第4話 花売りの初恋(3)
翌朝、ユーゴは朝食のテーブルであくびを噛み殺していた。昨晩は自分の発見に興奮してしまい、なかなか寝付けなかったのだ。ブッフェ形式の朝食だが、睡眠不足のせいであまり食べられそうにない。向かいに座るルチアーノの皿を見ているだけで満腹になりそうだ。
「そんなに取ったら一日で全メニューを食べ尽くしてしまうんじゃないか?」
テーブルはソーセージにスクランブルエッグ、マッシュポテトの他、料理名のわからない野菜や肉の煮物のようなものが載った皿でぎっしり埋まっている。手当たり次第に取ってきたようにしか見えないが、盛り付けのセンスが絶妙なのか、不思議と下品な印象は受けなかった。
「作家のサマセット・モームの名言で、こんな皮肉があるのをご存知ですか? 『イギリスで美味しい料理を食べたいのなら、朝食を一日三回食べよ』」
「君の場合は、一回の朝食で三回分じゃないか」
深く考えてはいけない。ユーゴは大人しく、自分の食事に専念することにした。
ルチアーノが全ての皿を制覇し、デザートを取りに行くと言って席を外した時だった。ヒールが床を叩く音が近づいてきて、ユーゴのすぐそばで止まった。
「ハイ、ムッシュ。良い朝ね」
顔を上げると、昨日遠目に見た女性が立っていた。ヴィト・カレッリの娘、べルティーナだ。ユーゴは挨拶を返してから、ルチアーノがいるであろうデザートの置かれた辺りに目をやった。
「ルチアーノなら、すぐに戻ると思いますよ」
しかしべルティーナは、その必要はないというように首を振った。ウェーブのかかった艶やかな黒髪が揺れる。
「これを彼に渡してちょうだい。私の父からよ」
べルティーナは手に持っていた紙袋を、半ば押し付けるようにしてユーゴに持たせた。
「中身は?」
「見ればわかるわ」
妖艶な笑みを残し、べルティーナは再びヒールを響かせて去ってしまった。そのままホテルを出て行ったので、ここに泊まっていたわけではないようだ。
「彼女は何を置いて行ったんですか?」
テーブルに戻ったルチアーノは、皿を置きながらユーゴに聞いた。
「なんだ、気づいていたのか」
「こちらを窺っていたので、僕がいない方が良いのかと思って席を立ったんです」
その口ぶりだけでは、彼とべルティーナの関係がどんなものなのかわからなかった。ただ、昨晩の夕食の時のような警戒感はない。
「君にこれを渡してほしいと頼まれただけだ。……君の叔父さんからだそうだ」
ルチアーノは紙袋を受け取ると、中身を取り出した。出てきたのは、冷めた青色の古書だった。
「ボルヘスの『
「どこの国の作家なんだ?」
「アルゼンチンです。ラテンアメリカ文学では必ず名前が出る巨匠ですよ。詩集やエッセイも書いていますが、やはりこの伝奇集にまとめられた短編が有名ですね。幻想的で解釈が難しい物語も多いですが、独特の雰囲気に浸るだけでも楽しめると思います。架空の本を引用元として注釈を書いたり、それまで誰も思いつかなかったようなことをした人でもあります」
ルチアーノは楽し気にすらすらと語り、本をパラパラと捲っていたが、裏表紙を開いた時、何かに気づいたかのように手を止めた。
「どうかしたのか?」
ルチアーノは本に貼られていたらしきものを剝がし、テーブルに置く。やや厚みのある、ブラスチックのカードのようなものだ。
「これは……発信機か?」
「ええ、おそらくGPS発信機ですね。本はおまけです」
ルチアーノは普段より苦そうな顔をして、コーヒーカップを傾けた。
「なぜそんなことを?」
ユーゴには、親戚がこんなものを寄越す理由がわからなかった。
「僕は稀覯本を扱うことも多いですから、横取りを狙っているのだと思いますよ。実際、力ずくで奪われそうになったこともありますし」
「力ずくで? それは度を越えているな」
そういえば、ニューヨークの古書店でそんな話を聞いた。まさか身内に敵がいたとは。
「彼が僕の居場所を把握したい理由は、もう一つあります」
ルチアーノはにやりと笑った。
「僕は叔父が長年欲しがっている古書を持っているんです。元は母のもので、父の蔵書と共に叔父のものになりそうだったところをこっそり持ち出しました。何度も渡すように言われたんですが、養父母やディーラーの師匠が盾になってくれたおかげで、まだ僕の手にあります」
ルチアーノは本に挟まっていた栞を抜き取り、ユーゴに見せた。栞には写真が印刷されており、緑の豊かな山を背景に石造りの家々や教会が写っている。写真の上には金色の英字が書かれていた。
「この栞はベルからでしょうね。養父母の故郷の村で、僕も毎年数か月はここで過ごしていました」
「何て読むんだ? モンテ……」
「モンテレッジオです。トスカーナ地方の北に位置する、丘陵に広がる村ですよ。ここに暮らす人々は、十五世紀に本の行商を始めたんです」
「本の行商人なんて聞いたことがないな。あんなに重いものを運んだのか?」
「大きな籠の中に本を詰めて、それを背負って山を越えていたそうです。モンテレッジオには、特産品と呼べるようなものが何もなかった。周囲の農地に出稼ぎに行っても、景気が悪くなれば働き口はなくなってしまう。それで、本を――それも古本を売って生計を立てていたんです」
しかし、何もなかったからといってどうして本なのだろう。ユーゴのその疑問を見透かしたように、ルチアーノは続けた。
「初めのうちは、生活のために売れる物は何でも売っていたようです。野生の栗や、栗の蜂蜜、干し茸に、教会で発行される聖人の御札や暦……。やがて、ナポレオンが登場したころから、人々には自由や独立の意識が芽生えます。でも、世界情勢も社会の仕組みもわからないままでは、何もできない。自分の力で自由に生きるには、情報が、知識が必要でした。そして、本が求められる時代が来たんです」
行商人たちが売る本は、庶民にも手が届く値段だった。小さな出版社から売れ残りや訳ありの本を仕入れ、露店を出して売って回る。売った先で客の要望や懐事情を知り、それに合わせてまた本を売りに出かける。彼らはマーケティングも仕入れも販売も、流通すら自分たちで担っていたのだ。
「僕を育ててくれた養父母は引退するまでヴェネツィアで古書店を営んでいましたが、先祖と同じ古書を扱う仕事を誇りにしていました。僕が古書ディーラーとして世界を巡っていることも、とても喜んでいます。かつての本の行商人とよく似た仕事だから、と」
確かに、そうかもしれない。世界を飛び回って、依頼された本を仕入れて売る。例えばその本が図書館に置かれたとしたら、そこから幾人もの人々が読み、感動したり知識を得たりするのだろう。
「……すみません、関係のない話を長々と」
ルチアーノは少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「いや、興味深い話だった。一度その村にも行ってみたいな」
「ええ、のんびりしたくなったらどうぞ。その時はご案内しますよ」
ルチアーノが栞を本に挟み込もうとした時、裏側に何か書かれているのがユーゴの目に入った。指摘されたルチアーノは栞をひっくり返し、手書きの文字に目を走らせる。彼の顔色がさっと変わった。
「何が書かれているんだ?」
「先ほどディーラーの師匠がいるという話をしましたが――彼の家が燃えたそうです」
「……家が、燃えた?」
理解が追いつかずにオウム返しをするユーゴに、ルチアーノは栞の文字を見せた。イタリア語の文章の他に、URLが書かれている。打ち込んでアクセスしてみると、ニュースサイトの記事だった。
「アドルフォ・カッシーニ氏の自宅が全焼……焼け跡から遺体は見つからず、カッシーニ氏が外出中に起きた火事と見られる。当局は放火の可能性を含めて捜査……」
拾い読みしていくと、粗方の内容は理解できた。火事があったのはひと月半ほど前のことで、例の置き土産が大英図書館に残されたころだ。ルチアーノはイタリアにいなかったため、知らなかったのだろう。
「放火だとしたら、君の師匠は無事なのか?」
「遺体がないなら無事だと思いますよ。昔から悪運の強い人ですから。しかし、一体どこで恨みを買ったのか」
まだ放火と決まったわけではないが、ルチアーノはその可能性が高いと考えているようだ。
「ベルティーナはなぜ、君に知らせてくれたんだ?」
「自分の父親が指示した結果かもしれないと心配しているからでしょうね。叔父は思考回路が過激ですから、師匠との取引で揉めて家を燃やすくらいはやりかねません」
まるでマフィアだという言葉を、ユーゴは飲み込んだ。気を取り直して、もう一つ質問する。
「じゃあ、彼女が君に直接接触せず、俺を経由した理由は?」
ルチアーノは小さく笑みを零し、答えた。
「僕が一人で動かないようにするためですよ。あなたに事情を知られてしまったので、叔父のところに乗り込むような危険な真似はできなくなってしまったということです」
「俺が知らなければ乗り込むつもりだったのか?」
「どうでしょうね。そんなことより今は『リリー』について調べるのが先じゃありませんか?」
ルチアーノは曖昧に微笑み、話題を逸らした。なるほど、ベルティーナは聡明で優しい女性らしい。先ほどは高飛車な態度だったが、内面はわからないものだ。ユーゴは記憶に残る面影を思い返し、密かに感心していた
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