第38夜

「煙草は素晴らしいですよ。吸うと頭が冴えて気持ち良くなりストレスが吹き飛びます。食後によし、仕事終わりによし、お茶の御供によし。どうです、吸いたくなってきませんか?」

「肺が真っ黒になんだろうが! 肺活量も落ちんだろ!」

「それは煙草のせいではありません。人間の肉体が完全ではないだけです」

「さっきからふざけたこと抜かしてんじゃ、ねえッ!」


 逃げる相手を華奢な手足が追いかける。

 振りぬいた拳はゴムのように伸び、二つに分裂して敵を挟み撃ちにする。敷地の外側に届くほど伸ばした足を回転させれば、屋敷の屋根もろとも女を吹き飛ばす。

 はずだった。

 動きにくいメイド服を身に纏う女、ハンナは流水のように滑らかな仕草で徹底的にダヴィエンツの猛攻を回避する。背中を見せる逃走ではない。けれども、隙を突いての反撃を仕掛ける様子もない。


「さっきは俺の腕を食ったくせに、どうした! もう腹いっぱいになったのか!」

「おや、『食べた』という表現は面白いですね。私の小さな口であなたの腕を一口で食べられるように見えますか?」


 ハンナは奇襲を避けた直後、襲い掛かる少年の胸に狙いを定めた。

 そして今、屋敷の屋上で永遠と物騒なダンスに集中している。


「アホ言え、俺は知ってんだぜ、あんたの能力!」


 失敗したのだ。彼女の一撃は腕を食いちぎったが、


「あんたが指を閉じれば目の前の物をなんでも食っちまうんだ! 熊みてえにな! さっき俺の腕を食った時も指を変な形にしてたよなぁ!」

「ああ、こちらの能力はすべて筒抜けでしたね」

「だから咄嗟に体を硬くして正解だったぜ! じゃなきゃ今頃、俺ぁあんたの腹の中だったろうさ!」

「ちなみにお聞かせ願いたいのですが、同時に二つのことはできないのですか? 巨大化しながら分裂したり」

「俺がんな器用な真似できるわけねえだろうがよぉ!」


 ダヴィエンツの指摘通り、ハンナの能力は『咀嚼』である。

 彼女が指と指を重ねることで目に映る対象は噛み千切られるのだ。実態を持たぬ猛獣がとつぜん襲い掛かったように。屋敷を包囲したマフィアらが一瞬で細切れ肉になったのがまさにその証拠である。

 視認さえできれば射程を無視して叩きつけられる一撃。

 それはダヴィエンツを仕留められる威力には達していなかった。

 マフィアたちを


「てっきり雑魚かと思ったら意外と強くて、でも戦ってみたら大したことねぇじゃねえか! がっかりだぜ!」


 とびかかるように拳を振り下ろせば、屋上に大きな亀裂が走った。メイドはすれ違うように前転した。その隙に、なぜか新しい煙草に火をつけていた。


「煙草吸ってんじゃねえよアホ! 舐めてんのか!」

「いえいえ。言ったでしょう。煙草を吸うと頭がクリアになるんですよ。あなたの苛烈な連撃を交わし続けるのは疲れますからね。吸いながらじゃないとやってられないんです」


 煙草を咥えたままバク転したり仰け反ったりする方がよほど困難はずだが、ハンナは涼しい顔のまま、激しい運動をしつつ紫煙を堪能している。


「げほっ、くっせ! ドブみてえな臭いまき散らしやがって!」

「おやおや、子供にはこの素晴らしさが理解できませんか。嘆かわしいことです」


 挑発じみた台詞とともに、「ところで」と切り出すハンナ。


「あなた、まだ子供ですよね? 望んでこんなことをしているのですか?」

「はぁ? なに言ってんだ」

「あなたには未来がある。もし今の境遇に不満があり、これまでの行いを反省し、罪を償うのであれば、今後は普通の生活を送れるように手配することもできますよ」


 素行の悪い生徒を諭すように、説得と回避を続ける。屋根に亀裂が走りあちこち穴ができるも、ハンナはそのすべてを見て見ぬふりを決め込んだ。


「私は元々教師でした。子供は簡単に悪に染まりやすい。しかし生まれながらに持つ善性や純粋さは簡単には消えません。可能性を有するあなたを、私はできれば殺したくない」

「…………」


 ダヴィエンツが止まり、ハンナもまた棒立ちとなる。

 咥える煙草はすっかり灰となった。新たな一本に火をつけることはない。


「どうですか? 改心し、こちら側につくつもりはありませんか? もしかしてあなたも、ユリアリスと同じようにむりやり従わされているのではありませんか?」


 ハンナの言葉に打算は含まれていない。

 その善性は教職を目指した頃から不変。

 己のことは顧みず、されど周囲にはつぶさに気を配る。

 メイドとなる前から培っていた、どうしようもないお人よしさ。


「…………」


 返答が出るまでの一瞬。寂蒔が漂い。


「なに言ってんだよ、ば~~~かッ!」


 純粋な善意を、純粋な悪意が笑い飛ばした。


「好きなだけ暴れて、好きなだけ食う! イマが俺にとって普通で、最高なんだよ!」


 棒立ちの状態から急激に全身を巨大化させ、一息に飛びつく。通常の人体では成し得ない不意打ちにさしものハンナでさえ反応が遅れた。

 見誤ってしまったのだ。少年の奥底に宿る本性を。

 立ち止まっていたハンナが今更動き出したところで、巨人の射程からは逃れようがなかった。


「同時にできねぇって言ったけどよぉ――時間差でコンボ決めるのは得意なんだぜぇ!」


 回避後で硬直するハンナに拳が迫る。

 蒸気機関車の如き巨腕へと化ける非常識たる人体。

 ハンナはそれを食らい潰そうとするも、できなかった。

 その皮膚は、肉は、硬かった。硬すぎた。

 非常識な咀嚼を凌駕するほど、非常識だった。


  ◇


「逃げても無駄だよ」

「ひぃっ!?」


 一方、ガルガラはオーベックを執拗に追い回していた。

 現在、ウィズダム邸はガルガラの手中に収まっている。

 指は壁となり、あらゆる侵入を拒み、あらゆる脱走を阻む。

 すべての足音がガルガラに伝わる。手のひらの上を虫が転がるように。オーベックの居場所もガルガラに筒抜けとなっていた。

 建物の影。木々の裏。噴水の中。


「そろそろ隠れるのはやめてもらえるかな。生憎、物を壊すのは好きじゃないんだ」


 どこに潜もうと、なにを隠れ蓑にしようと、ガルガラは敵がいる大まかな場所をごっそり殴り飛ばしていく。壮大なスケールの害虫駆除が続いた。

 屋敷の設備を破壊する度、ガルガラは心の中で謝っていた。

 ごめん、マスター。わざとじゃないよ、本当に。


「くそっ、なぜ私の居場所がバレるんですか! こんな能力を使った記録は一度もないのに!」

「ユリアリスのおかげだよ。僕たちの能力はイメージによって扱い方が変わるって」

「あの女ぁ……っ! 女というのはほんとうに、どうしようもないですね!」


 オーベックは悪態を尽きつつも脳内で慌ただしく作戦を練っていた。

 脱出できないと把握した途端、ダヴィエンツがメイドを片づけるまで逃げようと決心したオーベック。しかし何度も繰り出される的確な攻撃が彼をイラつかせた。

 一方的に攻撃されるこの状況をどうにかせねば。

 オーベックの目に開け放たれたドアが映った瞬間、全力でその内部を目指した。


「建物の中ならあなたも乱暴な振る舞いはできないでしょう!」

「かもね」


 俊敏な影は瞬く間にガルガラの視界から消え失せる。しかし、彼の巨大な手の平から伝わる疑似触覚は絶えず敵の居場所を報せてくれた。

 入り口から入ってすぐ、右上の壁を殴り飛ばした。


「おぉわっ!?」


 情けない男の叫び声が木霊し、どんどん建物の奥へと進んでいく。


「あなた馬鹿なんですか!? 壁を崩せば、あなただって下敷きになるでしょう!」

「君が今ので死んでくれればこれ以上壁を壊さずに済んだんだけど」

「お黙りなさい!」


 オーベックは逃げながら吠えた。


「だから嫌なんですよ、女というのは! 大人しく死んでいればこんな面倒な事態にならなかったというのに!」

「独り言が上手いね、君。女性が嫌いなんだ」

「えぇそうですよ! 女というのは知能が低く、身勝手で、能無しですからね!」


 ここは有事の際に使用する別棟。

 屋敷から独立した三階建ては月に一度の清掃がされるものの、雑多な物であふれている。廊下は長く、階段を駆使すれば相当の時間稼ぎができるだろう。

 しかしドアはすべて閉じられており、逃げることはできても隠れられる場所はほぼゼロである。もっとも、隠れたところで意味はないので部屋に入るつもりはない。


「男が上に立ち、奴らを導かねばなりません! この社会は男を中心に回っています! 会社の社長と言えば誰もが男でしょう! つまり女とは、生まれながらに男よりも劣った下等な存在なのですよ!」


 虫の如き俊敏さで壁を走るオーベックの口も止まらない。


「僕はそうは思わないけどね。家に帰れば暖かいご飯が待っている。それは誰のおかげだと思う?」

「は! 誰にでもできることを特別なことと捉えるとは! なんと愚かしい!」


 ゆっくりとした足取りで階段を登るガルガラの耳に、反響するオーベックの声が届く。

 オーベックは三階にてガルガラを待っていた。ガルガラが三階に到達するや、反対側の階段を使って下へ降りる。それを繰り返してガルガラの体力を消耗させる算段であった。


「ああでもそうですねぇ。カラダを使って男を喜ばせることは女にしかできませんねぇ」

「…………」

「ここの使用人はどいつもこいつも戦闘経験が豊富でとても抱き心地がよさそうではありませんでしたが……ご令嬢は中々。やることを終えたら、あの小娘を使って遊んでみるのはいいかもしれませんね」


 オーベックは影の内側で息を荒くしながら舌なめずりをした。

 隙を伺って攫うこともできなくはなかったが、ウルスカーナも作戦における要であったため、ズインから手出しを禁じられていたのだ。

 アレックスが聞けば千を越える罵声を浴びせていただろう。

 しかしガルガラがその語りに返事をすることはない。


「おや、どうしたのですか? もしかして階段を登るだけで息切れしてしまったとか? 情けない。いけませんね、根性が足りませんよ」


 その挑発への返事もない。が、オーベックは奇妙な音を捉えた。

 ゴツン。ゴツン。机の上に机を乗せているような音。いや、もっと重いなにかが。


「……上でなにかをしているのでしょうか?」


 しかしガルガラがこれ以上オーベックを追いつめることは叶わないだろう。

 ダヴィエンツが奏でる崩落の音色を待っていればよい。ガルガラが攻撃できるのは視界に映るモノのみ。階段を利用すれば安全に逃げ続けられる。

 そしてガルガラの足音がゆっくりと降りてくることに気づいたオーベックは、反対側の階段、つまり先ほど上った階段へと戻った。


 奴はいつまでこの鬼ごっこを続けられるでしょうね。

 ほくそ笑むオーベックは、しかし、階段を利用することはできなかった。


「……なんですか、これは」


 先ほどまでただの階段だった場所には、正方形の木箱が寸分の隙間もなく積み上げられ、壁となっていた。


 足音が、後ろから迫る。

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