第4話 花売りの初恋(1)
イギリス、ウェールズには「本の街」があるという。その街の名は、ヘイ・オン・ワイ。人口わずか一五〇〇人ほどの小さな街だが、古書店の数は四十軒以上で、古書の聖地とも呼ばれている。
「町全体が古書店のような場所です。かつての城も写真館も、建物はそのままに古書店になっているんですよ」
ルチアーノによれば、五冊のうち一冊に貼られていた蔵書票がその街の老舗古書店のものだという。代替わりはしたが、今も変わらず評判の店だと彼は言った。
ユーゴたちはロンドンから列車に乗り、まずはヘリフォード駅を目指していた。街を抜ければ車窓の向こうは絵画のような田園風景で、空の青と緑の丘のコントラストが美しい。ロンドンでの災難で荒んだ心も、牧歌的な情景に癒されていくような気がする。
「ルチアーノ、今日の予定だが……」
向かいに座る彼に声をかけたユーゴだったが、途中で口を噤んだ。ルチアーノはいつの間にか、頬杖をついたまま寝息を立てていた。細く開いた窓から流れ込む風が、そよそよと彼の前髪を揺らしている。
ニューヨーク、パリ、そしてロンドン。ほぼ休みなしで移動していたから、さすがに疲労が溜まっているのだろう。あるいは、少しは心を許してくれたということだろうか。数週間を一緒に過ごしていて、寝顔を見たのは初めてだった。別に距離を縮めなくとも仕事に支障はないが、懐かない猫が寄って来た時のような、ちょっとした幸福感があった。
列車の乗り換えまでは、まだ三十分以上ある。ユーゴはルチアーノを起こさないよう静かにトランクを開け、本を取り出した。
本のタイトルは、「TRAVELS IN EUROPE」。一八二八年に出版された、現代でいうところのガイドブックだ。イギリス人のマリアーナ・スタークという女性によって書かれたもので、同じシリーズにはインドやシリア、日本など、遠い国について書かれたものもある。
この本が書かれたのはナポレオン戦争が終結したころで、蒸気船と鉄道を使って旅をするイギリス人が増えたのだという。そんな旅行者たちのために、スタークはこの本を執筆した。彼女の本は最初期のガイドブックとして旅行者のバイブルとなり、一連のシリーズは大ヒットした。多くの改訂版も出されたが、ユーゴの手元にあるこの本は初版だ。
「表紙は比較的綺麗だが、中のページは穴だらけだな」
「気になりますね。経年劣化ではないようですし」
独り言のつもりだったが、応える声があった。良い睡眠がとれたのか、ルチアーノは満足そうに大きく伸びをしている。
「盗まれる前についた傷かどうか、店主に聞けばわかるでしょうね。それも、その本の来歴を探る手がかりになるかもしれません」
ユーゴたちはその日の夕刻に、ヘリフォード駅に到着した。翌日は休養日にしてのんびりと過ごし、ヘリフォードから今度はバスに乗り込む。ヘイ・オン・ワイまでは、一時間ほどで到着するはずだ。
「ヘイ・オン・ワイのワイは、川の名前なんだな」
スマートフォンの地図アプリを眺め、ユーゴが言う。ヘイ・オン・ワイの街は、ワイ川のほとりにあるようだ。
「ええ、ワイ川は蛇行しながら南下していますが、周辺にはニューブリッジ・オン・ワイ、スタントン・オン・ワイのようにいくつも似たような名前の街があります。どこも、のどかで美しい街ですよ」
バスはほぼ予定通りの時刻に、ヘイ・オン・ワイの街に入った。バスの時点から思っていたが、ずいぶんと人が多い。何度か来たことがあるというルチアーノも、首を捻っていた。
「毎年初夏にヘイ・フェスティバルという本のお祭りがあって、その時期は人が多いんですが、今の季節にここまで賑わっているのは初めてですね」
そのため、ホテルの部屋もなかなか取れない状況だった。これまでのように一人一室とはいかなかったが、なんとかツインの部屋をおさえることができた。
「ここ最近、観光客が増えているんですか?」
尋ねたユーゴに、フロントのホテルマンは満面の笑みで答えた。
「明後日から、街全体で
「Bonfire night」はガイ・ホークス・ナイトとも呼ばれるイギリスの祭だ。一六○○年代の初め、ガイ・ホークスという名の男が国王暗殺を企てたが失敗に終わり、国王の無事を祝うために始まったという。当初は
「そういえば、その方も今日から視察を兼ねて滞在されるそうで……ホテル王と呼ばれているヴィト・カレッリ氏です。ご存知ですか?」
ユーゴは小さく驚きの声を上げた。ここでその名を聞くとは。ルチアーノの父の弟、つまり叔父に当たる人物だ。
「ええ、知っていますよ。ヨーロッパを中心に高級ホテルを展開している人ですね。視察ということは、この辺りにもホテルを作る予定があるのでしょうか」
言葉に詰まったユーゴに代わり、ルチアーノがにこやかに言う。しかしユーゴには、感情のこもらない平坦な声に聞こえた。叔父との関係は、良好ではないようだ。もちろんホテルマンがそんなことに気づくわけもない。彼は頷いて続けた。
「まだ正式な発表はありませんが、どうやらそのようです。あちらの客層はセレブが多いでしょうから競合もしませんし、この街が栄える分には歓迎しますよ。街の景観に合うような、コテージタイプのリゾートなどが良いですねえ」
ホテルマンはこの街の出身とのことで夢が膨らんでいるようだが、ルチアーノの貼り付けたような笑顔のせいでユーゴは落ち着かなかった。まだ話し足りない様子の彼に、チェックインの手続きを頼む。部屋に荷物を置いた二人は、すぐに古書店に出かけた。
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