第44夜
蛇が躍る。
根の触手は火種となって一匹の蛇を生んだ。ゴウゴウと燃え盛る火の大蛇は螺旋を描きながらヴェルディを追う。全身から放たれる熱波で目が痛む。柱から柱へと鎖を飛ばして炎牙から逃れるヴェルディを魔女は見物していた。
「ほらほら、今は手出ししないから頑張ってみなよ。焼け爛れる痛みはきっついんだよ」
「だったらこっち向けよ!」
ライフル弾がルクシィへ迫り、明後日の方へ消える。宙を漂う魔女は風の女王のようだった。見えない椅子に座るように足を組む彼女には一切の飛び道具が届かない。
「あんたは簡単に死んじゃうから嫌なのよね。その眼、傷つけたくないし」
「ならてめーがとっとと死ね!」
魔女に引き寄せられることを警戒し、レイニアは柱から姿を現すことはない。しかし柱の裏に隠れていても安全というわけではない。ルクシィの魔法はどんどん威力を増し、派手さに富んでいく。そしてさらに魔力を回復させているのだから。
魔女が人差し指を向ける。レイニアが隠れる地点へ。
青白い杭が音もなく発射され、豪速の一撃で柱は根元からへし折れ、地面に倒れる。
「ほんと言葉遣いが汚いよね。あんたの眼を移植して口調が移ったらどうしてくれんのよ」
それは敵に向けた言葉というより、独り言に近かった。
レイニアが特殊な眼を有する反面、身体能力や生命力が常人と変わらないことをルクシィは知っている。気まぐれで死んでしまう以上、期待する価値もない。
その傲慢さに唾を吐くように銃声が木霊した。
「あたしはお嬢様の所有物だ。てめーにやるモンなんざねえよ!」
攻撃される未来を視ていたレイニアは既に別の柱へと移動していた。
ルクシィの中で、わずかに評価が上がる。
「なら、これは?」
手をかざす。ずっと空を覆う曇天へ。今日はもう晴れないだろう。せめて雨が降らないことが不幸中の幸いだった。
その運を、ルクシィは己の力で、己へと手繰り寄せた。
曇天が渦を巻く。雷鳴の予兆が突然生まれ、上空の空模様は一変する。
雨が降る。雨音というのは地面や屋根にぶつかることで鼓膜を叩く。レイニアは生まれて初めて、音のない雨を聞いた。雨の気配を聞いている。聞こえている。耳ではなく、目で。
「……なんでもありだな、オイ」
「まだ死なないでよ。眼だけでどこまで足掻けるのか試したいからさ」
雨が降る。雨はすべてルクシィの頭上へ集っていく。蓄積していく。膨張していく。
やがて、小さな湖が空に出来上がった。
湖は粘土のようにこねくり回され、やがて一つのアギト、空想上の竜を生み出す。
それは生々しい造形で、着色すれば本当に生きた生物に見えるほどで。
爪牙が、個に迫る。
「……はぁ」
レイニアは未来を視た。
逃げ場はなく、血の柱が遮蔽物として機能することもない絶望的な結末。
途端に跳ね上がった難易度に悪態をつく彼女はその場から動きはしない。
大蛇が、空を駆る。
「邪魔しないでくれる?」
水竜はヴェルディが誘導した炎蛇と衝突し、相打ちとなった。竜はどんどん蒸発して実体を失い、蛇はその火力を衰えさせていく。濃密な蒸気が充満していった。
ルクシィはちらりとヴェルディを見やるが、体がそちらを向くことはなかった。
白煙の奥から鉛の気配が魔女を撫でる。
「お前、いま攻撃しなかったよな?」
「だから?」
「その変な風であたしから身を守るとき、攻撃できねえんじゃねえの?」
「正解、って言ったところでどうなるの? あんたらの攻撃は届かないよ?」
「てめぇの技に穴があるって分かっただけで充分なんだよ」
レイニアは柱に身を隠したまま虎視眈々と隙を窺っていた。
ルクシィは煩わし気に、声が聞こえる方角を睨みながら戦場の霧を晴らす。
優先的に排除すべきはヴェルディだ。それは間違いない。しかし未来が視える狙撃手が常に目を光らせている厄介さを、ゆっくりと噛みしめた。
「あまり戦いには慣れていないようだな。疲れたなら休憩してやってもいいぞ」
「……あんたたち、なんで必死に足掻くの? そこまでして生きたいの?」
「あたしはとっととお嬢様のもとに戻りてえんだよ。てめぇの世間話に付き合う暇はねえぞクソババア」とレイニアは吐き捨てた。
「その質問になんの意味がある」とヴェルディは訊き返した。
「言葉通りの意味だけど」
魔女は攻撃の手を止めていた。疲れた素振りはない。戦うことに飽きたのか。周囲を渦巻く風の結界の勢いを上げ、肉眼で視認できるほど。触れれば、骨が断ち切れるほど。
「この世界を守る価値はあるの? 愛する人の眼を通じて、そしてあんたらの眼を通じて、ずっとこの世界を見てきたけどさ。人間は愚かで醜くて、生きるに値しない。そうは思わない?」
「そうやって人間を見下すお前の方が愚かじゃないか?」
「まさか。私はただ静かに暮らしたかっただけよ。なのに、あの人間どもときたら……。昔はね、人間同士で争う分にはどうでもよかったの。でも今の時代の人間は駄目だね。つけあがりすぎ」
「だったらどっかの山にでも引きこもってろ!」
「それができなくなったって言ってんの。わかんないの? だから、神代の頃に戻すんだよ。神と魔が相争い続ける世界。人間が主役なんかじゃない世界にね」
「……何を言ってるんだ?」
「……ああ、そっか。あんたらは知らないのか」
話が通じない理由に合点がいったルクシィは子供に昔話を語り聞かせるような調子で続けた。
今も戦闘は続いているというのに、
「この世界には元々、神と魔が存在していたの。主導権を争ってね。神々は眷属を生みだし、魔族は魔物を増やした。魔女も元々は魔物の一つだったけど、時間の流れで色々と変わってね。戦い続けた魔女、神側に鞍替えした魔女、争いを厭って中立を選んだ魔女。それは他の魔物もそうだし、神の眷属も同じ。争いの余波で何度も人間は滅んでったわ」
「いい迷惑じゃねーか」
「弱者は淘汰される、それこそが真実だから。で、人間は神々に縋った。助けてくださいってね。そうして知識を得て、個は集団となり、国となった。けれどそこには……当時の人間の間には、くだらない権力争いや格差はなかった」
二人は訝しげに見上げるが、ルクシィは欠片も気にしていない。
懐古に浸るように、ゴロゴロと雷鳴渦巻く黒雲を見上げている。
「だってそうじゃん? 人間は神の僕となった。魔の軍団と争う役目を背負ったから、生きるために戦い、戦うために生きていった。見ていて楽しかったなぁ。純粋な命のやり取りだけが毎日続いて、軟弱なやつはいなかったよ。心も体もね」
「随分と人間が好きなんだな」
「まあね。私は中立だったし。遠くから見物してたよ」
「なら、今すぐどこかに消えて二度と私たちに関わらないでもらいたいものだ」
「それは無理。言ったじゃん、今の時代の人間はつけ上がりすぎだって。あの時は思い知らされたよ、まさかここまで根っこが腐ってるなんてさ」
人間を好いていた頃の、嬉々として語るルクシィは死んだ。
ヴェルディ達を見下ろす瞳から侮蔑の色が消え去ることはない。
永劫の中を孤独に暮らし、素性を恐れられ、転々と暮らした彼女がついに見つけた確固たる一つの繋がり。それは人間との交流によって生まれ、人間の悪性によって燃やされた。
「神と魔の争いは規模が小さくなっていった。そしたら人間は自立を主張したんだよね。自分の都合を優先して、悪だくみをして、神と魔を世界から遠ざけた」ルクシィは水色の髪を指先で弄りながら続けた。
「科学なんていうのは全部こじつけだよ? 雷雨も噴火も洪水も、ぜんぶ神と魔の怒りの具現なんだから。あと幽霊とか吸血鬼なんかもね。あんたら人間が世界を正しく認識できてないだけ」
「なら、どうして私たちはお前と会話ができるんだ」
「私の心が人間に寄り添った結果じゃない? 正確なことはわかんないけど」
「つまりてめぇは、その神だか魔の下っ端に過ぎねえんだろ? そんな奴が世界を変える? 本気で言ってんのか?」
「さっきも言ったけど、戦争の中で色々変わったんだよね。私は魔から産み落とされた一つだけど、魔の王に傅いてるわけじゃない」
それと、と魔女が補足する。
「私が本気出したら世界を一瞬で干からびさせたり凍らせたりできるんだから。みくびらないでよね」
雷鳴が轟き、豪雨が篠を突く。
その言葉が虚勢でないことは、直に実力を味わった二人には理解できる。
「わかった? この世界は汚れ切ってる。だから私が綺麗にしてあげるって言ってるの。邪魔しないでよね」
「……言い訳はそれだけか?」
「……いまなんていった?」
額から伝う雨水を拭うことなく、ヴェルディは魔女を睨んだ。
「お前の言い分も、結局は〈ラ・コトン〉の連中となんら変わらない。自分の都合で他人の人生を踏みにじる――私たちがこれまで殺してきた悪人と同じだ。随分と長く生きてきたようだが、どうやら視野が狭いようだな。たしかにその腐った目は交換したほうがいい」
「てめぇの言う通りこの世はくそったれなことが多すぎるけどな、それでも綺麗なモンだってあるんだよ!」銃口を向けてレイニアが吠える。
「綺麗も汚いもまとめて消そうとするお前はド三流の庭師だ。五千年修行してから出直してこい、老いぼれ!」
「そういうことだ。お前はここで殺す。そして……返してもらうぞ、私の友人をな」
「…………あー、そう。へぇ」
漂白。
魔女の顔から感情が消え去った。憎悪も侮蔑も。
それが一時の勘違いであると、身を以て思い知る。
「――――」
ヴェルディは五感を風に支配された。疾風が耳を斬り、世界が細切れになり、息を失う。
何の前触れもなく、ヴェルディの切り刻まれたのだ。
「ヴェルディさん!」
「そっちはゆっくり殺すとして、まずはあんた。もうさ、いいや。飽きた」
理性的な殺意。
今の今まで遊んでいたルクシィは、ついに理解したのだ。
己の肉を取り込んでも、所詮は人間。
こいつらこそ己の事情しか見ておらず、近視眼的。
脳天を穿たれて初めて、人間の本質に気づいたように。
時間が止まった。レイニアの周囲の雨が空中で凍りつく。
「その眼も要らない。死んでいいよ」
粒は等しく散り、霧となった。不愉快な湿度がレイニアを襲う。
レイニアの首の裏ではけたたましい警報が鳴っていた。
「ッ!」
背中を向けて、駆け出すレイニア。血の柱と草木にまぎれて、脱兎のごとく。
もはやどうでもいいことだった。大まかな位置だけでルクシィには充分だった。
「さようなら」
「くそっ――」
手向けの言葉を合図とし、空間が凝固した。霧が瞬間冷却され、氷となって爆ぜる。柱も草木も、地面すらも。冷たい殺意は美を体現した。破砕音を立てながら、氷がさらに凍り付き、形を為し、氷の園が完成した。
一つの命を葬るためだけの芸術品だった。
「おい」
「ああ、起きた? お友達の最期を見逃して残念だったね。見なよ、有終の美ってやつ?」
肉体を修復したヴェルディの眼にも、戦場の一部が様変わりしたことはすぐわかった。
わかってしまった。
このわずかな間に何があったのか。
「人間の最期ってほんとあっけないよねぇ。感動的に死ねる英雄なんてほんの一握り」
「……黙れ」
「もう抵抗するのやめれば? 一緒に戦ってくれる友達も死んだし?」
「黙れぇッ!」
ヴェルディは吠えた。ただ吠えた。吠えて、敵へ駆け出した。
喪失感に押しつぶされないように。
銃声は、もう聞こえない。
気の抜けた馴れ馴れしさも、剥き出しの怒号も。
聞こえることはなかった。
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