有名だった。母や父、叔母は口々に先ほどの話を私に聞かせた。しかし、その有名さとは裏腹にその家は心霊スポットにはならなかった。何年、何十年と廃墟のままで、しかもそういった「噂」があるにも関わらず、荒らされることもなく残っている。

「そう。誰も近づかない。心霊スポットとして検索なんかかけても、一言も出てこない。だけど地元の人間は誰でも知ってる。いわゆる『本物』ってやつだ」

 Aはそう強調すると、甘ったるそうなカフェオレを一口飲んだ。

「心霊なんて噂が立てば、あっという間に若い奴らやそういうのが好きな連中が押し寄せる。こりゃ昔から変わらない。しかもネットが発達した今じゃ、噂の拡散スピードなんて昔の比じゃない。だけどBも知ってるだろ?あそこはいまだに姿を変えずに、綺麗に残ってる。荒らされることもなく、ネットで有名なスポットになるわけでもなく。あれだけ外見のインパクトもそれらしい噂もあるのにも関わらず、だ」

 からんころんと氷を回すAは、鋭い目つきでそう話した。何故『薔薇に囲まれた家』が心霊スポットとして広がらないのか、それに私は心当たりがあった。母や父、叔母から聞かされたその噂話の、最後に必ず顔を出す一文を、私はそのまま繰り返す」

「あそこはあまりにも悲しいから、誰も近づかないんだ」

 その言葉を聞いたAは、待っていたとばかりに口角を上げた。

「それだ」

 一言発した後、Aは一瞬間を置いた。これからが本題だ、と言わんばかりに。私はそれを、少しの退屈とともに待った。手元のアイスコーヒーの氷は幾分か溶けていた。

「まさにそれだ。俺も昔からあの噂話の最後に、その言葉を聞かされてきた。確かにあの家にまつわる噂は、怖いというより悲しいと言った方が合うだろう。だが、不思議に思わないか?そんな悲しい噂を持つ心霊スポットなんざ全国にいくらでもある。そこに住む家族の子どもが亡くなって…なんてのはよくある切り出しだ。真偽は別としてな。…じゃあその数多の有名スポットと、あの家の何が違う?何が違って、『地元では誰でも知っているのに、誰も荒らさず、それ以上噂も広がらない』なんて不可思議なことになってる?」

「………ローカルすぎるから?」

 問いに返したものの、私自身それが的を得ているとは思えなかった。今時、ローカルな心霊スポットなどいくらでもある。しかもそれが全国的に有名なことすらざらにある話だ。インターネットの情報網と、人々の好奇心は止まることを知らず、ほんの些細な噂から爆発的にそれは拡散される。その中で尾鰭がついて、あっという間に『呪われた心霊スポット』の出来上がりだ。

「違う。…と、言いつつも俺はまだ正解を出せない。違う、と思っていると言った方が正しいかもしれない。あまりにも不自然なんだよ。どうも納得がいかない。あの家は見た目にも目立つし、そもそも別の噂が煙もないところから産まれたっておかしくない。なのにそんな話すらない。出てくるのはいつも同じ話ばかりだ。そして結末はいつだって、『あそこはあまりにも悲しすぎるから、誰も近づかない』で締め括られる。なぁB、不気味だと思わないか?この、表現し難い統一性と秘匿性が」

 Aはギラリとした目でそう捲し立てた。彼の高揚が嫌というほどわかりやすく、こちらにも伝わってくる。からん、とアイスコーヒーの中で溶けた氷が音を立てた。

「そりゃあ不思議には思う。だけど私たちには何の関係もない話だろう?そもそも心霊スポット巡りなんかしたこともないし、お前にそんな趣味があるってのも聞いたこともない。探偵でもなければ、流行りのYouTuberでもない。私たちにとってはただただ昔から聞かされてきた噂話だ。何で今更、お前はそんなことが気になってるんだ?」

 それは事実だった。Aも私も、そんなものに関わってきた人間ではない。人並みに噂を耳にしたり、話すことはあれど、ただそれだけだ。Aは私の話を聞くと、カフェオレをまたゴクリと飲み込んで、椅子の背もたれに体をもたれた。何秒かはわからない。空白があった。それは静寂に思えた。店内のBGMは今も流れているのに、まさに静寂だった。背もたれから体を離し、テーブルに肘をついて、頭を抱えるような体勢になったAの目は、どこか空虚に見えた。

「悲しいじゃないか、あまりにも」

「…………何がだ?」

 私の問いかけに、Aは顔を上げなかった。

「彼らが本当に噂通りの顛末を辿ったのだとしたら。それが何十年もこうして触れられず、誰からも距離を取られて、ただ亡骸の家だけが残ってる」



「それはあまりにも、悲しいじゃないか」



………………

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