封緘宗祀

能生 織成

第1話 封緘宗祀 秘録筆記者 いざ参る

                                                                

 その悲鳴を真っ先に耳にしたのは──当人の申し出から──宮廷配備の近衛警護官ということになっている。

 その日、官兵が配備された場所は蜉蝣庭園かげろうていえんこくは〝白鷺時しらさぎのこく〟というから、新月が宵祭よいまつりを示す明け方にちかい。といっても、読者には何のことかわからぬだろう。解説してやってもよいが、とどのつまりは当事者しかわからぬことなので、ここはてきとうに想像したまえ。

 

 ──そう、そのあたりだな……。

 

 で、そのときのわたしといえば、残念ながら、うつぶせで爆睡中だったな。なにせ国境越えの長旅から一巡目ひとまわりも経とうとしているのに、老躯ろうくからは、ねばい疲労感は抜けず、それに反して精神の方はというと、ぽっちゃりとした、肉付ししつきのいい女神の淫夢いんむにとろけ、心身とも春の干潟の絹泥のごとく、正体なく液化していたのであるな。

 どういう女神めしんか……だと? 

 ここは解説の甲斐かいがあるので、解いてやってもよいな。そのときの女神はだな。豹柄ひようがらのふんどし姿でな、湯気のたつ茹豆を銅鍋からとりだして、自分のお腹の上に次々とならべておったぞ。そしてな、さあっ、食べろと目配せするのだ。それも下っ腹のほうを指さしてな。

 へぇへぇと、わたしは四つン這いになって、寝床をアマガエルのように進んだな。するとだな。さぞかしい茹豆は美味だろうと思った、そのとたん、その豆が、ぷんっと人糞ばりに臭ってきたのだ、これが。

 臭ってきたのは他にもある。なにやらむさくるしい気配が急接近してきてな。わたしの可愛い女神は、すえた茹豆だけを残して霧散しよったのだな、闇の底へ、とな。耳障りな音を残して。

 

 ギッシ……ギッシ……ギッシ……。

 

 自分の歯ぎしりにしてはおかしい、と思ったのも束つかの間ま、細い警棒のようなものでパンパンと背中にお見舞いされたから、もう馬鹿な淫夢なぞに浸ってなぞいられなくなった。


「起きられよ。焦眉の急です」

 

 燻銀いぶしぎんの声が耳元でざわついた。

 わたしの二枚あるまぶたは、二枚の銅貨なみに重くも、ゆるゆるとたくしあがる。


「いかようになされた。よもや、朝メシではなかろうな。それでは、茹で豆の拝謁を……」


 そのとき、頬をかすめて、冷たい風が烈破した。警棒による祓斬は卑怯ではあるぞ。やり手ババアが得意とする、ポン引きを追っ払う下賎な技よな。

 

 暗がりの中、その警棒を握っていた男は、銀師甲はくしこう羽二重はぶたえをさりげなく着こなし、その名を伽藍堂ガーランドゥといった。廷臣ていしんの第六位というから、ほどほどの知恵者であろう。なにせ、もとは近衛兵部隊所属の介護役人というから、世渡りの悪知恵も事欠かかないはずだ。それが、誰の按配あんばいか、あるいは運命さだめか、わたしの身のまわりの面倒を看ることにあいなった……らしいのだ。このときも、

「ご無礼とは存ずるが、これも致し方なしとおもうがよろし──」

 と、かすかに頭を下げたような、下げなかったような。手にしていたのは警棒ではなく、仔馬用の鞭であった。本人が言うには、先の〝二重ふたえの戦〟で惨死した仔馬の慚魂ざんこんを鎮めるため聖職者が削り出した、その名も「鎮魂鞭チンコンベ」という珍品物らしい。嘘くせえ。


 「身形を整えるがよろしいかとおもう。お早めに……」 

 

 て、肝心の要件はなんだ。どこか食えぬ貴人うまひとであるが、思えばガーランドには、感謝すべきことばかりだな。今宵もこうして一声かけてくれなんだら、大変面倒なことになっていたであろうな。ありがたやありがたや。

 ただしだな、今後の役回りからも、力加減というものを習得しなくてはならぬな。事あるたびに、いちいちピシャピシャッと叩かれて、そこいらに青アザを作られては、ただでも皺と染みだらけの我がご面相も、これ以上見場みばを悪くされてはかなわんからな。それよりだ、見場が悪いといえば、貴公のその顔も酷いものだぞ。なんとかならんのか。荒くれ驢馬ろばを日干しにしたような面相は、暗がりで鉢合はちあわせでもしてみろ、凶器とさして変わらんではないか。

 

「だから何があったのだ──」

「大公妃様の御寝所にて狼藉があったとの通報が……」

奥奇姫命おきひめのみこと様の!」

「委細は不明なれば、今は、口を控えますよう願います」


 それはともかく、蜻蛉庭園はどこにあるかといえば、この国のもっとも安寧の場所、大公妃グラン・マ尊寝室みことねやに面している、小さな翡翠池と朱子竹林が可愛らしい中庭だ。むろん警護は厳重であり、悲鳴などとはいっさい無縁な空間となっている……のはずだった。

 

 わたしは、すぐさま寝床から飛び出した。だが、そこで思った。はて、こんなときに、隣国の貴賓でもあるわたしは、いかような装いをしたらよいものか、とな。ふざけてはおらんぞ。真綿の夜着では艶かしいし、北栄軍営製の装飾革鎧ロウ・レザー・アーマでは場違いであろうし……と思案しておると、ふたたびガーランドの鞭の柄が、容赦なく、わたしの脇腹にねじこまれた。

 

 苦っ──!


「き、貴公はわたしに恨みがあるのか!」

 とわたしが涙目で訴えると、いちおうは頭を下げて詫わびて見せるガーランドだが、横顔はえへらえへらとゆがみ、すでに太后妃の寝室へむかうべく、廊下に右足は踏み出していた。

「まあ、待たれよ」わたしは呼び止めた。「事には準備というものがある。糞便にしても、まず下穿したばききを外せねばならんであろう」

「よもや、いまここで糞便を?」

「アホか。そこでちょっと待っていろと言うておるのじゃ、まだ着替えてもなかろう」

「失礼、歩きながら着替えるのかと思ってました。」

「いつから、わたしはそんな技を覚えたのだ!」

 

 わたしはガーランドなぞあさってのほうに置いて、まずは染みの浮き出た、皺だらけの両手五指を絡ませ、綾取組式あやとりくみしきの印相を結索けっさくさせた。六世家伝の呪文を一節ひとふし唱となえると、すると、どうだこの地味ぃな呪詛発露。発酵生姜の痺れが舌を震わせてくるではないか。音吐おんとは一段と怪しく部屋に響き渡り、これで彼奴も目覚めたはずだが……。


 ってそれ、誰のこと?


 うーむ、誰?と問われても、簡潔丁寧に述べるには難があるな。実を言うとな、わたしにもよくわかっておらんのだよ。そいつのことは。まぁ、きっとこんなんかなあーと思って書いておるだけよ。わたしの胸の奥か頭の隅か、そのあたりで住み暮らしているらしいんだが「小鬼」だと曽祖父たちは言っていたな。鬼とあっさり決めつけるのはどうかと思うが、きっとそいつは、ふぬけ猫のように爆睡しきっているはずなのだ──暇だから。安息状態だったはずなのだ。

 だからな、仕事は仕事じゃろ? ガーランドを真似てな、我が小鬼魂しょっこんの尻ペタを叩いて起こしてやったのだよ。いちおう我が一族の下僕だということだし……。

 

 ついでに書くと、綾取組式結索印相あやとりしきけっさくいんそうは長ったらしい呪法のひとつでな、わたしの意想がとらまえたものに、発酵生姜の痺れが襲うというもの……らしいのだ。だからな、きっと今ごろは、生姜で目を真っ赤に腫らして彼奴も目醒めたはずなのじゃ。

 くだらぬ愚痴もほどほどに、そろそろ仕事らしいこともせねばな。まあ、王侯貴族の宮廷内で起きた事件なのだから、興味は馬のごとく津々しんしんぞ。

 思えば、わたしが、この公国雅我国こうこががっく京師みやつこに到着してから、これで七日目になるが、いままで事件らしい事件もなく、ただひたすらのんびりというか、間が抜けているというか、切迫感の欠落したお暇な国だと思っていたが、ようやく、ようやく、わたしの出番と相成ったのであるな。

 

 おっ、たった今、右腹にくすぐる感触しるしがあった。小鬼魂が覚醒した証だ。急がねば。

 

 ガーランドは呆れて、もう部屋に姿はない。


 とはいえ、この夜着一枚では、恥をかくな。さてさて、そこでわたしは、国元から運んできた、柊ひいらぎの背負箪笥せおいたんすのふたを開け、急ぎとばかりに、丁寧に畳んであった錦糸刺繍タロットクロスの筒袖着を取り出した。貴婦人への手土産のつもりで叔母上の箪笥から拝借してきたのだが、この際だ仕方ない。いそいで羽織ると、ガーランドの後を追って部屋を出た。

 さあ、小鬼魂よ、そして皆の者、いざ現場へ出陣ぞよ。

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