マイロ・ウェリントン博士はアブストラクトな夢を見る
翡翠
ep.1 毒
霧がかかったロンドンの街並みは、どこか神秘的で、時折見せる石畳の輝きさえも古い歴史の名残を匂わせる。
レンガ造りの建物に囲まれたブルックリンな街並みは、少し先に見えるテムズ川の畔でしっとりとした風に包まれていた。
この静けさが、これから起こる事件を際立たせる事になるとは、誰も想像していなかった。
その日、グレイのロンドン郊外にある有名な「セント・ジョージ・クラブ」では、上流階級の人々が厳かな雰囲気の中、食事を楽しんでいた。
金の燭台に映る淡い光、磨き抜かれたマホガニーのテーブルが居並ぶこの場所は、静かな気品をたたえた紳士淑女たちの集まりの場だった。
だが、その優雅な空気は、ある刹那を境に急変した。
クラブの常連であり、経済界でも名高い投資家のリチャード・オルコットが突然、グラスを口にした後、静かに崩れ落ちたのである。
顔面蒼白、息も引き攣り、テーブルに置かれた豪奢なデザートワインのグラスが倒れて音を立てて割れた。
室内にいた全員が息を呑み、しばらくはただその場の異常なまでの静けさを感じていただけだった。
「毒だ!」という声が上がると、騒然とした空気が一気にクラブを包む。
オルコットの死はその日のうちに「毒殺」と判断された。
しかし、現場の捜査を進めるうちに、事件は一筋縄ではいかない複雑さを呈していく。
周囲にはあまりに多くの動機を持つ人物が集まりすぎていたのだ。
「なるほど、クラブで毒殺か 少し趣がありすぎるな」
薄暗い書斎の中で、マイロ・ウェリントン博士は煙草を燻らせ、不謹慎な冗談を言いながら新聞の記事を読み返していた。
彼は犯罪心理学の第一人者で、独自の洞察力と鋭い観察眼で数々の難事件を解決してきた。
その反面、ちょっとした風変わりな行動や皮肉っぽい態度が、彼を単なる名探偵以上に特異な存在と化していた。
「毒殺なんて、何と古い もっとこう、派手で分かりやすいものを期待したんだが」
「派手じゃないからこそ、効果があるんですよ」
助手のエミリーは少し呆れたようにマイロを見やった。
彼女は知識豊富な助手で、博士の突飛な推理の数々を支えている存在だ。
「それにしても、どうして殺されたんでしょうね、オルコットは誰からも尊敬されていたはずなのですが」
マイロは微笑みながら、デスクの上に広げたサイトを指差した。
「ねぇ、私が見たところ、彼を尊敬していなかった者の方が多いようだよ。特に、彼の投資の手腕に失敗して破産しかけた連中は、きっと彼の成功を恨んでいたに違いない」
「つまり、動機を持つ人間はたくさんいる、と?」
エミリーが首をかしげながら質問すると、マイロは楽しそうに指を鳴らして立ち上がった。
「その通り!まるで全員が犯人に見える。これは面白い!」
翌日、マイロ博士とエミリーはクラブへと足を運んだ。
現場は依然として封鎖されていたが、マイロが顔を出すと警察は何も言わずに通した。
彼の名声はそれほどまでに高かった。
「さて、どこから調べようかな」
マイロは部屋の中央に立ち、テーブルをじっと見つめた。
燭台が倒れ、グラスが割れた形跡は、混乱の中で生じたものに違いなかった。
だが、彼が注目したのは、テーブルの隅に置かれた一つの小さな瓶だった。
「これはデザートワインの瓶だが、何か妙だと思わないか、エミリー?」
マイロが問いかけると、エミリーはその瓶を慎重にそれを見つめた。
「ん…ラベルが少し剥がれた後、その上から新しいものを貼り直した様に見えます」
「そうだ、これだな」
マイロは目を輝かせ、ワインの瓶を手にした。
「犯人はこのラベルと同じワインとすり替えたんだな、おそらく毒は直接このワインに混ぜられた」
「でも、ワインをすり替えるなんて簡単じゃないはず、このクラブのメンバーは皆、ワインに目が利くはずですよ」
「そこが面白いところだ」
マイロはにやりと笑った。
「このクラブの会員の中に、ワインの知識に疎い者が一人いる そして、その人物こそが犯人、または手助けをしたに違いない」
エミリーが少し眉を上げた。
「誰がそんなことを?」
「クラブのスタッフに話を聞いてみよう 彼らが手掛かりを知っているかもしれない」
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