第15話 ある歯車の記憶
目覚めた時、私は歯車だった。
路傍に転がる、小指の爪ほどの大きさの、くすんだ藍色をした歯車だった。
名前も記憶も存在しない。自分が一体、何に組み込まれ、何を動かしていたのかも分からない。
ただ私が歯車で、ただ独り、この道端に投げ出されているという事だけを知っていた。
今にして思えば、「物心ついた」というやつかもしれなかった。とにかく、私は気付いた時には知性ある歯車としてそこにあったのだ。
子供。
一人の子供が、近付いてくる。
その少年は、長いこと誰も目をくれなかった私を低い背で目ざとく見つけ、小さな指でつまみ上げた。
きらきらした目が私を上から下から眺め回す。私は恥じらいという感情をその時に覚えた。
「きれいだなぁ」
少年はそう言った。綺麗? 綺麗と言ったのか、私を。
少年は私をそっと首から提げたがま口の財布にしまうと、そのまま家路についた。
そうして家に帰るなり、少年は私を丁寧な手付きで優しく磨き上げた。
そうして自分の部屋の机の上に大層に飾り、私の事を「たからもの」と呼んだ。
その日から、そこが私の家になった。
それが、私と陽午仁との出会いだった。
幼い陽午仁は毎晩、机の上の私に語りかけた。
その日に「幼稚園」であったこと、「夕飯」のこと、「家族」のこと。
そして週に一度、欠かさず私を丁寧に磨いた。彼は物を大事にする人間だった。
それから部屋には時々、彼以外の来客があった。
彼とよく喧嘩をして彼を泣かせていた、やんちゃな妹。
「ソーセキ」と呼ばれていた、机に飛び乗って私を爪の先でいじくり回す猫。
道端で朽ちゆくのを待つだけだった私には眩しい程の日々は、あっという間に過ぎていった。
彼が「小学校」に上がって、よく外で遊ぶようになってからも、彼は欠かさず私に語りかけ、私を綺麗に磨き続けた。
「二年生」になってしばらく経ったある日の晩、彼は私に「お祭りに行こう」と言った。
あの時と同じがま口の財布に私を大事にしまい込み、父親と一緒に外に出た。
彼の歩み、足音、話し声。心地よい動きと音に身を任せていると、次第に彼の周囲が騒がしくなったのが分かった。「お祭り」に着いたのだ。
彼は独りであちこち歩き、「屋台」を幾つも回った。
時々彼の指が財布の中に入ってきて、小銭をつまみ出す。
その度に財布の口から彼の楽しそうな顔が覗き、私も何だか嬉しくなった。
ある屋台の前で彼は足を止めた。
「こんぺいとう……」
それは確か、彼が好きでよく食べている菓子の名だった。
きっと、瓶詰にして綺麗に並べられているのだろう。
彼はその屋台でしばらく迷っていた。小銭はもう少ししか残っていなかった。
その時、ふっ、と、身体が宙に浮く感覚がした。
冷たい早足の靴音。乱暴に財布が揺れ、お祭りの喧騒が少しずつ遠ざかる。
私は何故か、今、財布を持っているのが少年ではないと直感した。
「……どれ。ガキのから見てやるか」
果たして、少年とは似ても似つかない声が響き、財布の口が開く。
ぬっ、と入ってきた男の指が、最初に触れた私をつまみ上げた。
「……何だこりゃ。歯車?」
意地の悪い目をした男。いつの間にか、辺りは人気のない真っ暗な場所。
「……ゴミ、か」
ゴミとは何だ。
そう思ったのと同時に、浮遊感が全身を襲った。
ぽちゃん、と音がして、真っ黒で冷たい水に包まれる。
要するに男はスリだった。金平糖の屋台に気を取られていた陽午仁の財布を盗み、橋の上から私を川に投げ捨てたのだ。
冷たい水の底で砂利に囲まれながら私は夜を明かした。
このまま誰にも見つからず錆びてゆく己が運命よりも嫌な事があった。
彼に綺麗に磨いてもらった身体が、汚れてゆくこと。
恐らくは彼にもう、二度と会えないであろうこと。
この身が涙を流す生き物であったなら、きっと私はその時、泣いていた。
次の日の朝、日が差し込む水面を見上げながら、全てを諦めて意識を手離そうとしていた私に、近付いてくる足音があった。
「チッ。何でぇ、砂金なんかこれっぽっちも取れやしねぇじゃねぇか。大ぼら吹きやがったな、あの野郎め……」
小さくてぼろっちいざるで川の底を掬いながら歩いてくる、みすぼらしい老人。
そのざるの目が、偶然、私を掬い上げた。
「何だこりゃ。……歯車……か」
この老人も私を捨てるのだろう、と思っていると、老人は私をツナギのポケットにしまった。
そこで私の意識は途切れた。生命なきモノに死が訪れるとはお笑いだ、と思ったのを覚えている。
そうして次に目覚めた時、私は人形になっていた。
「ここは……どこですか」
思ったことが口を通して声に出た。目の前に座っていた老人が腰を抜かした。
私はすぐに状況を理解した。老人は歯車の私をこの身体のどこかに組み込んだのだ。
女の子供を模した人形。歯車に宿っていた「私」という意識は、この人形全体に乗り移った。
「
私が「市子」でないと知った老人はほんの少し落胆していたようだったが、すぐに気を取り直し、私に名前を付けた。
そうして今の私は生まれた。日川重工の一人娘、日川一号としての私。
父は私を本当の娘のように扱った。家事のやり方、バスの乗り方、人間として生きる術は全て父が教えてくれた。
何年か経ったある日、私は「学校」というものに行ってみたいと思った。
それを聞いた父は知り合いの「理事長」に話を付け、私をある中高一貫の私立に人間の生徒として通わせてくれる事になった。
「ほぉ……こりゃ、確かに……人間にしか見えんなぁ、重工」
「そうだろう、そうだろう。……なぁ、一号。お前がロボットなのはよぉ、周りにはなるべく隠しておくんだぞ。後々面倒になるからよぉ」
「ま、バレたらバレたで。
緩いなぁ、と思いつつも、私は心を躍らせた。「中学生」になるのだ。
そうして迎えた入学式で、私は一人の男子を見つけ、ロボットだてらに心臓が止まる思いをした。
茶黒の髪。優しい瞳。背は伸びていても、見間違えるはずがない。
陽午仁。
彼も、この学校に入学していたのか。
無いはずの鼓動が早鐘を打つ。彼と話がしたい。彼の声が聞きたい。彼と仲良くなりたい。
でも、なんと声を掛ければいいのだろう。
きっと私は、彼に初めて見つけられた時のように恥ずかしがって、上手く話せないかもしれない。
ひょっとしたら、三年が経って、高等部に上がってもまだ、友達にすらなれていないかもしれない。
それでも、彼と同じ学校に通えるだけで、私は……。
この続きは、私の脳内の「メモ帳」アプリに記録していく事にする。
他人には……父にさえ……見られたくない内容になりそうな気がするからだ。
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