01白黒バイナリー・クリック
白黒バイナリー01
隣に座っている女子高校生のパンツが何色であるか。想像し、考えることを妨げる法律はこの法治国家にはない。同様にして就職先を企業側からの圧力によって決定させられる法律もない。むしろ職業選択は権利の一つであると、日本国憲法第二十二条第一項に記されている。分厚さだけが取り柄の、今手にしているこの法律の本で調べればすぐに分かる。中が受験では当たり前の常識。もう本を閉じてしまったので正確にはなんて書いてあったか忘れてしまったが、意味を把握していればいいだけの常識問題。今はそれで十分だった。
その日はとても暑く、アイスが食べたい日であった。隣に座っている二人組の女子高生は写真投稿用アプリケーションに載せる写真を撮る暇もなくその雪だるまにかぶりついていた。しばらくすると溶け出すその様に慌てるほど純心である。アイスは冷たくて美味しいもの。被写体ではない。よくわかっている。
「あづい……」
秋も深まってもおかしくない暦の今日、まともな夏を提供しない北海道に代わって本州から遅れてやってきた残暑が届いた。おかげで今日はとても暑かった。雲一つ現れる気配のない空はその暑さに拍車を掛けて、無駄に広いだけの果てしない大空と広い大地のようにどこまでも続く。この暑さは終わりを迎えることのない絶望が永遠に続くような気がした。最悪だ。
この炎天下で暑さを真正面から生真面目に受け止めていたのは、ここで待ち合わせをしているからだ。四人掛けベンチに座っているのは三人。法律の本を日除けにならないかと顔に被せて重さを感じて寝たふりの俺と、その隣に腰掛け二人の女子高生だけだ。彼女たちは今この場所のこの瞬間のこの暑さを共感できる唯一の証人であったが、アイスを食べ終えるとベンチから立ち上がった。暑さで様子がおかしい俺を不審者だと判断したかもしれない。それは正しい。こんな姿では待ち人も声をかけることすらできないだろう。何をしているんだかな、本当に。
「遅いなぁ、セイヤ」
セイヤ。雁来成哉。
この街でその名を知っている人物がいれば、そいつは厄介なトラブルに見舞われた不幸者であると断言できる。彼は俺と同い年の友人である。今日は彼の君命が届いたので、待ち合わせていた。俺は竹馬の友であるという運命の黒い糸のおかげで、何かあるたびに呼び出されるのである。また、法学部でもないのに法律書を読み込んでいた理由は、今回の依頼人に必要だからだそうだ。法律が必要な相談者。嫌な予感しかしない。少なくとも単純な問題ではないだろう。俺は法律の専門家ではない。この法律の辞書のどのページが必要で、どう使う予定であるか。もちろん何も言われていない。言葉が足りないんだよな。口数の少ない寡黙な我らのリーダー、ビッグボス。
「あの」
か細い声が聞こえたと思ったので俺は本をどけてその声の持ち主を探した。それは先ほどのアイスクリームの女子高生であった。
「あの、さっき向こうで無料券もらったので。良かったら、これどうぞ」
アイスクリームのタダ券。俺は突然のサプライズにむせび泣きそうになったが、これでも一応大人なので我慢した。
「ありがとう。気持ちだけもらっておくよ。お嬢さんが有効に使ってくれ」
得体も知れぬの大の男一人と、うら若き女子高生二人。三人でアイスクリームを食べる。それはそれでいいかもしれないが、考えるまでもなく今はそんなことをしてる場合ではない。少しだけ、と思って休んでいたら本命が来る可能性はいくらでもある。そんな姿を目撃されたら一発通報だ。これでも一応、この街の界隈では名前が通っている。アイスクリームおじさんなんて通り名がついたら困るぞ。
「今度から待ち合わせはクーラーの効いた喫茶店にしよう……」
それはここを待ち合わせにされたから実現できなかったことではあるが、俺が懇願すれば場所ぐらいは変えてくれたかもしれない。成哉のことだ。本人からの呼び出してではあるが、きっと本人は来ないだろう。誰か別の代わりの人間がここに来る。そして要件だけ俺に伝えて終わる。伝令の到着待ち。またしても何も知らない俺だが、それはいつものことだった。それならばなおさら喫茶店で良かった。どうしてこんなところを。
「あ、あの……」
それはどうやら俺に向けられた言葉のようだった。またアイスクリームの女子高生ふたり組だった。周りを見たが、他には誰もいなかった。俺に話しかけたらしい。人見知りの激しい俺だったが、なるべく笑顔に努めて答えることにした。
「はい。なんでしょう」
「もしかして、ソウさんですか?」
「ええ、そうですソウといいます」
これは俺にとって十八番の定番自虐ネタ。そうです、茨戸創です。誰にも通用したことがないが。
「バラト、ソウさん」
「はい。茨戸創といいますが……」
二人の女子高生は互いに顔を見合わせた。そして笑顔で手を取りあった。なんだ、この二人。ひょっとして付き合っているのか? 多様性の時代だな。
「私たち、セイヤさんって人にここで待ち合わせるように言われたんです。ひどく人見知りな人がいたら、それがソウさんだって言われて」
なるほど、今回は依頼人を直接送り込んできたか。そのまま話を聞いて解決しろというわけだな。
「じゃあ、君たちが依頼人?」
「はい。お願いできますか?」
そうか、俺の周りをうろうろしていると思ったらそういうことだったか。早く言ってくれよ、熱中症になるところだったぜ。
「もちろん、オーケーさ。そのためにここへ来たんだからな」
「じゃあ、お願いします。私たち殺してほしい人がいるんです」
俺はその純心な笑顔とはかけ離れた言葉に眉をしかめた。ため息とともに顔を覆いそうになったが、もう立派な大人なのでため息だけで誤魔化した。
***
炎天下で何もしないだけでも辛いというのに、そのまま殺人の依頼を聞かねばならないというのは余計に辛いものである。
何が辛いかって、そりゃあ、誰かが誰かを殺さなければいけない状況へ追い込むこの世の中を知ってしまったことが辛い。人間は変わらない。変わることができるのは周囲にある環境と取り巻きの状況だけ。逆に言えば、周囲の環境と状況次第で人間の性格は変わり、成形されていく。誰かを殺すためだけに生まれてきた人間などいない。殺したいほどの感情を喚起させる人間若しくは殺したくなるような環境にいたことになる。果たして、彼女たちはどのような世界を見てきたのか。どのような景色が殺害依頼をするまでに至らせたのか。まずはそこからだ。
俺は当人における現在の社会的背景よりも過去に過ごしてきた光景に注意を向けることにしている。イギリスで一番冴えているベーカー街の探偵だって『過去のすべてを理解できれば、未来に起こるすべてを理解できる。探偵とはそうあらねばならない』とか言ってた気がする。違ったっけ?
最初、俺は近くの喫茶店に入ってふたりの話を聞こうと考えた。もちろん理由は暑かったからだ。なんでもいいから涼しいところが良かった。しかし、いつも訪れている喫茶店へ出向いてみると臨時休業だった。他の店を探してもいいが、理解のない店で事件の話をすることは憚られた。どこでも殺人の話ができるわけじゃない。我々の仲間がいる場所以外は安心できない。
やむを得ず、俺は彼女たちを我が家へご招待することになった。最も安全な場所である。盗聴盗撮が当たり前の世の中だが、こんな仕事をしている。抜かりない。俺の提案に彼女たちは拒否も拒絶もせず、何も言わずにニコニコしながら付いてきた。それを見て俺は大丈夫かなと心配した。無論、いかがわしいことをするつもりも、予定も気持ちも何もないが、大丈夫か。自分から呼んでおいてなんだが、そこまですんなりと快諾されると一種の不安を覚える。もう少し警戒心を持ち合わせた方が良いのではないかと、心から思った。
***
女子高生二人組の名前は「ハイツ」と「パイ」というそうだった。どちらも中国語読みらしい。中国と日本のハーフとかだろうか。中国そのふたつの中国語の意味を聞くなりスマートフォンの検索で調べてみた。前者は子供で後者は白の意味。ただ、中国語で白は「無知、痴呆」などの意味でとらえられることもあるため、本来名前として使用されることは少ない言葉だという。俺は本人に直接中国人なのか尋ねてみたが、答えは濁されてしまった。不正解じゃないけど、間違いでもないというところか。否定できないけど、黙秘する。やはりハーフとかクォーターとかだろうか。
もちろん、どこの国の人かと聞かれて、答えを濁したことは大正解。正しい。自分がどこの国の人物か、確たる根拠をもって高らかに宣言できる奴はこの世界にはどこにもいないだろう。一応それらしい理由付けをすることは可能だろうが、果たして何をもって人種を判別する。出身地か? 育った土地か? それとも土地ではなく祖先か? はたまた現在の生活拠点か。何をもって彼女たちを中国人と呼び、この俺を日本人と呼べるのか。少なくとも俺はその正しい物差しを持ち合わせていない。早すぎる判断と決めつけは人の思考を濁らせる。
俺はそれから本題の殺しの話を聞いた。自分が殺人者になる、もしくは殺人を誰かに委託しようというのだ。穏やかではない。話によると殺してほしいのは現在の養育者、つまり親代わりの親を殺してほしいとのことであった。無論、ハイそうですかと簡単に頷いて引き受けるわけにはいかなかった。なにせ人の命を奪うというのは文字通り犯罪である。法律の本で調べるまでもない。倫理という観点からも、人権という視点からも、たとえ相手がどんなに悪いことをしていたとしても被害者にとっては理不尽な災難でしかない。俺も悪友の手伝いを行っている身分であるため、潔白ではない事件に百件以上首を突っ込み続けてきたが、そのうち殺しに関わったのは今まで二回のみ。もちろん俺が誰かの命を奪ったことは一度もない。殺しを目の前にしたのは殺人事件に巻き込まれたときだけ。俺はこの街の問題解決のプロであるかもしれないが、殺しのプロではない。暗殺者じゃない。だから彼女たちのそのままの意に完全に沿うことはできない。別のアプローチが必要だ。さて、どうするかな。
寝床として借りている俺のアパートは古かった。朽ちて腐った木造の二階建て。入り口を抜けて地下へと向かうと部屋がある。地下だからクーラーがなくても年中涼しい。冬は寒い。ちなみに一階と二階は火事で全焼した。
地下には住居スペースが全部で十も存在している。最初は数えるほどしかなかったがだいぶ増えた。入居者は大家を含めて六部屋七人。空きは残り三部屋だったはず。ちなみに俺は家賃が無料である。火事の被害者だからってことだ。その代わり火事を起こした住人の家賃が三倍となっている。地下だけに地価が安いらしいが、果たして放火魔の家賃がいくらなのかは俺の知るところではない。
「ここ、お化け屋敷みたいですね!」
この二人のうちよく喋る方がハイツ。静かなほうがパイ。俺は探るようにそれとなく聞いてみる。
「ええと、ハイツさん。その、何か良い呼び名ないですかね。どうも呼びにくくて」
「そりゃそうですよ。普段その名前で呼ばれることないです」
あら、そうですか。
「私はクロと呼ばれることが多いです。クロです。シロクロ姉妹です」
「じゃあ、ハクさんはシロでいいの……ですか?」
「はい。シロで。あと、たぶん年下だから敬語はいらないですよ」
それはありがたい申し出だ。遠慮なく使おう。
「では、クロさんとシロさん。あらためて、よろしく。俺に何かできるか分からないけど、依頼を受けた以上全力を尽くすよ」
ふたりはずっと手をつないでいた。なるほど、姉妹か。仲良し姉妹。だからふたり仲良く人殺しをしようとは、由々しく思えて仕方なかったが。
***
俺の部屋は四畳半が三つ。計十三畳半。広いだろ? 仕切りはないので、恥ずかしい物も、恥ずかしくない物も無差別に見受けられる。生活感はものすごく存在し、しかしだからと言ってゴミ屋敷ではない。清掃もきちんと行っているし、洗い物をため込むこともない。まあ、自分のものしかないからって言うのもあるけど。他の人、例えば恋人のような関係の人が同棲しており、その他人の分まできれいにできるかというとたぶん無理。変に気を使うから全部できないと思う。
「さて。では改めて確認するけど、殺してほしい人とは君たちの現在の養育者、つまり父親に当たる人物で間違いないんだよね?」
「そうです、そのとおりです。ありがとうございます。お茶をいただきます」
俺はペットボトルのお茶を二本渡し、二人に振る舞った。続ける。
「理由を聞かせてもらっても」
「殺してください。生きる価値がありません」
うーむ、それでは理由がわからない。彼女たちの意志の固さはわかったけど。飲んだ後はパフェで締めることを譲らない派閥の意思よりも固い。ちなみにこの派閥はやっぱり締めはパフェでしょとか言いながらちゃっかりラーメンで締めることもよくある。
「一応言っておくけど、俺は裏稼業の人間ではない。街のオーガナイザーかもしれないが、暗殺者ではない。この街には裏はあっても裏の人間などいない。それっぽく気取っているだけだ。だから『この人を殺してください』と言われても『はい、分かりました』とは、たとえ頼んだ相手が超能力者だったとしても言わない。理由を聞かせてくれよ。動機を、これまで何があったのかを聞かせてくれ。考えることは、俺の得意分野だ」
「やっぱりそうですよね……でも、やっぱり、許せない」
ふたりは諦めたように表情を沈ませた。どうしても理由は口にしたくないようだった。仕方ないから俺は話をしやすくするような言葉をかけた。その表情は一瞬でもとの仲良し姉妹の笑顔に戻った。
「人間の殺し方って、心臓を止める以外にも色々ある。誰もが思いつくような疑似殺人ではない、安易な思いつきではない方法。しかし言われてみれば誰でもわかる単純な方法さ。成哉が動いたんだ。何かあるんだろう。どうせやるしかない」
「できるのですか!」
「一概には言えない。ケースバイケース。どのみち、どんな結末でも殺しは殺し。残酷で無慈悲な手段だ。罪は背負わなくてはいけない」
ふたりは困惑していた。無理もない。俺もノープランだった。
「さっきも言ったけど仕事は受ける。君たちの問題を解決する。どのみち無下にはできない。理由が話せないなら調べるさ。とりあえず、父親の住所を教えてくれないか。名前も分かると助かる。その様子だと一緒に暮らしてはいないんだろ、どうせ」
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