第9話


 清霞が着いたぞ、と呼びかけた。藍は窓から顔出して見て、その圧倒的な城壁に勝るとも劣らない塀の高さにあんぐりと口を開けた。いつもは遠くから見ているだけだったのが、近くに来るだけでこんなにも印象が変わる。

 馬車はそのまま塀を通過し、いくつかの宮を過ぎ、ようやく止まった。馬車の扉が開く。

「おかえりなさいませ。殿下」

 恭しく頭を垂れる宦官の顔を、藍は知っていた。燈夏の屋敷で会ったことがある。名前は確か宗柊だったか。

「ありがとう。宋柊。途中で拾った客人がいる」

「……どう、も」

 あまり視線を交わらせぬように、藍は俯きがちに挨拶した。宗柊はきっと親の仇かのように藍を睨みつける。どうも藍はこのお付きの宦官に嫌われているらしく、顔を合わせるたびにこうして睨んでくる。

「こっちだ。藍」

「う、わ……でけぇ……」

 清霞の後についていきながら、辺りを見上げずにはいられなかった。そこは藍がよくテレビやネットで目にしていた宮殿そのものだったのだ。

 朱色の太い柱に幾本も支えられた重厚な広い屋根はどこまでも続いており、終わりが見えない。柱と屋根を繋ぐ虹梁まできちんと染められ、嫋やかに空を飛ぶ龍が虹梁の一つ一つに描かれている。

 燈夏の屋敷も、もちろん立派なものだったが、それとは比にならない。それがいくつもいくつも行く先に現れるのだ。

 なんだか場違いなような気がして、藍は背中を丸めて縮こまるように歩く。しかし、歩けど歩けど他の人には出会わない。

「俺、ここに来るの初めてなんだけど、ここにいる人って少ないのか?」

 宗柊がぴしゃりと跳ねのけた。

「そんなわけないでしょう。殿下のお心遣いで回り道をしているのです」

「あ」

「そんな仰々しいもんじゃないよ。藍は青い目を人に見られるの、嫌なんだろう? それに皇子に会ったら皆、頭を下げなきゃならないからね。仕事してる人とか、僕が通り過ぎるまで足止めさせるのは居心地が悪い」

 塀に沿って、人のいない外側を通る。

 ようやくたどり着いたのは、城の中でも外れにある殿舎だった。他の派手な殿舎に比べれば、こぢんまりとしていて目立たないが、まるで神殿のように洗練された雰囲気を醸し出していた。

 清霞に案内されて中に入る。窓がなく、燈夏の屋敷の倉庫のように薄暗かった。部屋の中央には几がひとつと、椅子が二脚。促されて藍が座ると、宗柊が引いた椅子に清霞も座った。宗柊は一礼して、部屋の隅にひっそりと空いた通路へと姿を消した。

「さて、本題に入る前に……ちょっと調色師の歴史を話しておこうかな」

「調色師の?」

「そう。胡黄国の調色師の歴史はかなり古くからあってね。その起源は定かではなく、土着民の力が今になるまで受け継がれている、だとか、皇族が調色の力を持っていただとか、いろいろな噂がある」

そういえば、と藍はずっと疑問に思っていたことを投げかけた。

「調色師って空飛べたり、物を浮かせたりできんの? もしくは、そういう人って、胡黄国にいたりする?」

 清霞がきょとんとした。中性的でもともと目尻が下がっているから、一気にあどけなくなる。それが存外に面白可愛くて藍は気に入っていた。

「ん-。少なくとも僕は聞いたことないかな。僕も一応調色の力はあるけど、できないしね。藍の住んでいた地にはいたの?」

「……いや、うちにもいなかった。けど、そういう人間がいるかもしれない、みたいな噂話があったんだよ。まぁ、ただのおとぎ話だと思うんだけど」

 調色師は魔法使いというわけではないらしい。

 清霞の話によると、陰陽師のように祈祷や占術を行う職はあるようだが、いわゆる藍の想像するような「魔法」はないのだ。

 清霞は話を続けた。

「調色師は国の建国以来、ずっと胡黄国の産業から芸術まですべての土台になって支えてきた。なんせ『色』は誰の視界にも映るものだからね。国家とも深い関係を調色師たちは築いている」

 様々な場面で調色師は重要な存在だった。

「調色師になるには資格はいらない。誰だって自称することはできる。だけど、調色師として名をあげるには、例えば通りでの調色の力を見せる芸をしてみたり、工房の一員から独立して顧客をこつこつ獲得してみたりと、工夫次第だ。なかなか大成するのは難しい。そんな中で、最も有効で安泰なのが、色の品評会だ」

「品評会?」

 清霞は頷いた。

「四年に一度開かれる調色師たちの夢の舞台。調色師たちが作った色を城に持ちよって、献上する。そして皇帝が直々にその中から最も優れている、美しいたった一色を選ぶ会。ここで選ばれた日には、もう、どーんと一躍有名になる上に、その後の調色師人生は一生安泰なこと間違いなしだ」

 調色師たちは品評会に向けて、世界にたったひとつだけの特別な色を作る。そんな突き詰められた特別な色から、選び抜かれた一色。それ以外の色はすべて褪せて見せるほどの輝きを持つ色がそこで決まるのだ。

 さらに皇帝のお墨付きでもある。その品評会から二年ほどは、選ばれたその一色と同じ系統の色――赤い色が選ばれれば赤系統、黄色が選ばれれば黄系統のような――が市場を席捲する。喉から手がでるほど欲しい称号だ。

「今から八年前の品評会で、とある少年が献上した色が、場をかっさらい、他に圧倒的な差をつけて、皇帝に選ばれた」

 藍もピンときた。

「……まさかそれが」

「当時、十二かそこらの、崔燈夏だった」

 息を呑んだとき、奥から宗柊が平たい箱を持って現れた。宗柊は箱を几に置いて、再び奥へと姿を消す。

 清霞は視線で藍に、開けるよう促した。藍は何度か深呼吸してから、意を決して蓋を持ち上げた。

「――青」

 触れるのも躊躇われる、寒々しいほどに冷たい、青い衣だった。

 紫がかった青。純粋な青というよりかは、青鈍色や鼠色もうっすら含んでいるようだった。藍は言葉を忘れて、衣を見つめた。

「触ってみな。これが崔燈夏が有名になった発端の色だ」

 恐る恐る手を伸ばして、衣に触れる。気のせいなのに、氷で心臓を貫かれているような心地がした。身体の芯から冷えて、それに藍は恐怖と同時に、盲目的に信仰するような陶酔を感じて、涙がこみあげてくる。

 清霞は藍の様子を見かねて、蓋をした。

「この色が出たとき、当時の審査員たちは騒然とした。こんなにも人を惹きつけて離さない。しかしぞっとするような色は誰も見たことがなかったから」

「これを、本当に燈夏が?」

「そうだよ。当時齢十二歳の燈夏がこの色を出したんだ。これを見て藍がどう受け取るかは自由だけど、それは間違いない」

 藍は絶句した。いったいどんな色を混ぜれば、こんな氷のような色になるのだろう。燈夏にそんな色を作らせるほどの何かがあったのか。

「調色師の力は先天性……生まれつき備わっているものだから、色を操ることができる子どもは別に少なくない。だから、それまで崔燈夏は無名の調色師だった。しかし、この青色で、一気に脚光を浴びることになった」

「だから、『碧の人』?」

 清霞は頷いて、その青を封印する蓋を手のひらでゆっくり撫でる。

「その通りだ。まだ人々は、これよりも強い青を見たことがない。これ以上の青を知らない。この青は燈夏を『碧の人』たらしめている」


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