第3話 家に帰れば、何故だか小悪魔
十七年の人生で、たった一度だけだけど、人が恋に落ちる瞬間というものを見たことがある。
今から三年前。それは寒い冬の日だった。
「……格好いい」
そう呟いた少女の目は輝いていて、真っ直ぐにグラウンドを駆ける
祈るように結ばれた指先なんかはぎゅっと握りしめるように縮こまっていた。足は小さく震えた後で石のように固まってしまう。
そうした後で、少女の口からは真っ白な吐息が漏れる。
どこか満足そうで、でも不安そうな。
少女は長い瞬きをした。
自分なんかが、そんな卑屈さが垣間見えた。けれど、その後で、少女は。
「──あの、マネージャーって募集してますか?」
とびっきりに緊張しながらも、そう言ったのだ。
***
「ただいまー」
あの後、蒼太と小金井と軽い昔話をしてから、俺は帰路についた。
高校から家までは徒歩十五分くらいでいつもなら着く。けれど、今日はそのせいか、二十分くらいかかった気がする。
「にしても、白峰さんかぁ……」
ビジュアルはこの世でも最強クラス、料理も上手く、話をしてみての勘だが、相当頭も良さそうに感じる。性格は……まだ判然としないが、悪女って感じはしない。多分いい子だ。
「他のヒロイン達は大丈夫だろうか……って、ん?」
靴を脱いで廊下に上がると、リビングからは談笑する声が聞こえてくる。
俺には、大学生の姉
「姉さん、知り合いでも呼んでるのか?」
俺はそのまま二階の部屋に、鞄を置いてからリビングに向かうことにした。
「姉さん? 誰と話して……げっ」
リビングの四人がけテーブルの一席に腰を下ろしていたのは。
「早見先輩。お邪魔してます」
白峰 翡翠はごく自然に一席に腰を下ろていた。そのまま、首だけで振り返って、小さく手を振ってくる。
「な、なぜ、白峰さんが……ここに」
「連、あんた凄い子と仲良くなったのね。こんなに可愛い子、他にいないよぉ?」
机の上に置かれた二つのマグカップからは湯気が上がっているのを見るに、ついさっき来たらしい。
「いえいえ、お姉様。私なんて何も凄くはありませんよ。それに、可愛いというのも人によって判断基準が違います」
「いやいや、翡翠ちゃんは誰が見たって可愛いよぉ? もう食べちゃいたいくらい」
姉は姉で、随分と白峰翡翠を気に入ったようだった。何せ、ズボラなうちの姉が茶菓子を人に振る舞うことは相当に珍しいからだ。
「……って、はぁ!?」
驚きのあまり、膝から崩れ落ちそうになる俺。何せ、お茶菓子として提供されていたそれは……。
「秘蔵の、羊羹……それ、俺がこの前買って来た奴だよね」
「あれ? そうだっけ? ごめんごめん、また買っておくから、許してー」
「……ぐぅ」
もはや、それが果たされぬ約束であることは分かっていた。何せ、あれは行きつけの和菓子屋が創業百周年を記念して作った限定品なのだ。つまり……後百年待て、と?
「はあ……着替えてくる」
愕然としながら、俺は再び二階へと戻ろうと背を翻す。すると、袖を掴まれた。
「早見先輩。お部屋にお邪魔してもいいですか?」
「え? ……えっ!?」
「えー、いいじゃない。減るもんじゃないし、私はそろそろ合コンに行ってくるから……くれぐれも節度を持って、
おい、やめてくれ。姉よ。大学に入り、パリピの道を直走る貴女とは違い、貴女の弟は現在思春期まっしぐらなのだ。心はガラスよりも脆いと思っておくれ。
「大丈夫です。何があっても……私は、ふふふ」
「こ、怖い」
「では、行きましょう? 先輩」
そうして、本当に白峰翡翠は部屋までついて来た。
勉強机にクローゼット、リクライニングのベッド。別に面白いものはないはずだが。
「ここが、夢にまで見た早見先輩の、お部屋……」
「お、おう。急にどうしたの?」
「すぅーはぁー」
なぜ深呼吸? というか、そもそも……何故、うちにいるのだろうか。
「今日はどうしたの? まだ何か用があった感じ?」
俺は壁にかかったハンガーを持ち上げて、脱いだブレザーを引っかけながら尋ねた。
「いえ、そんなに大層なことではないですよ。ただ挨拶に伺っただけなんです。 ……座ってもいいですか?」
白峰翡翠はベッドを指差す。俺は頷いた。
「勿論。それで、挨拶って?」
「はい。今朝方──お隣に越して来たので」
「なにぃ!?」
驚愕の事実。確かにここ二、三年隣のマンションは何部屋か住居者募集の看板を立てていたが、にしたって唐突だ。
「高校からは一人暮らしをすることになったので、どうせなら先輩にもっとお近づきになりたかったんです」
「だ、だからって」
「学校までは徒歩十五分ですから、毎朝八時ごろに迎えに来ますね? 一人暮らしはご飯を作り過ぎてしまうので、お弁当も作らせて下さい」
「待って待って。話が急すぎるって」
距離感がおかしい。俺からすれば、今日が初対面なのだ。そこまでしてもらえる理由はないし、求めてもいない。
「……嫌、なんですか?」
まるで、縋り付いてくる子猫のような瞳。そんな目を向けられれば、拒否するのは、難しい。
「分かったよ……」
もう脅迫だろ、それは。なんて思いながら、俺は頷かざるを得なかった。
「じゃあ、決まりですね。このお話はおしまいにしましょう。……さてさて」
白峰翡翠は徐に立ち上がると、しきりにキョロキョロと部屋を見まわし始めた。
「先輩、お尋ねしたいんですけど、何かを隠すなら先輩はどこに隠しますか?」
「え?」
「それは勿論、人に見られたくなくて、見られるのが恥ずかしい物です」
何かの心理テストだろうか。少し考えてみる。
「やっぱり、テンプレート的に考えるとベッドの下……とか?」
俺ならそういう物は、クローゼットの段ボールの底に隠すが。
「なるほど、ここですね?」
「あれぇ!?」
心を読まれたのか? そう思うほどに、白峰は真っ直ぐクローゼットへと向かう。
「知っていますか、先輩。人っていう生き物は隠し事ややましいことがある時、無意識に視線をずらしたり、その物を隠した場所自体を見たりするそうですよ?」
したり顔で言ってくる白峰 翡翠。えっへんとでも言いそうな顔だ。
「中、別に見てもいいけど、面白いものは入ってないと思うよ?」
「大丈夫です、先輩。私はどんな先輩でも受け止めてあげます……あっ」
クローゼットを開くなり、その視線は中にあったタンスの隣。半ば口を開いた段ボールに釘付けになってしまう。
「これって……」
「トロフィーだね。サッカーやってた頃の」
確か中学の頃、県四位になった時のものだとかいくつか。遡れば小学校時代のものまである。半ば、強引に当時の監督から押し付けられた物だ。
「……ごめんなさい」
白峰は途端に、しゅんと反省した顔をして、クローゼットの扉を閉めた。
「え? 何が?」
謝られるわけがわからない。別に俺が見てもいいと、行ったのだから何があっても怒るつもりなどないのに。
「……いえ、少し無神経でしたので」
なんとも気まずい空気が流れる。
うーん。別に気にはしていないのだが……。
ちらり、俺は壁にかけられた時計を見た。
なんやかんやともう三時頃だ。
「夕ご飯の買い物に行きたいんだけど、白峰さんはどうする?」
今日は木曜日。夕飯当番は俺だ。昨日、姉が冷蔵庫の中身を使い果たしていたから、何か買いに行かねばならない。
「あ、私も行きます。いいですか?」
「いいよ、それじゃあ……はっ!」
いや、待て。今考えると、それって随分なラブコメムーブなのでは?
「や、やっぱり……」
「さ、行きましょう? 先輩。それとも、一度は了承したのに、やっぱりダメ、なんて言いませんよね?」
咲き乱れる白薔薇のような笑顔だったが、その裏に途轍もない圧を感じた。
「あ、はい。近くのスーパーで、いい?」
「勿論です。私、この辺りの土地勘ないので教えてくださいね」
俺は適当な服に着替えて、白峰翡翠と共に家を出た。
スーパーは駅近の商店街を抜ければ、すぐに着く。
「まるで、新婚さんみたいですね。先輩」
カートにカゴを置いて店内に入ると、あざとく頬を赤らめながら、腕を組んできた。
おいおい、いかに馬を射るためとはいえ、それは勘違いされるぞ? 俺にではなく、周りに。
「夕ご飯は何がいいですか? 腕によりをかけて作ってあげます」
「え? いや、そういう話じゃないよね」
「私。お料理、得意なんです」
いや、なんか聞き覚えのあるフレーズだなぁ。
なんて思った矢先のことだった。
「ん、あれ?」
野菜コーナーに見知った顔が一つあった。
「あっ、ど、どうも……早見、君」
目が合うなり、向こうは会釈をしてきた。
その少女とは、クラスメイトの一人。
「──風川 月、ですか」
ぞっ。何故かは分からないが、白峰翡翠のそんな一言に肌の表面がぞくりとした。
いや違う。
俺が本当にゾッとしたのは、白峰翡翠の言葉にではなく、その目にだった。
まるで、その瞳は親の仇を睨むように鋭く細められていたのだ。
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