悪人は埋めるに限る~生き別れの友人を探して裏家業に没頭していたらその友人を殺すことになった女の話~

ね。

1章 埋葬屋

第1夜

 夜の道を馬が走る。

 馬上の男は走者よりも息を荒げていた。今にも心臓がキュッと締め付けられて死んでしまいそうな顔つきで、口を大きく開けたまま。


「やっぱりそうだ! 裏切ったんだ! あいつ、俺たちを裏切ったんだ!」


 自動車の普及に伴い馬車はすっかり活気を失った。夜の大通りを駆け抜けるその姿は街の眼を惹きつける。一心不乱に街道を走れば人波が消え、排気ガスの香りも消え、建物の連なりも消えた。


「伝えねえと! あいつらに! 『埋葬屋』だ! あいつが『埋葬屋』! このことを、あいつらに――」


 彼の背後に張り付く死の気配は、むしろ色濃くなっていた。

 宵闇を滑る毒々しい黒が男に絡みつき、生者の足首を掴む死霊さながら馬から引き落とす。

 中老に差し掛かった男の肺が途端に締め付けられる。気を失いそうな眩暈の向こうに、男は見た。

 のっぺりとした赤黒の骸骨。闇夜に溶けるような色合いの肉体。この世ならざる者を。


――化け物!


 男は叫ぼうとした。しかし今際の際でできたのは必死に酸素を求めることだけ。

 どこからともなく現れた、月明かりに浮かぶ鋭利さが猛然と迫るのを見るだけだった。




 翌日。新聞やラジオが大々的に報じた。

 ブルジョワとして名高いガウレス家。その当主ルゥ=ガウレスが亡くなったことを。

 正確には、殺したことを報せる手紙が届いたことを。

 その手紙を差し出した者の名は『埋葬屋』。

 かの者から手紙が届けば、その手紙に名前を書かれた人物が姿を現すことは二度となくなる。


 存在そのものを、どこか遠い所へ埋められ葬られてしまったように。


  ◇


「また『埋葬屋』か。おっそろしいねぇ。これで何人目だ?」

「おいおい、雨が来るたびに回数数えてんのか?」


 暗い木目の床には不特定多数の足跡が残る。昼だというのに壁や天井に取り付けられたランプは既に活発だ。外は生憎の雨模様。今日一日は悪天候が続くと喫茶店のラジオが報じていた。


「なんで捕まんねえんだろうなぁ。殺したことをわざわざ教えてんだろ? こんな目立ってんのに不思議だよ。巷じゃ義賊とか言われてるけど、俺は不安だぜ」

「しょうがねえよ。そいつが殺した相手は死体が見つかんねえんだから。手がかりがなきゃ、物語に出る凄腕の探偵だって推理のしようがねえだろ」

「まあなぁ。……にしてもまた貴族か。運送会社のルゥ……? あっ、この人、俺の近所の道路工事に出資してた人じゃねえか。業績が落ちたから麻薬の密輸してたってのかよ。じゃあなんだ、俺が歩いてきた道は麻薬でできてんのか?」

「ははっ、歩く分には石も草も変わりねえよ」


 ウェイターと男性客の愉快な会話を、常連であるヴェルディは聞き流していた。


「…………」


 菫色の眼差しは切れ長で、視線が合う者の背筋を震わせる。黒いショートヘアーは星のない夜空のように深い。ジャケットスタイルの装いが常で、時折男性に見間違えられる。

 食後のデザートを平らげた彼女はマフラーをしっかりと首に巻いて席を立った。


「……ごちそうさま、ガルガラ。美味しかったよ」

「どういたしまして。忘れ物はないよね?」

「あぁ」


 一枚の手紙をひらひらとヴェルディが見せる。ガルガラと呼ばれた大柄な店員は笑顔で頷いた。


「おうヴェルディ。俺にも労いの言葉くれよ」


 おしゃべりなウェイターのキオがレジに立ちながら軽口を叩く。

 ヴェルディの顔はたちまちじっとりとした。雨に濡れたように。


「お前はその無駄口を少し減らせ。客の迷惑だろ」

「俺だってその辺はちゃんと弁えてるぜ? なぁ?」

「さぁどうだかなぁ」と振られた客人が上機嫌に応えた。

「ここの人たちは優しくてよかったな」と呟きながらヴェルディは会計を済ませた。


 ドアを開けてヴェルディは躍り出る。

 この国スィル=クリムの年間気温は変化に乏しく、夏の時期でも夜は長袖が欲しくなるほどだ。ただいま四月中旬。季節は春の始まり。雪は見かけなくなったがまだまだ冷える。

 雨空を見上げるヴェルディの目は少し重い。


「……めんどうだな」


 それは雨の中を歩くことに対してか――

 太陽の隠れた陰鬱とした雨空の下、大通りは人混みと活気に溢れている。

 傘を差して濡れた道を歩く。

 ブーツを動かすたびに、耳障りな音がした。


  ◇


 数刻後、夜――


 月明かりのない鬱屈とした寒空の下、裏路地は悪臭と殺意に溢れている。

 傘を差さずに濡れた道を歩む。

 ブーツを動かすたびに、耳障りな音がした。


「ひぃっ! ひいぃぃ! 待て、待ってくれぇ! 俺が悪かった! この通りだ!」

「どうした? お友達がいないと吠えることもできないのか?」

「さっきは、その……悪かった、この通りだ! 俺はただ依頼されただけで、あんたを恨んでるわけじゃあない! 頼む、許してくれ! 金ならいくらでも払う!」


 ヴェルディは人気のない裏路地で尻もちをついた男を見下ろしている。

 人気はない――なぜなら、彼女を取り囲んでいた十人ほどの男は皆、もう息をしていないから。ざあざあと降り注ぐ雨でも流しきれない赤黒い汚れがそこら中に飛び散っていた。

 ヴェルディの全身は返り血を纏っていた。血液で織られたスーツだ。足先から首まで、わずかな肌色すら見えやしない。髑髏の仮面から覗く菫の眼差しは、雨よりも、転がる肉塊よりも冷たい。


「へぇ? 誰に依頼されたんだ?」

「へ……? い、いやいやいや! 待て、待ってくれ! そりゃ、そりゃあだめだ! んなことしたら俺は結局――」


 言い淀む男の鼻先に時代錯誤な長剣が向けられる。それは柄も刃も、構成要素のすべてが赤黒く塗り固められていた。その切れ味はすぐ傍で転がっている仲間たちが保証している。


「スコット! アーリンドレスのスコットだ!」


 男はすんなり白状した。依頼主を暴露するのは裏家業のご法度と知りながら。


「そうか、ありがとう」

「な、なぁ、頼む、許してくれ、おれは――」


 懇願は緩慢な一振りで薙ぎ払われた。

 恐怖で固まった男の顔は、まさしく凍ったように眉すらも動かない。

ごとりと転げ落ちた、首と支える力。図体が仰向けに倒れ、水と血が跳ねる。

 雨が流れ、音が跳ねる。


「贅沢言うな」


 雨音に罵りを溶け込ませたヴェルディはその場にしゃがんだ。

 そして地面の錆びに触れて数秒後、すくっと立ち上がる。

 その手には、グルガーと呼んだ男の懐中時計が。


「聞いていただろう。……あぁ、伝えておいてくれ」


 今度こそ、周囲からは命の温度が消え失せた。

 だというのにヴェルディは誰かに話しかけている。

 それを聞く者はいない。

 スィル=クリムで平穏に暮らす秘訣は面倒ごとに介入しないことだ。

 そして此度の面倒ごとは誰にも知られることはない。

 路地裏が言っている。なにも起きなかった、と。

 飛び散った血飛沫も、転がる遺体も、掃除されたように消え失せていた。

 誰のものかもわからない衣服はきっと、ホームレスに拾われるだろう。


 殺害の証拠だけがどこかに埋もれてしまったかのように。


  ◇


「ご苦労だった、ヴェルディ」

「労うなら仕事が終わってからにしてくれ」

「感謝の言葉はいつ言ってもいいだろう。特に、私のように寿命がとつぜん切れてしまうような人間はな」

「……縁起でもないことを言うな。そうならないようにするためにわざわざ私がいるんだろう」


 翌日。

 曇り空の下、ヴェルディは車に揺られていた。ただ椅子に座っているだけで景色が勝手に流れていく。靴磨きの少年、花売りの少女、スーツ姿の会社員、ドレス姿の貴婦人。建物はどれも同じ焦げ茶色。縦に長く、屋根は鋭く、看板がなければ区別は難しい。

 煉瓦で舗装された道路には水溜りが残っており、鈍色を映す鏡となっていた。

 車の運転ができない彼女は運転席からの視点を知らない。

 そしてヴェルディが車に乗るときは決まってある男性が隣に座っている。


「ディルファイア。嫌なら私に任せてくれればよかっただろ」

「せっかく実った果実の収穫を他人に任せる農家はいないだろう」

「それが傷んでいても?」

「長い付き合いが生んだ傷であれば、なおさら当事者が責任を取るべきだ」


 ディルファイア=ウィズダム。

 国内大手の製菓会社、ウィズダム製菓の相談役。社長の座は息子アレックスに譲ったものの、こうして日々なんらかの仕事をしている。トレンチコートを着こなす姿は齢六十とは思えないほど。座っている姿は大樹の幹のように真っすぐだ。

 

「ヴェルディ。これから先、君はしばらく傍観に徹してほしい」

「演劇でも見るように?」

「あぁ。立ちっぱなしだがな。ただ、私が『いい』と言ったら、その時は君にも役を演じてもらいたい」

「できるだけ楽な役だといいんだがな」と無感情に返事をしつつ、昨晩グルガーから抜き取った懐中時計をディルファイアに渡した。

「……そうだな」


 ディルファイアの表情は岩のように硬い。ポマードで固めた白髪よりも。

 それはいつものことだった。

 常に前を見続ける黒のまなこが足元へと落ちていることだけが、普段とは違っていた。


 二人を乗せる車は、アーリンドレスの本社へと向かっている。

 社長である男の名は、スコットという。

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