掌の中の世界

あああああ

究極の舌

 天気の良いある日の昼下がり、軽食店『エフ』に一人の男性客が訪れた。その男性客は薄灰色の着物に茶色がかった羽織を身に着け、手に持っている絢爛華美な装飾の杖は、彼の趣味の悪さを誰が見ても疑う余地がないものにしている。

 長く白い口ひげは、上向きに伸びた角のように整えられていた。和服を着た、白ひげのサルバドール・ダリといったところか。


 男性客は受付の女性従業員に「一名様でしょうか? でしたらカウンター席に……」と言われるもそれを無視し、誰かに案内されるでもなくズカズカと店内をつき進み、たまたま空いていた店の奥側の、窓側にあるテーブル席のソファに大股開きで腰掛けた。


「おい!」男性客が大声を出す。


 ウェイターが早足でテーブルに着くと、男性客は間髪入れず「この店で、一番美味いものを出せ」とウェイターを脅すかのように尊大な口調で注文する。


「一番美味しいもの、ですか」

「そうだ。早くしろ! 儂は腹が減っているんだ。今すぐに持って来い」


 ウェイターの眉が、ひくりと動く。


「申し訳ございませんが、お客様。見ての通り店内は大変込み合っておりまして、お料理の到着が、多少遅れることもございます」


「ええい、儂を誰だと思っておる! レビューサイトやSNSで儂が一言、悪評を書けばこんな店、簡単に潰せるんだからな!」


 男性客はウェイターを睨みつけ大声で怒鳴った。異様な空気に店内は流石にざわつき出す。


「おいおい、あの爺さんってまさか……」

「ああ、テレビで観たことあるぞ」

「ハイパーグルメインフルエンサーの大徳路おおとろ 喜八郎きはちろうだよな?」

「あの、『究極の舌』を持つっていう……」


 常連客たちがひそひそと話す。本人たちは小声のつもりだったのだろうが、そのひそひそ話は喜八郎の耳にもウェイターの耳にも、しっかりと届いていた。


「お前さんも、聞こえていただろう? さあ、店を潰したくなければさっさとシェフに作らせてこい。この使いっ走りが」


 ウェイターは、ひくつく眉を落ち着かせ呼吸を整えると、まるで何事もなかったかのような笑顔を見せ、「かしこまりました。すぐに持ってまいります」と喜八郎に告げて厨房へ向かった。


 数分後、ウェイターは喜八郎の席に大きな皿に乗せられた料理とともに戻ってきた。「お待たせいたしました」


「ふん、なかなか早く来たじゃないか。で、それは何だ」


 ウェイターは喜八郎のテーブルに、そっと皿を置く。「当店自慢のステーキでございます。どうぞ、お召し上がりください」


「ステーキくらい、見れば分かる! 儂は料理の説明をしろと言っておるのだ! バイト風情にはそんなことも分からんのか!」


 喜八郎の怒鳴り声は店内のどこにいても聞こえるほど響いた。離れた席の客でさえ、身に覚えのない説教をされた子どものような顔をしている。


 ウェイターは、怒鳴り声を眼の前で浴びたにも関わらず、整った笑顔を寸分たりとも崩さずに料理の説明を始める。


「こちらのステーキは、国産和牛の仔牛一頭から、わずか二百グラムしか取れない部位を使ったステーキでございます。契約牧場から直接納品されておりますので、本物であることに間違いはございません」


 喜八郎の顔色が少しだけ緩やかになる。

「ふんふん、なるほど」


「その希少部位を、当店が契約しているワイナリーで製造された、国産高級あんずの十年もののワインに漬け込み、徹底した品質管理のもと熟成された肉をトリミングして丁寧に焼き、ソースはそのワイナリーで作られた高級ワインをベースに、高知県産の高級かぼすを使用した自家製ソースとなっております。どうぞ、ご賞味ください」


「それは素晴らしい。なるほど外観のわりにしっかりとした店なのだな。これだからグルメハンティングはやめられない」


 喜八郎はステーキをナイフで大きめに切り分け、がぶりと一口で頬張る。少しだけ咀嚼し飲み込むと、彼はみるみる上機嫌になっていった。


「素晴らしい、この、仔牛特有のきめ細やかな歯ざわりと柔らかさ、熟成させることによって更に至高の食感へと昇華しておる! 『飲める肉』とは良く云うものの、ただ飲むだけで済ませてしまっては勿体ない、すばらしい食感と味だ! かぼすもただのかぼすでは無いな!?」


「はい、先程もお伝えしました通り、高知県産の高級かぼすでございます」


「ふむ、しかし、ただの高級かぼすなどではなかろう」


「ご明察、恐れ入ります。そちらのかぼすは高知県のある山奥の、知る人ぞ知る伝説のかぼす農家様が、自身の認めた店にしか卸さない、――市場に殆ど出回らない、まさしくの高級かぼすでございます」


 喜八郎のナイフとフォークは皿の上で華麗にタップダンスをする。ひと口、またひと口。あっという間に喜八郎の皿はソースも残さず綺麗に空となった。

 食べ終わって満足そうな表情を浮かべ、天井からぶら下がった照明を見つめる彼に、ウェイターはそっとグラスを出す。


「……これは?」

「水でございます」


 このウェイターから出された水。――ただの水では無いのだろう――、そう勘繰ったような目でウェイターを一瞥した喜八郎は「一応、訊くがな。……何の水だ?」と呟いた。


「この水は、奥大山の更に奥、そして六甲山の秘匿された水源、さらに阿蘇の秘境から採取された水をブレンドした、当店オリジナルのミネラルウォーターでございます」


 それを聞くなり喜八郎は、よし来たと言わんばかりにグラスの水をぐいっと飲み干す。

 そしてボロボロと涙を流しながら震える声で語り始めた。


「嗚呼、ただの水にここまで儂の心を持っていかれるとは。この店は、こんな最高の水ですら、サービスで出しているのか?」

「はい。お客様は神様でございますから」


「素晴らしい……。この店は日本が誇るべき究極の名店だ! いくら出せば良い? 言い値で払おう」


 ウェイターは、少し困った表情を浮かべる。しかし、その表情も川劇せんげき変臉へんれんのように素早く、整った笑顔に変えた。


「でしたら……、お客様が納得の行くお値段で、そのままお支払いください」

「よかろう。最初の非礼の分も込めて、これだけ置かせてもらう」


 懐から札束を二つ取り出した喜八郎は、それをテーブルにそっと置く。


「今までで一番、素晴らしい店だった。贋作にせものばかり蔓延はびこるこの飲食業界で、真作ほんものに出会えたこの日を儂は忘れはせんよ。『エフ』、か。覚えておこう」


 そう言い残し、取り憑いていた悪霊が祓われたかのような清々しい笑顔で喜八郎は店をあとにした。


「ありがとうございます。またのお越しを」

 ウェイターが深くお辞儀をして見送ると、「先輩」と、背筋を戻した彼に女性従業員が話しかける。


「喜八郎さん……でしたっけ。あの人、すごかったですね」


 ウェイターは大きな声で呟いた。


「ああ、ゴミ箱から拾った廃棄クズ肉にレモン汁をぶっかけて焼いただけなのに、水道水まで有難がってベタ褒めしていきやがった」


 常連客たちの狂ったような笑い声は、今日の『エフ』をよりいっそう盛り上げていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る