俺の死に場所

水森 凪

第1話

 人は自殺を「親不孝」「残された人のことを考えていない」と批判するが、あえて自分の立場から言わせてもらえば、決行できたやつは「生きることができない断崖絶壁に追いやられた草食動物」なんだと思う。

 そして彼らを崖に追い詰めた「肉食動物の姿」は、第三者にはわからない。

 それは自分を裏切った恋人であったり、毒親であったり、ブラック企業であったり、借金や難病、メンタルの病、芥川龍之介的な「漠然とした人生への不安」などなど、人それぞれだろう。

 その姿も知らない見えない奴らに、とやかく言う資格はないと思う。

 

 自分の場合は、常にこの世に絶望し続けるという精神所ヤマイを母親から受け継いだとしか思えないのだ。


 母親はいつも絶望していた。

 金持ちの男と結婚し、裕福な環境で二人の子ども―俺と姉を産み、ともに成績優秀で反抗もせず、親の命ずるとおりの学校に合格し進学し、姉は医者と結婚して子供を一人産んだ。俺もT大に難なく合格できる程度に出来は良かった。なのに、自分が幸福だと思えたことが一度もないのだ。いつも人生はモノクロだった、そう、母と同じに。

 母親は「どうしてあたしはこんなに不幸なの。世界は生きるに値しない。早く死にたいわ」が口癖だった。そのくせ、子どもの教育には隙なく熱心で、「あなたたちぐらいは私の言うことを聞いてちょうだい、でないと生きていけない」と訳の分からない脅迫をしてきた。

 不都合なことに父親の頭の良さを受け継いだのか俺たちは勉強すれば楽々いい成績がとれたので、ただ母親の笑顔が見たくて勉強してきた。

 百点の答案用紙や、合格の知らせを見た時は母親は微笑んでくれたが、じきに黄昏てしまう。そして「この世はくだらない。早く何もかも終わればいい」とかぶつぶつ言いながら酒を飲みだすのだ。

 俺たちは母親を幸せにすることを諦め、姉は逃げるようにして結婚し家を出て行った。

 父親は感情がないのかというぐらい淡々とした性格で、妻の不幸癖も見て見ぬふりで会社経営に没頭し、財産は増えていったがそのことで幸せになれた家族はいなかったと思う。


 俺が大学二年のとき、母親は突然死した。

 朝、父に揺り起こされて目を開けると

「今、ママ(父も俺たちもずっとママパパ呼びだった)が死んだ」と事実を淡々と告げられた。

 カミュの「異邦人」の最初の一行みたいだなと思った。

 そして、ああやっと母親は酒からも人生からも絶望からも逃げられたんだ。と安堵した。

 医者の言うところでは、心不全だそうだ。

 あんなに人生を嫌っていたんだ、本望なことだろう。


 ところが母親は、この世からすっかりと消えてはいなかった。たぶん、だが。俺のモノクロの、倦みやすい心の中に眉を作って住み着いてしまったのだ。

 

 この世は生きるに値しない。何をやっても何一つ面白くない、早く死にたい。

 呪文のように、俺の中にそのマイナスの思念が沁みついてしまったのだ。


 どうしよう、これは悩むべきことなのか。まず俺はそこから迷った。

 メンタルクリニックへでも行って、治してもらうべきなのか。いやいや、母子してこういう風に生まれついたんだから、死にたくてたまらなくなったら死のう、と決めて、それまでは淡々と生きればいいのではないか。

 もちろんこんなくだらない悩みを父や姉になど相談はするまい。他人に答えの出ない重荷を背負わせてどうする。たとえ自殺したところで、死んでしまえば何も悩むことはないのだから、そしてそれは自分が望めば可能なんだから、つまり、悩み苦しむことはないのだ。

 という結論を出し、俺は友達が一人もできないままの学生生活をただひたすら勉強に没頭しながら将来に何を望むこともなく生きてきた。

 だが俺の中の母親は、俺自身を押しのける勢いで勢力を増していった。


 こんな世界、生きるに値しないわ。まだぐずぐずとそこにいる気? ほら、コロナとかいう伝染病がはやり始めたわよ。あれは人口削減のために黒い勢力が撒いたものよ。戦争だの生物兵器だの、本当に、人ってバカね。あんたもバカの一人としてまだこんな世界でのうのうと生きる気? 何が楽しいの?


 正直これが、母親の思念だとしたら少々おかしい。もう死んでいるんだから、新しい社会情勢を交えて説教してくるのは変だ。もしかしたら、暇な時間をネットサーフィンで潰して、陰謀論ばかり眺めつづけた自分自身の思考かもしれなかった。


 だが、コロナがはやり始めたころから、なんというか。

 オラなんだかワクワクすっぞ、という高揚感が俺に湧いてきたのだ。


 今まであえて認めては来なかったが、自分は、不幸だ。だって幸せだと感じたこともなければこの世に望むこともない上に死んだ母に魂を乗っ取られているのだから、不幸なのに決まってる。だがあえて自死を望めば、母親の「計画通り」になってしまうようで、それがなんだか嫌だったのだ。

 あっちは病死でこっちは自殺。何だか自分の方が損じゃないか。だってこんな俺でもわかってる、脳みそはどうでも、肉体というものは本能的に「生きることを継続する」ことを求めて機能しているのだから、脳の勝手で殺しちゃったらかわいそうじゃないか。

 そこへコロナだ。世界中のあちこちで人がばたばたと死んでいき、都市がロックダウンされ、やれ酸素吸入器が足りないエクモが足りない医療関係者が足りない、と先進国が大騒ぎを始めた。

 中東の墓地では見渡す限りの大地に墓標が立てられ、ブルカをかぶった母親が、最後まで面会をゆるされず葬儀もできなかったのでどれが自分の息子の墓標かわからない、と泣き叫んでいた。

 そして、ワクチンが開発された。さあ一刻も早く接種せよと、国がせかし始める。アメリカの大統領が、副作用なんてあるもんかと、自らワクチンを受ける姿を公表していた。

 いい展開になってきたぞ。

 自分だけわけのわからない不幸にまみれて自死するなんて何だか悔しい、不公平だ、と思っていたが、母親の呪っていた世界が、平等に丸ごと不幸になっていくじゃないか。

 人種も性別も思想も関係ない、人類共通の不幸、不安。公平だ。

 俺が待っていたのはこれだ。みんなで死ねば怖くない。ざまあみろ、リア充ども。生きたくてたまらなかった連中め。

 

 俺はマスクもしなければ手洗いうがいもしなかった。大学へでも行って人混みでうつされてやろうと思ったら、休校になってしまった。会社もテレワークになって、気の知れない父親と毎日家で顔を合わせる羽目になった。

 飯は以前から来てくれている家政婦さんが作ってくれるし掃除もしてくれるのだが、食卓のうすら寒さは耐えがたかった。


「卓也、お前ワクチンは受けたか」

 味噌汁をすすりながら父が言う。

「まだだよ」

「早く打っておかないと、今コロナになっても病院はなかなか受診させてもらえない状態だぞ」

「そのうち打つからほっといて」

「お前がかかるとこっちも無事じゃすまないから迷惑なんだぞ」

「じゃあ一人暮らしするから金くれよ」

「こんな広い家があるのに勿体ないことを言うな」

「あそ」

 

 たいして言い争いにもならない。そして俺はひたすら、コロナで死ねることを願い、街をさ迷い歩いた。だが、姉とか従妹が感染し始めても、自分はなかなかコロナウィルスをお呼びできなかった。

 口ほどにもない病気だな。世界は何を騒いでるんだ。とことん自分はついてない。

 




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