母との喧嘩
えたいの知れない不吉な塊が、なんて昔の文豪みたいなこと言うわけじゃないけど。
重たい感情が、わたしの心をずっと締め付けているのは、間違いなかった。
山の上のバス停で降りてから、古びた病院の入口にたどり着くまで、長い。違う。わざと、長くしている。歩幅を縮めて、歩いている。
できるだけ行きたくない。嫌だ。会いたくない。
大嫌いな母とまた顔を合わせなければならないのが、嫌で嫌で仕方なかった。
しかも、喧嘩をした翌日に。
母のことは、昔から苦手だった。
強い口調で他人を責めるくせに、都合が悪くなるとすぐに黙り込む。家事も育児も放棄して、ひとりの世界に閉じこもる。
仕事で遅い父の帰りを、お腹を空かせながら待ちつづけた幼少期の思い出がある。忘れたくてたまらないのに、記憶の一番浅い位置でずっと漂い続けている。
高校卒業とともに実家を出たのは、わたしにとって必然だった。
頻繁に送られてくる偉そうな近況確認を、すべて無視しつづけたのも必然だった。
このまま、少しずつ、母と離れられたら。
そんな儚い願いは、わたしが結婚して、娘を産んで、わたし自身が母になった今、見事に
病院の受付で記名を済ませ、母の眠る病室へ向かう。
去年の末に肺炎で入院した母は、治療の甲斐あって一命を取り留めたものの、寝たきりの生活になっていた。長期療養病院、昔で言う老人病院に、それから、ずっと居る。
ずっと。
死ぬまで、ずっと。
長期療養病院って、そういう場所だ。元気に退院できるひとが入るところじゃない。
可哀想だと思ってしまった、わたしが悪い。
目が悪いのを理由に見舞いを面倒くさがる父を怒った、わたしが悪い。
じゃあお前が行け、の一言に適当な言い訳も返せなかった、わたしが悪い。
それから週に数回、着替えや、お菓子や、雑誌を持って、わたしは山奥の病院を訪れている。
仕事を休んでまで。
娘を保育所に預けてまで。
大嫌いな母のもとを、訪れている。
早く死ねばいいのに。
そう浮かびかける本音も、「良い子ちゃん」のわたしが打ち消してしまう。もはや、呪いだ。
母の病室の前についた。
控えめに、でも母に聞こえるように、入口のドアをノックする。
ぽす、ぽす、と古い音がした。返事はない。
わたしは母の着替えが入った手提げを抱え直して、病室に入った。
4人部屋だ。他の患者さんの迷惑にならないように――ほとんどのひとは、認知症がひどくて状況もよくわかっていないけど――、静かに母のベッドへ移動する。
母は壁のほうを向いて、布団に包まったまま、黙っていた。
「母さん、来たよ」
わたしは普通を装って、声をかける。
返事はない。
きっと、寝ているわけじゃない。
怒っているんだ。母はまだ、怒っているんだ。
わたしは唇を噛む。
袋の中から着替えの束を掴んで、細長いロッカーに突っ込んだ。
無造作に。丁寧にやらないことが、「良い子ちゃん」のわたしに邪魔されないぎりぎりの抵抗だった。
本当は、怒りたいのはわたしのほうだった。
母親らしいことなんて、ひとつもしたことないくせに。
会うたびに、わたしの自尊心を傷つけまくっているだけのくせに。
「あんたの娘、まだオムツ取れないんだって? もう年少なのに? ちょっと頭が遅れてるんじゃないの。ちゃんとしつけなさい」
我慢できなかった。
わたしのことはともかく、娘のことを言われるのは。
安易な偏見にも腹が立った。
気づくと、「良い子ちゃん」のわたしを押しつぶして、本音が悲鳴みたいに唇を飛び出していた。
「あなたなんかに、そんなこと、言われたくない。ろくに、愛情も、注いでくれなかったくせに」
その言葉は、母に突き刺さったようだ。
もしくは、絶対に言い返してこない壁みたいな相手から、思いもよらぬ反撃を食らって驚いたのか。
いずれにせよ、母はそれ以上何も言わなかった。
壁のほうを向いて、布団に包まって。昔と同じように、ふてくされて、ひとりの世界に閉じこもってしまった。
一晩明けても、まだ一緒。
再訪したわたしも、無視して、閉じこもり続けている。
汚れ物を入れたビニール袋の口をしっかり縛って、手提げの中に突っ込んだ。
お見舞い作業は、いつもの罵詈雑言がないから早々に終わってしまった。
このまま帰っても良いのだけど、なぜか腑に落ちない。
別に感謝の言葉を期待しているわけでもないけど。
これだけのことをやってくれている相手のことを無視し続ける、母の思考が理解できなかった。
昨日の勢いがまだ残っていたのか。
それとも、生涯をかけて溜めつづけた鬱憤が、ついに崩れ落ちかけているのか。
つい一言、言ってやりたくなってしまった。
「ねえ。昨日のこと、わたし、謝るつもりないから」
言い出してしまうと、止まらなかった。
「わたしのことは好きに言っていいよ。もう慣れたし。母さんがそういう人だってことも、わかっているから。でも、娘のことはやめて。口出さないで。あの子は、あの子なりに頑張って成長しているんだから。一度も、顔も見せたことすら、ないくせに。分かったようなこと、言わないで」
母はまだ、無言だ。
指先ひとつ、動かそうとしない。無反応だ。
わたしの気持ちを、無かったことにしようとしている。
違う。わたしの存在すら、無かったことにしようとしている。
母の無反応が、そんな風に、見えてしまった。
怒りが、熱くなって、喉元にこみ上げる。
「なんとか言いなさいよ……こっち、向きなさいよ!」
「ちょっと」
つい興奮して大きくなった言葉尻を、男性の声が遮った。わたしの肩を、ぽんぽん、と手が触れる。
「病院ですので。お静かに」
白衣を着た、お医者さんだった。
入院のとき、病状の説明を受けた気がする。母の主治医だ。
わたしは顔を隠して、口の中だけでもごもごと、「すみません」と言う。自分の汚い感情を他人に見られてしまった気がして、とても恥ずかしくなった。
慌てて荷物をまとめて、帰り支度をはじめる。
お医者さんは、そんなわたしを一瞥すると、母に近寄って話しかけはじめた。
「こんにちはー。調子はどうですかー?」
よく通る、優しい声色だ。プロだなあ、と思った。
返事も言えないひとが、ほとんどなのだろうに。
優しく振る舞い続けることができるのは、すごいことだ。
わたしには、お見舞いの間すら、優しく振る舞うことができないのに。
来るときとは別の重たい感情を抱え込んで、わたしは部屋を去りかけた。
ふと、母に伝えなければいけないことがあるのを思い出して、振り返る。
「あ、母さん、冷蔵庫の中の果物は今日中に――」
言いかけて、止まった。
さっきまで母と向き合っていたはずのお医者さんが、こちらを見ていた。まぶたを大きく開いて、わたしを見つめていた。
しっかりと、目が合った。
お医者さんは、何も言わない。目を合わせたまま、こちらへ歩いてくる。
かつん。
こつん。
革靴の音が響いた。
止まる。
わたしの目の前で、聴診器を外す。
そして、ゆっくりと、告げる。
「あなたのお母様はもう、息をしていないようです」
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